12

 気が昂り、血が沸騰する。
 目の前の獲物の事しか、考えられなくなる。
 振り下ろされる爪も牙も構わず、息の根を止めるまで喰らいつきたくなる。

 そうやって、生まれ育った白銀の厳しい地を生き抜き、天敵の猛者と争ってきた。
 それは身の内に流れる、抗い難い“血”の本能だと理解している。それをおかしなものと考えた事はなかったが、その根付いたやり方が多くのものに恐怖を与えるのだと知ったのは、北の地を離れてからだった。

 獣人という種族の持つ、生涯決して切り離せない、獣の本性。
 何をもって、獰猛なのか。何をもって、恐ろしいのか。何が、一体悪かったのか。
 北の地を離れてからずっと、生きるための術を否定されたような思いは、わだかまりとなって残り続けた。

 けれど。


 ――ナハト

 ――助けて


 あの時、全て忘れて望んだ自分がいた。あまりにも単純すぎて、笑えてくる。




 角灯の明かりが全て消え、暗闇が押し寄せる。
 誰かの叫びを皮切りにし、次々と低い大音声が上がり、美しい月夜を引き裂いた。

 前触れもなく視界を奪われ、立て続けに仲間の悲鳴が上がれば、いとも容易く混乱の極地に至る。構わず剣を抜き払い、隣の仲間の腕を切り裂く姿もあった。
 滑稽の一言に尽きる。暗闇の中でもがき、溺れているよう。

 夜間の活動などに慣れているとしても、あくまでそれは人間の目。よほどの訓練を積んでいなければ、光を奪われた直後に動く事はまず不可能である。
 都市部で名を轟かせた山賊の一味というが……自分たちが不意打ちと強襲を受けるのは、どうもお気に召さないらしい。

 獣の感性が非常に強く、また夜行性の種である獣人のナハトにとっては、苦になる環境の変化ではない。すぐに目は切り替わり、彼らの引きつる表情を鮮明に捉える。
 ナハトは角灯の明かりが飛散すると同時に、賊の懐へ飛び込んだ。無防備な身体を崩し、喉を潰す。もがいた腕は雁字搦めに捻り、頭から地面へ叩き落とす。骨の折れる感触を手のひらで確認しながら、決して止まる事はない。振り回される剣は弾き落とし、突っ込んでくるものは受け流して放り投げる。

 恐れは、僅か一片もなかった。
 体格に勝るもの、力に勝るものと争って生存してきた経験と、一族の矜持が、ナハトのしなやかな躯体に闘争心をもたらす。

(まあ、この外見だから、こいつらも油断してたんだろうなあ)

 ナハトは冷静に見据え、淡い暗闇を舞う。
 あれほど喧噪に包まれた村跡は、瞬く間に、しんとした静けさを取り戻した。

 そこに佇んでいたのは、ナハトと、山賊の頭領だけであった。

「――こいつはたまげたな」

 深い髭の向こうでこぼした声は、純粋に驚いた様子だった。だが、かといって恐怖したわけではない。分厚く屈強な肉体には、褪せぬ戦意が浮かんでいる。

「ちっさい小僧かと思ったが、いや、大したもんだ」

 さすがは獣人だと、頭領の男は笑った。月明かりに慣れたその粗暴な瞳は、ナハトを真っ直ぐと見下ろす。その眼差しに怯む事はなかったけれど、気になるのは、あの匂い。
 頭領が動くたびに漂う――マントの匂い。
 白い分厚い毛皮から放たれる匂いに、ナハトの背はざわざわと落ち着かなくなる。
 何処かで嗅いだ、強烈な匂い。不愉快で、だけど無視できない、その匂いは果たして何だったか。
 黒い瞳を細め、ナハトは自らの鼻の下をぐっと擦る。

「……そのマントは、特別製かい?」
「これか……まあな。昔、俺が倒した獣の毛皮よ」

 悠然と、頭領は答える。
 十数名の部下を叩き落とされても、未だ変わらぬその余裕。自慢げに撫でる仕草から、男の自信が透けて見えた。

「これを着てると、大半の獣は逃げていく。獣人もだ、面白いぐらい警戒しやがる」

 小僧、お前もそうだろう? にやりと笑う頭領の無骨な手が、毛皮のマントをつまんだ。

「“北の王者”ってのは、大したもんだ。何十年経ってもその力を失わねえ!」

 声高々に放った言葉に、ナハトはたまらずピクリと反応した。

「北の王者……」
「そうよ、こいつはその時、一番でかいと言われたやつの――ホッキョクグマの毛皮だ」

 自慢げに、白いマントが翻る。その動きを、ナハトは自然と目で追っていた。
 薄汚れてはいるものの、未だその強烈な残り香を放ち、本能を畏怖させてくる、毛皮の正体。ナハトは理解し、そして思い至る。ああ、だからこんなに不快で、無視しがたいのだと。

