13

 深い藍色の空は、白く薄れていた。
 音のない静寂で満たさる世界に、眠りから醒める夜明けの兆しが漂う。じきに朝陽が差し、周囲は目映く照らされるだろう。

 けれど、ナハトの姿は、未だに戻らない。

 そりゃ、すぐに帰ってくる事は、難しいだろうけど、でも。
 出て行ったっきり見えない茶褐色のイタチの青年を思い浮かべ、の口から溜め息がこぼれる。もう何度目になるか、数えてもいない。
 彼は、心配しないで待っていればいい、なんて言ったが――ゆっくり眠るなんて事は出来るはずもなく、結局、一睡も出来ず夜を明かした。
 月が煌々と輝いている間はじっと家の中で待っていたが、空が白んできてもナハトは戻ってこないので、ついには耐えきれず外へ出て玄関前に座り込んでいた。

 三角座りをしぎゅっと小さく丸める身体は、笑えるほど震えている。それが朝方の肌寒さのせいだけでない事は、も自覚していた。

 少しだけ、思い出すのだ。元気だった両親が、ある日突然倒れ、命の灯火が目の前で徐々に薄れていって――その時に抱いた、どうしようもない不安感を。

 私が、助けてなんて言ったから。何にも考えないで、口にしてしまったから。
 時間が過ぎれば、その分だけは強く苛まれた。想像もしたくないが、もしもナハトが戻らなかったら、どうしたらよいのだろう。抱えた膝に、額を押し付ける。
 どれほどしっかりしようと思っても、本当の自分はこうなのだと、は突きつけられた気がした。

(――特別な人たちが居なくなるのは、もう辛いの)

 にとって、ナハトという獣人はもう単なる旅人ではない事を、胸に満ちる“寂しさ”が告げていた。



 どれくらい、そうしていただろう。
 ふと抱えた膝から顔を起こすと、一段と明るくなった空が広がった。先ほどと比べれば夜の気配は遠のいているが、まだ辺りはしんと静まり返っている。
 はおもむろに立ち上がると、すっかり痛くなったお尻を擦り、歩き始める。道端にまで出てみたけれど、やはりナハトの姿は見えなかった。
 本当に、彼はいつ戻って来るのだろう。
 は小さく溜め息をこぼし、踵を返し玄関まで戻ろうとした――その時である。
 下げがちな視界の片隅で、何かが動いた。
 足を止め、もう一度顔を上げる。視線を向けたその先に、現れたのは。

 「あ……」は小さな声をこぼし、呆然とする。

 出て行った時とほとんど変わらない足取りで、それは近付いてくる。肩を回し、首を擦り、のんきに欠伸なんてしながら。道端に出ているの存在に、気付いていないのだろうか。
 ようやく眼差しがぶつかると、つぶらな瞳を丸くして歩みを止めた。

「……あれ、、何で起きてるの」

 言うに事欠いて、そんな言葉をこぼして。

 胸の内から勢いよく広がる感情の波に、は逆らわなかった。立ち尽くしていた両足を大きく動かして駆け寄り、そして――。

「ナハトォーー!」

 ――体当たりをかますように、正面から突撃した。

「ぐッふゥ……! ちょ、鳩尾……!」

 苦しげな声を吐き出したわりに、体当たりを受けてもその身体はほとんど動かなかった。しなやかなイタチでも、獣人は獣人である。少し憎たらしく思いながら、はナハトの服を思い切り掴む。

「起きてるよ、起きてるに決まってるよ! のんきに寝てられるはずないじゃない!」
「ええー……ちょっと、どうしたの。何で怒ってるの」
「別に、怒ってない!」

 そう、怒っているわけでは、ないのだ。
 ただ、様々な感情が一度に溢れ返って、収拾がつかないだけで。

 困惑するナハトなどお構いなしに、は張り付きぐいぐいと上衣を引っ張る。今は汚れてるから止しといた方がいいよ、という言葉もまったく耳に入らない。
 怪我らしいものは見当たらないが、確かに衣服は土埃や葉っぱなどで汚れている。どのような事があったかは想像も出来ないが、争いに身を投じた事は、その姿がはっきりと語っていた。

「も、戻って来るのが、遅いから」

 ぎゅうっと握り締めるカテイの手に、さらに力が増す。

「怪我してたら、どうしようって。そうしたら、私、馬鹿な事を言ったんじゃないかって」
「心配するなって言ったでしょ? ほら、顔を上げて」

 は押し付けていた頭をのろのろと起こす。ナハトは驚いたように目を丸くしたが、その後すぐにやんわりと笑みを浮かべた。

「なにも泣く事ないだろ。ほら、止めて止めて。泣くほどの事じゃない」
「むりぃ……余計に出てきたぁ……」

 そんな優しい声で宥められても、涙は止まるどころかさらに溢れてくるだけだった。
 ぐすぐす言い始めるへ、ナハトは苦笑いをこぼし、ぽんと丸い肩を叩く。

「やめてよ、僕、こういうのには向かないんだから……」

 毛皮に包まれるナハトの指が、の濡れたまなじりに触れ、ごしごしと涙を拭い取る。いかにも不慣れな不器用さが溢れていたけれど、それが逆に心地よかった。

「山賊は……どうなったの……?」
「とりあえず、潜伏してたところに置いてきた。動けないだろうしね」
「怪我は、してない……?」
「……してないよ、この通り」
「……うん」

 ようやく緊張が緩み、の唇からは安堵の溜め息がたっぷりと吐き出される。

「信用ならなかった?」
「違うよ、馬鹿」
「知ってる。ほら、やっと泣き止んだ」

 からかうように笑ったイタチの声は優しく、の唇が柔らかい弧を描く。ようやく自然にこぼれた微笑みが、赤らむ頬を彩った。

「――まあ、それはそれとしてさ」

 おもむろに、ナハトが居住まいを直す。

「もうちょっと、何かないかなあ」
「え?」
「余裕だったけど、一晩、戦ってきたわけだし。自分でも望んだ事だけど、泣き付かれるよりも、ねえ」

 意味深に紡がれる言葉を聞き、は少しの間首を捻って考えていたが、不意にあっと声を漏らした。

「えっと」
「うん」
「あ、ありがとう……」

 そう言ってもいいのか分からなかったけれど、途端、の前に佇むナハトは。

「ん、どういたしまして」

 満足げに黒いつぶらな瞳を細め、ピキュー、と甲高い音を鳴らす。イタチそのものの顔には、見て分かるほどの、上機嫌な様子が窺えた。
 柔和だけど、何処か澄ましたような面持ちが多かったナハト。この人もそんな風に笑うのかと、は少し驚き――ドキリとする。

「……それと、お疲れ様。あと――おかえりなさい」

 続けて言った言葉に、ナハトは目を丸く見開き、異様に驚きを見せた。

「……ここでそれ? 君、本当、お母さんみたいだな」
「よく言われる。おかえりなさい」

 二度、同じ言葉を告げれば、何を言わんとしているかは通じただろう。じっと見上げるに、ナハトは少し困ったように肩を竦めたが、やがて観念したようにイタチの頭を下げる。

「……ただいま」

 耳元で呟かれた小さな声に、はようやく実感する。怯えて待つ夜が無事に明けたのだ、と。
 万感を胸に抱いて、はもう一度、ナハトの胸に額を押し当てる。ナハトは呆れるように笑って――たぶんきっと照れ隠しだろう――の肩をぎゅっと包んだ。


◆◇◆


 その後、とナハトは互いに軽食をつまみ、少しだけ眠って身体を休めた。
 二人が起きた時には、辺りはすっかり薄暗さが消え、清々しい朝を迎えていた。

 村の方々からは、普段よりも賑やかな声が飛び交った。澄んだ青空の下に出た顔馴染みの住人たちは、一様に明るい面持ちを宿している。ここ数日、重く垂れ込んでいた不安や緊張が全て消え去り、久方ぶりに見る彼らの笑顔は輝いていた。

 長閑な一帯を脅かした元凶である、山賊の残党が全て捕らえられたという話は、既に広がっていたようだった。

 つい先ほどの事なのに、とは驚いたが、どうやらナハトが先に潜伏先等を伝えておいたらしい。夜が完全に明ける前に、隣町の夜勤担当の自警団員を捕まえ、賊の件は全て押し付けてきたのだそうだ。じきに来る騎士団に伝えて欲しい、と。