 白い巨熊は、ナハトにとって――。

「……へえ、これはちょっと、驚きだな」

 自信に満ちた頭領の顔に、怪訝な色が浮かぶ。
 ナハトは怯えるどころか、身体を震わせ――笑ってみせたのだ。

「ここで“好敵手”に出会えるなんて、思っていなかったよ!」

 ナハトは地を蹴り、自らよりも遙かに屈強な頭領へ向かい疾走した。
 上衣を翻し、腰の後ろに両手を回す。シャラリ、と音を立て抜き払ったのは、これまで鳥獣を追い払うために使ってきた、短剣ではない。ナハトが得意とする本来の得物――対の短剣から成る、双剣だった。

 月光を受けて光る二つの鋭い煌めきを両の手に携え、躊躇なく踏み込むイタチの姿に、頭領は一瞬我を失った。少なくとも、目の前にいる細くしなやかな身なりの若造が、そうするとは思っていなかったのだ。

 重く振り払われた長剣と、双剣が、火花を散らして交差する。しかし、僅かに反応の遅れた分、頭領の方が押され、太い足がじりっと後退する。

「この匂い、確かにあいつらのものだ。あんまりにも長く離れていたから、一瞬忘れちゃったよ! 懐かしいなあ、本当に!」

 躊躇なく、二つの剣を携えたイタチが踊り狂う。しなやかに、優雅に――けれど、ぞっとするほど狂気的に。
 淡く照らされる月明かりの下、歪む猛獣の瞳が見えた。それは、いくつもの修羅場を潜ってきたはずの山賊の頭領の、生物としての本能を冷たく揺さぶった。

「ッそんな反応する奴ぁ、なかなか居ねえ。あんた、一体何だ。ただのイタチの獣人じゃねえのか!」

 一瞬でも抱いた恐れの感情を隠しながら、頭領が吼える。弾き合う鋭い刃が、音を立て激しく衝突した。月光に照らされる火花を片隅に見て、ナハトはにんまりと笑う。
 ああ、本当に、どうしてこういう反応をする輩が多いのか。
 イタチという種が、か弱く何の力も持たないだなんて、一体誰が言ったのだろう。

「イタチはイタチだけど、まあ僕たちに虚仮威しは通用しないねえ」
「虚仮威しだと」
「身体が大きく、優れた爪や牙、猛毒を持っていても、それに食らいついて放さないのが僕らの教えだ」

 二つのイタチの種の間に生まれ、姿こそ特筆すべき点のないごく普通のイタチのそれをだが、身体と本能に宿る“残り半分の血”は、北国に適応し、なおかつ強敵だらけの厳しい環境を生き延びてきた一族のものだ。
 ヒグマやホッキョクグマ、狼といった大型の猛獣たちと獲物や縄張りの奪い合いをしてきたこの種の本能は、ハーフといえどナハトにも色濃く受け継がれている。

 従って、生きたホッキョクグマを恐れるどころか進んで突撃してゆくような生き物が、中身のない剥いだ毛皮に怯むか否か。その答えは――執拗に攻撃を続ける姿で証明した。

 そして互いに宿る士気の違いは、交わされる刃にも明確に表れ始める。
 いつの間にかその戦いは、決して引かず執拗に狙い続ける獣と、無意識の内にそれを追い払おうとする人間の光景になりつつあった。

 至近距離に張り付いたまま剥がれないイタチの牙に焦れ、無骨な長剣が大きく払われる。
 がらんどうになる無防備な胴体を、ナハトは見逃す事はない。剣をかわしながら、その脇腹へ双剣の柄の先端を叩き込む。半ばめり込むように入った攻撃に、たまらず頭領が身体を折り曲げたところで、ナハトは跳躍する。鋭く放った回し蹴りは、難なく側頭部へ決まり、巨体がどうっと横に倒れ転がる。

 頭領の手から離れた長剣が、月夜を高々と舞う。静かに地面へ突き立てられた刃が、戦いの終わりを告げた。



 仰向けになる頭領の身体を跨ぎ、ナハトは正面に立つ。
 ホッキョクグマを倒したというから期待したが……思っていたよりも呆気なく片付いてしまい、肩すかしを喰らった気分だった。
 きっとその毛皮の主は、怪我か何かを負い、万全な状態ではなかったのだろう。倒したという事すら、そもそも怪しいが。