 現れた時は不安のどん底に陥ったが、捕まえてしまえば呆気なく事態は収束に向かってゆく。それは喜ばしい事なのだが――少しだけ、は気がかりなところがあった。

「……良かったの? ナハト、思いっきり関わってるのに」

 賊を捕らえる事に貢献した当のナハトは、一切名乗りを上げず、自警団や追ってきた騎士団に全ての手柄を渡してしまったのだ。泣きついてしまってそんな事態になったとはいえ、結果として彼は十分褒められる事をしたはずだと思った。しかし、ナハトはただ一言「面倒だからいい」と言った。

「君が思う以上に、傭兵の世界ってやつは面倒事が多くてね」

 山賊の討伐に関わっていない自分が頭領の首を持てば、後で必ずねちねち言われる。だからいいんだよ、とナハトは笑った。
 からしてみれば、不思議な話だ。誰であろうと、助けてくれた事には変わらないはずなのに。傭兵世界の暗黙の掟は、なかなか難しいらしい。

「僕は僕の用事を果たしたし、それに――君が安心出来たなら、報酬はそれで十分」

 だからいいんだ、と笑うナハトは最高にあざとく、そして――最高にかっこよかった。イタチの頭だというのに。

「まあ、村の人たちは、ナハトのおかげだって知ってるし、それで良いなら良いんだけど……。あ、ねえ、それよりナハト」
「なに?」
「用事って、何だったの?」

 ナハトはきょとんとすると、不意に牙を見せ、ニイッと微笑んだ。

「――内緒」

 その声と雰囲気が妙に凄みを帯びていたので、はそれ以上尋ねる事はしなかった。


 ともあれ、これで周辺を脅かしていた山賊は居なくなった。毎年恒例の白花の開花と、それによって集まる鳥獣の狩猟の賑わいが、再び戻ってきたのだ。
 その日の午前中には注意勧告も解除され、作業の遅れを取り戻すように人々が出かけてゆく。夕方にはきっと、採取した白花や狩猟した獣など、自然から分けて貰った恵みが数多く集まり、いたるところがさらに賑わうはずだ。

 毎年の風景が戻り、喜ぶ。しかし、突然の来訪者が見えたのは、それからもう間もなくの事だった。




「――すまない、こちらに山賊の残党の情報提供をしたという人が居ると聞いたのだが」

 平凡な民家の前に並ぶ、いかにも勇壮な雰囲気を放つ凛々しい出で立ちの男性たちに、が「へい」と間抜けな返事をしてしまったのは仕方のない事だった。
 長閑な村の風景には不釣合いな輝かしい衣装を纏い、ここいらでは見ない上等な剣を腰に差している。そして、その腕には国の印を描いた腕章が誇らしく着けられている。滅多に見る事はないが、彼らが騎士だという事はもすぐに理解した。

 いやしかし、我が家に、騎士。
 あまりにも信じがたくて、つい呆然と立ち尽くした。放たれる威光には気後れし、しどろもどろになりながらも、どうにか頷く。賊の情報提供といったら彼の事なので、すぐに呼びに走った。

 作業場にいたナハトは、数名の騎士が訪ねてきた事を伝えると、露骨に嫌そうな表情をして渋った。イタチの頭なのに、こういう時ばっかり妙に感情豊かだ。しまいには「留守って言って」とまで言い出したので、はナハトの腕を取り、問答無用で連れ出す。
 不満か文句を訴えているのか、クククク、という低い声を彼は上げ続ける。イタチはそういう声も出すのかと関心したが、決して足は止めなかった。何を嫌がってるか分からないが、待たせてしまって良いはずがない。
 どうにか道端に佇んでいる騎士たちのもとへ辿り着き、彼らの前に立たせたが、可愛らしいイタチの顔はさらに歪み。

「げえ……」

 あげく、失礼な言葉を吐き出した。
 ちょっと、国の騎士様になんて事! はぺちんと腕を叩いたが、その騎士もナハトの顔を見るや表情を変え。

「――やっぱり、お前か」

 ……え、顔見知り? はきょとんとして、ナハトと騎士を見比べた。

「山賊の潜伏先に単身飛び込んだイタチ獣人と聞いて、考えたくはなかったが……本当にお前だったのか」
「わざわざ確かめに来なくてもいいのに」
「仮にお前でなくとも、礼くらいは言わなければならないだろう」

 友人、という風には見えなかったが、遠慮なく交わされる会話からそれなりに親しい間柄である事は窺えた。思ってもなかったナハトの交流関係を見て、はただただ唖然とする。

「……ああ、すまない。こいつとはちょっとした知り合いでな。まあ、主に荒事の縁で繋がってるんだが……」

 騎士の男性は溜め息をつくと、ナハトを睨むように見る。

「敵の拠点に突っ込むような馬鹿がお前の他にいたのかと思ったが、安心した。馬鹿はお前だけだったな」
「うるさいな、頭目と部下を取り逃がしたくせに」

 相手の額にビキリと青筋が浮かんでも、ナハトは態度を改めない。彼らの間にいるの方が慌ててしまい、ちょっと、とナハトの腕を引く始末だった。

「ぐ……ッそれは事実だ、否定はしない。この辺りの住民たちを危険に晒した。迅速な情報提供、感謝する」

 潔く頭を下げた騎士に、ナハトもようやく肩を竦め「そういうのは要らないから」とやんわり押し止めた。

「言っちゃなんだけど、僕は僕の用事があっただけで、山賊の事はおまけみたいなものだ。礼とか、そういうのは必要ない」
「……えらく殊勝な事を言うな。傭兵の中でも戦闘狂なんて言われてる“凶獣”のわりに」

 ナハトの瞳がぴくりと震える。
 は目を丸くし、思わず「え?」と聞き返した。

「え、あの、今なんて」
「ん? ああ、そうか、知らないか」

 男性は懐を探ると、ぴらりと一枚の紙を取り出して広げた。
 それは、町のいたる所に貼られている、黒い獣が吼え猛る挿し絵付きの人探しの張り紙だった。

「傭兵が集まって出来た都市ガルバインで腕利きと言われる“凶獣”。これ、こいつの事だ」

 至極あっさりと言い放った騎士に、は口をぽかんと開き、呆ける他なかった。
 の目は、自然と張り紙へ向かう。そこにあるのは、熊の如き迫力に満ちた黒い獣だ。おずおずと張り紙を受け取り、居心地悪そうに明後日の方角を見る、ナハトの顔の横へ持ち上げる。
 挿し絵と、ナハト本人を何度も見比べた末――は思わず叫んだ。

「――全然、似てない!」

 爪の先端すら掠っていない挿し絵に、は驚愕した。

 え、そっち? と別の意味で驚愕しているのは、ナハトや、騎士たちであったが。

「やだ、全然似てない。何処がナハトだろう」
「いや、もうそっくりだよ、お嬢さん。間違いなく、こいつ。戦ってる時、本当にこんな顔しているよ」

 ええッ嘘だ、だってこんなに黒くな――ああ、そっか、別のイタチの仲間とのハーフだって言ってたっけ!

 異なるイタチの獣人との間に生まれ、外見はごく普通なイタチだが、残り半分は別のイタチの種だとか。
 という事は、これは以前彼が言っていた、冬季にだけ出てくるという姿なのだろう。挿し絵でありながら、熊と言われてもなんら可笑しくはないこの迫力。獰猛な鳴き声が聞こえてきそうな力強さを感じるけれど、ナハト本人だと言われるとやはり信じがたい。そして、イタチの仲間とも思えない。