「……同郷って雰囲気じゃないな。あんた、もともと色んなところを流れてた口か」

 見下ろした頭領は忌々しそうに強面の顔を歪めていたが、双剣を突きつけられ、戦意は既にないようだった。

「……おめえ、一体、何だ」
「職業が傭兵なだけの、ただの獣人の旅行者だよ」

 ついでに言えば、その白い毛皮の持ち主――北の地の王者と、浅からぬ因縁が多少ある獣人だ。

「――“クズリ”って、知らないかな」
「は……」
「もしくは“ウルヴァリン”でもいいけど」




 ――クズリ、あるいは、ウルヴァリン。
 雪に閉ざされる北の地の限られた場所で生活する、イタチの仲間に分類される生き物。
 小型に属するものの、別名で“貂熊”と呼ばれる通りに、外見はとてもイタチには見えず小さな熊のよう。
 平素は愛らしいのんびりとした空気を持っているが、その実態はホッキョクグマや狼から平然と獲物を奪い取り、挙げ句、追い散らして噛み殺すまでの獰猛な性質を有す、紛う事なき肉食獣。
 恐怖心を持たず、自分よりも大きな相手に立ち向かう蛮勇と、小型にあるまじき凶暴性から――“小さな悪魔”とまで言われる生き物だった。




 ハーフとはいえその血をしっかり継いで生まれたナハトは、クズリの獣人の里で育った。
 北の地の頂点を欲しがったわけではないが、王者にもっとも近いホッキョクグマや狼の獣人たちとは、縄張りや獲物を巡って幾度も衝突した。向こうはどうだったか分からないが、クズリの獣人たちは彼らの事を良き好敵手、あるいは隣人と思っている。ナハトもそうだ。

「ま、この姿じゃ分からないよね」

 ハーフであるためか、クズリの姿が出るのは冬季のみ。しかも、クズリという種族自体が、犬猫ほど有名ではないらしく、一部にしかあまり知れ渡っていない。
 おかげで何度も普通のイタチと間違われ続け、そして冬になって毛色が変わるとひどく驚かれた。日頃から、半分は別のイタチの仲間だと言っていたというのに。

 ――それはさておき。
 山賊の頭領の顔を見る限り、クズリの名は通じていないらしい。ホッキョクグマの毛皮を剥いだというのなら、何処かで聞いても良さそうだが。

「……お前、傭兵なのかよ」
「今はただの旅行者」
「どっちでも良いさ」

 たった一人で部下を叩きのめし、頭を下した。その手柄は、間違いなくこのイタチの獣人のものとなる。
 頭領は、苦く笑った。

「俺の首を持って行くか……大したもんだ。小僧のくせに」

 居住まいを正した頭領の表情は、覚悟を決めたようにも見えた。いいぞ、何処からでもやれ。そう挑むような眼差しを放つ。

 ――だが、ナハトは、こてんと可愛らしく首を傾げ。

「え? いやいや、あんたの首に興味なんてないよ」

 空気を破壊しかねない言葉を、平気で吐き出した。
 案の定、頭領の表情は崩れ、素っ頓狂に歪む。一体この若造は何を言っているのかと、揺らぐ双眸には本気の疑問が浮かぶほど。

 ナハトは双剣を腰の鞘に戻すと、首をポリポリと掻く。

「別に、山賊の一味を全て倒したかったわけじゃないよ。言ったでしょう、ちょっとした用事って」
「……何を、言っている」
「まあ、つまりさ――僕の目的はあんたの首じゃなく、そこで伸びてる部下の方にあるって事さ」

 その言葉に、頭領の表情が愕然と歪む。
 何だそれは。それじゃあ、まるで。

「今更、手柄稼ぎなんてしないさ。あんたは、追いかけてくる騎士団に捕まって――真っ当な罰を受けてくれよ」

 まるで、この俺が、部下のついでのよう――。

 イタチの腕が、無防備な首に巻き付き、意識を奪いに掛かる。最後の最後で矜持を打ち壊され、頭領は意識を手放した。


 ドサリ、と巨体が落ち、力なく地面へ横たわる。
 ナハトは上体を伸ばし、ほっと息を吐き出した。

「はあ~ようやく周りが片付いたぁ」

 前座の方が長くなってしまったかもしれないが、これでようやく“目的”が果たせそうだ。
 最後の仕上げに、ナハトは倒れている賊を全て縄で縛り、半壊する家屋へ寄せ集める。場を整えるその間、イタチの顔には笑みが浮かんでいた。


◆◇◆


「――さっさと起きなよ」

 ナハトは足下に転がる、気絶したまま動かない二人の男を、容赦なく蹴り飛ばした。
 男たちは身体を丸めて呻き声を漏らすと、瞼を押し上げ頭(かぶり)を振る。薄く開くその目はまだぼんやりとし、虚空を見つめさまよう。何が起きたか、まだ飲み込めていないのだろう。
 しばらくし、彼らの虚ろな視線が、ようやくナハトを捉えた。形だけの笑みを浮かべて手を上げてみせると、男たちの目が次第にはっきりと覚醒し、ようやく呆けた表情が引き締まった。

「てめ、どういう……ッぐ!」

 勢いよく身体を起こしたが、すぐに地面へ倒れこむ。腕と足を縛られている事に気付かなかったらしい。二人から恨めしそうに見上げられたが、ナハトが怯えるはずもなかった。
 日中、を襲った相手なのだ。むしろざまあみろという気分である。

「いやあ、元気元気。その見た目であっさり気絶したのに、心は頑丈だね」
「なんだと……」
「それくらい逞しいと、こっちも折り甲斐があるよ」

 その時、ようやく男たちは周囲の状況に気付いたようだ。十数名の仲間と、頭領が、何処にも見当たらない。月明かりの注ぐ村跡には、彼らと、ナハトしか居ないと。

「ああ、他の人たちだったら、まとめて縛って、向こうの家で寝てもらってる。見回りだった人もね」
「……なに?」
「僕の用事は、別に山賊を捕まえる事じゃないし」

 骨は折ったが、何も命を取ったわけではない。きちんとした手当てを受ければ、問題なく動けるはずだ。さすがにその後の面倒まで見る気はないので、応急処置は施さず雑に放置したが。
 そもそも悪事を重ねた賊なので、丁寧に扱う理由が何処にもない。罰にはならないだろうが、せいぜい夜明けまで苦痛を味わえばいい。

 ――だが、目の前の二人については、別だ。

 結果として、全て倒したような事態になってはいるが、あくまで、それはおまけ。
 ナハトの目的が果たされるのは、ようやく、ここからだ。

「……が見てる手前、逃がしてあげたけど」

 彼女の目が届かないのなら、遠慮する必要はもう何処にもない。

「昼間の借りは、きちんと返さないとね」

 そのために、この二人を気絶させた後、仕事道具の一つである特殊な薬液――月明かりを受けると発光する液体――を足下に散布し、目印になりそうな匂い袋を懐に入れ、その痕跡を辿ってきた。
 最初から、ナハトには見逃すつもりは毛頭はなかった。

「昼間? ……ああ、あの小娘の事か」

 まるで今まで忘れていたような、その声に。
 ナハトの双眸には、酷薄な光が浮かび上がった。

「見た目のわりに良い身体して、胸も足も悪くはな――」

 男が最後まで言葉を紡ぐ事はなかった。
 放たれた靴の爪先が、男の鼻面を弾いたからである。

 ナハトは背を屈めると、蹴り飛ばされ横にずれた男の髪を乱暴に鷲掴み、地面から引き上げる。変形した鼻から血が滴り、顎や首筋を黒く染めていた。

 苦しそうな顔つき。だけど、彼女は、もっと痛ましかった。

 うつ伏せの男の身体を横へ倒し、鷲掴みにした髪を放す。

「……これでもね、けっこう、苛々してるんだよ」

 この辺りから、脳天まで、ぐちゃぐちゃになりそうなくらいに。
 自らの腹部や心臓を指先でなぞりながら、ナハトは感情の抜けた声を落とす。

「さて、何処からいこうかな」

 近くに転がっていた賊の剣を握り、ゆらりと持ち上げる。鈍く光った刃が、強ばる男たちの表情を微かに照らす。

「あの子の身体を見た目玉からいくか。それとも、触った両手か。動けない恐怖を知ってもらうため、両足からでもいいなあ」

 目と鼻の先に突きつけた切っ先で、順番に示す。
 何処からいこうかなあ。こぼれる声は、底冷えするほどの冷酷な余韻を残す。月明かりに浮かび上がる瞳には、何の躊躇いもない。僅か一片のはったりすら、見当たらなかった。

 ――こいつ、本気でやる気だ。

 男たちの表情が、見る見る青白く変わる。

「待てよ、どうして下っ端に執着する。頭領の首を持って行けばいいだろ、そっちの方があんたにとってよっぽど良いはずだ!」

 どうにか逃れようと身を捩り、あげく自らの頭の首を交渉に突き出した。都市部で名をあげ、大規模な討伐隊を引きずり出した山賊の一味とは思えない姿は滑稽で、失笑を禁じ得ない。いや、もしかしたら頭領の片腕たちは皆、頭を逃がすために奮戦し、ここにいるのは末端の部下なのかもしれない。そんな想像をするほどに、足下にいる二人は、愚かだった。

「後から来る騎士団や討伐隊に加わった傭兵たちと、面倒な諍いを起こすつもりはないよ」

 ここで頭領を潰せば、彼らにとって獲物の横取りになる。それが熊や狼から奪い合いを重ねてきたクズリの本性だとしても、そこまで馬鹿ではない。
 だが。
 片腕でも何でもない、単なる一介の部下ならば――多少の事は、目を瞑ってくれるだろう。

 にんまりと笑えば、愉快なほどに男たちは表情を歪めた。金に繋がる首を、いとも容易く必要ないと押し退けるイタチに、信じられないと言わんばかりだ。
 ナハトは大きく溜め息をつき、仕方なさそうに教えた。

「今更、手柄集めをする必要なんかないんだよ、僕は」
「なんだと」
「――町の色んなところにある、張り紙」

 唐突に話題を振ると、男たちの面持ちが虚を突かれたように変わる。

「どうせ、下見で町にも近づいてるでしょ。あの張り紙、都市部に居たっていうなら、ちょっとくらい覚えもあるんじゃない?」

 町中に飾られた、探し人の張り紙。
 都市部に属する傭兵都市ガルバインで、上位に入る腕利きの傭兵――凶獣を探すもの。
 わざとらしく盛った挿し絵つきの張り紙を思い出し、ナハトは首を掻く。

「渾名がつく習わしは嫌いじゃないけど、“凶獣”なんていう渾名は納得しないなあ。何で凶獣なんだろう、別に狂ってないのに」

 男たちは最初、ナハトの言葉の意味を理解していない様子だったが、次第に何かに気づき、別の意味でも表情を青くさせる。まさか、と声無く叫んだ男たちに、ナハトは冷酷に微笑む。

 ――ああ、その反応は、懐かしい。
 この辺りでは、そもそも名が浸透していなかったから。

「望んだわけでもない人気者って、辛いねえ」
「あ、あんた……」
「今の季節じゃ、あれで分かるひとはまず居ない。でもあんたたちには……十分だったみたいだね」

 ごくりと唾を飲み、男が呟く。

「……もしも、あんたが本当にそうなら……なおの事、分からねえよ」

 傭兵なんてものは、世間が思うほど正義に満ちた優しいものではない。依頼の中には、汚れ仕事――要人の暗殺等――の類も少なくない。賊と傭兵、やっている事などさして変わらず、違いなんてものはそこに報酬が発生し正当化されているかどうかだけだろう。
 だとすれば、そんな界隈で名を上げる人物が――清廉潔白なはずがない。
 そう口にする男たちの表情には、それまでにはない困惑の色が浮かんでいた。

 ナハトは、特に否定はしなかった。弱いものが淘汰され、強いものが台頭するのは、世の常。ましてあの厳しい北の地で生きてきた自分は、その摂理を当然のものと考えている節もある。

 ――だが、ただ一点。気に入らない箇所がある。

「……ここに来る前の僕だったら、そうだったろうね」

 自分のため、生きていくため、どんな依頼も請け負った。それこそ賊と変わらないような類のものも、ほんの数回ではあるが、やってみた事もある。
 賊と傭兵、違いは報酬があるかないか程度だと、以前ならば頷いて同意しただろう。
 だが、あの子と知り合い、数日間過ごしてしまい、情も抱いてしまった。彼女のため正義の味方になってみるのも悪くないと思ってしまうほどに、彼女は心の中の重大な場所を陣取ってしまっていた。

 賊と同じ存在として括られるなど、今のナハトにとっては、我慢しがたい事だった。

「山賊なんかに理解されたいとは思わないけど。ただ、一度くらい、あの子のためだけに動きたかった――それだけだ」

 理屈や理由なんてものがない、直情的な言葉を返された男たちは、愕然と見上げる。青ざめた面持ちには次第に引きつった笑みが浮かび、渇いた声が溢れ出た。

「ほ、本気で、言ってるのかよ」

 声を喘がせ口元を歪めながらも、そう言わずにはいられなかった。
 一人で後を追い、拠点に乗り込み、十数名の賊を全て倒して、その手柄を総取りするかと思えば要らないと言い放ち。挙句の果てが、目的は頭領の首ではなく、取るに足らない下っ端の方!
 しかも、たった一人の、村娘のためだけ――!

 本気なのかと、心の底から問いかけた男に、ナハトは――。

「ああ、いたって本気だよ」

 何一つ疑問のない、純然とした眼差しを返した。
 月明かりのもとに垣間見せた異常性に震えたのは、男たちだけだった。
 こぼれ落ちた渇いた声は、次第に戦慄くような笑い声へ変わる。

「は、はは……ッど、どうかしてるよ、お前」

 向けられた言葉に、ナハトは小首を傾げる。

「たかが小娘一人のためだけに、ここまでやっただと。本気で言ってるなら、あ、あんたどうかしてる!」

 男は半ば叫ぶように言い放ったが、ナハトの表情が特別変わる事はない。

「――そうかな、普通じゃない?」

 出会った誰かと親しくなって、心を寄せ、あるいは動かされ。
 いつの間にか好ましく思うようになって、気が付けば、ずいぶんと心の中を入り込まれて。
 笑い顔を見るため、泣き顔を止めるため、何でもしてあげたいと願うようになる。
 そんなごく当たり前の事は、人間も獣人も関係なく、誰にだってあるだろう。

 まさか、獣には許されないと言うのだろうか。人間だけが許され、獣や獣人がそう思う事は、あってはならないと。

 ヒトも獣人も、感情を声や身体で表し、与える種族なのに。
 “僕”だけが許されないなんて、それこそどうかしている。

 不思議そうに首を傾げるナハトへ、男たちは震える笑い声をこぼし続ける他ない。

「……やっぱり、あんた、狂ってる」

 そうとしか言えなくなった男の言葉に、ナハトは笑みを浮かべた。牙を見せる獰猛な笑みではなく、まるで愛しい人を思い浮かべ緩んでしまったような、この場には相応しくない――婉然とした笑みを。

「――ああ、悪くないな。今、そう呼ばれるのは」

 イタチだから。クズリだから。
 そんなよく分からない世間の心象を押し付けられ、狂っていると言われた事も、これが初めてではない。
 あの時は不愉快になったけれど、今は、そんなに悪い気分にはならなかった。
 自分とは対極の位置にいる彼女に、自分が出来る事は、してあげられる事は、結局これだけなのだ。

 猛獣の牙を問答無用で宥める、あの笑顔をまた自分に見せてくれるなら――狂気の沙汰と言われようと構わない。

 ナハトはゆっくりと剣を持ち上げ、銀色の月に切っ先を突きつけた。

「さあ、始めようか。そうだな、まずは足からいこうか」

 言葉になりそこねた悲鳴と懇願が夜風を震わせる。それにナハトが同情や躊躇いを感じる事はやはりなく、天へ向けた剣は静かに振り下ろされた。



自覚のある狂人はもちろん恐ろしいけど、まったくの無自覚な凶暴性を蒔く人の方が、恐ろしい時もある。

◆◇◆

というわけで、今回ようやく! ナハトのもう半分の動物の名前も出せました。
どうでしょう、予想をしていた方々、当たりましたでしょうか?

ここまで来ると多くの人がかなり確信を持っていたとは思いますが、中には「そんなに凶暴か?」と思う人もいるかもしれませんね。
アニメが関係しているのでしょうか。ほのぼのなんとかという……。

いやいや、騙されちゃいけませんよ。
僅か1メートル前後の小柄な身体で、狼やヒグマを追い払い、ホッキョクグマすら時に噛み殺し、そんな猛獣たちから獲物を奪い取るようなヤツが、大人しいはずがありません。
普段の外見は、とても可愛いんですけどね。もっふりおっとりして。

クズリの認知度、世間ではどれほどでしょう。知ってる人には超有名、ただし知らない人は本当に知らない、そんな絶妙な境目にいる動物のような気がします。

ただ、英名のウルヴァリンは、知っている方も多いはず。某アメコミヒーローのモデルですしね。

一部では、地上最凶とも呼ばれるほどの、伝説の多いクズリさん。
よかったらネットの画像検索をどうぞ。とてもイタチの仲間とは思えない猛獣ぶりです。


2016.09.12