 は張り紙をナハトの顔の横から下げると、静かに彼を見つめる。

「本当に、ナハトなの?」

 一瞬、ナハトの眼差しが逡巡する。まるで意を決したように小さく息を吐き出すと、そうだよ、と頷いた。

「その張り紙が探してる傭兵は――僕の事だよ」

 の瞳を、ナハトがじっと見下ろす。真摯な光がイタチの双眸に宿り、虚偽がない事を悟る。
 は、そうなんだ、と呟くと――にこりと微笑んだ。

「全然、気付かなかった。冬になるとこんなに変わるのね、びっくりした!」

 はいどうぞ、と張り紙を騎士に返す。

「…………それだけ、か?」
「え?」
「もっと、何か出てこないのか」

 は口元に指を持ってゆき、首を捻る。もっと何か、と言われても……。

「凶獣だなんて呼ばれる傭兵だぞ」
「そうらしいですね、初めて聞きました」
「いや、初めて……そうらしいって……」

 何故かとても驚かれてしまい、粗相でもしたのかとは慌てたが、ナハトにぽんと肩を叩かれる。

「いや、良いよ。ほっといて。大丈夫」
「……私、何かやらかしたかな」
「いや、何も。君は何もしていない」

 笑うナハトの瞳には、微かな安堵が浮かんでいる。それが何を示しているのか分からなかったけれど、ひとまず失礼をしたわけではないらしいので、はほっと口元を緩める。

「……まあ、それはおいといて」

 ナハトの眼差しが、から騎士たちに移る。

「まさか、本当に情報提供の礼だけで寄ったんじゃないんだろう? 僕に何か話でもあるんじゃない?」

 騎士たちとナハトの間に流れる空気が、変わったような気がした。は自ずから理解し、「じゃあ私は向こうに行ってるね」と声を掛け、彼らの側を離れる。
 ぺこりと会釈をしたその背には、騎士たちの視線が集まっていたけれど、はまったく気にも留めなかった。


◆◇◆


 の細い背中が遠ざかり、一軒家の中へ吸い込まれる。
 長閑な風が、残されたナハトと騎士たちの間を吹き抜けた。

「……一体、これはどういう状況なんだ。凶獣」

 這うように響いた騎士である男の声には、色濃い困惑が滲んでいた。

「まともな連絡もなくガルバインから消えて、何処に行ったかと思えばこんな片隅の村。しかも、娘と一緒だと。おい、何なんだ一体、何でこんなところに」

 矢継ぎ早に投げられる問いかけに、ナハトは煩わしさを隠さない。相変わらず面倒な奴だと思いながら、仕方なしに応じた。

「ちょっと息抜きをしたくてガルバインから離れただけだよ。ギルド長には一応言ってある」
「一応って、お前な」
「騎士と傭兵を一緒にするな。僕がいなくてもそれを埋める代わりは大勢いる」
「だが、お前個人を頼る者が数多く存在しているのも事実だ」

 男は一度、大きく溜め息をつくと、声音を整える。

「お前が、前からその立場に思うところがあったのは知っているが……何か一つくらい言い残していってもいいだろうに」

 まったく、本当に。ナハトは肩を竦め、溜め息をこぼす。煩わしさだけでない、親しみを込めた呆れがあった。

 傭兵と騎士――職に対する意識も信念もまったく異なる両者だが、荒事を請け負うというただ一点の共通点により、何かにつけて関わり合いが生じてきた。
 ナハトもその例に漏れず、望んではいないのにこの騎士とは顔見知り以上の間柄になってしまった。友人と呼ぶほど深く親しい間柄ではないのに、顔を合わせる回数が妙に多いせいだろう。
 言うなれば、腐れ縁というものか。
 だから少なからず、この男はナハトが抱いてきたものにも気付いている。

「そんなに嫌だったのか、“凶獣”と呼ばれる事が」
「勘違いしないでよ、僕は別にそう呼ばれる事自体を嫌ってはいない」

 通り名や渾名が付けられる事は、母体となった大昔の冒険者という職業から続く、古い慣習だ。何故“凶獣”という名がついたのかは不思議で仕方ないが、付けられる事に対して特に文句はない。傭兵の中には“悪鬼”や“死霊”などといった、もはや生き物にすら分類されていない呼び名を付けられた者もいるので、それらと比べたら“凶獣”は可愛いものだろう。比べたら、だが。

 ただ、イタチだから、クズリだから、ああだこうだと言われるのが嫌いなだけだ。

「イタチは狡猾で悪者――誰かが言っていたよ、その動物の血を持つ僕も、狡猾で悪者な獣人の傭兵だって」

 正義を通す清廉潔白な性格でない事は、自ら理解しているのでそれは良しとする。だが、“イタチだから”と言われるのは腹立たしい。

 人と獣、二つの性質を持つ獣人という種族の特性上、その身に持つ動物の血によって多種多様な癖や生活習慣があるのも事実。イタチ独自の思考や文化など、一つや二つ、きっとあるだろう。しかし、だからといってイタチの獣人や生き物を、全て同一に見るのは、どうなのだろう。

 そう思ってみても、心象が特にものを言う業界なので、ナハトは決して短くはない間、味わい続けてきた。じわじわと巡り蝕んでゆく、毒のような言葉を。
 今はある程度の慣れを身につけたが、それでもやはり時折、頭の芯や臓腑の底にふつりとくる事がある。

「僕は僕の、生まれ育った場所で培ったやり方や、一族の教えを貫いてるだけだ」

 名前と種族だけの薄っぺらい判断をされるのは、一番勘に障る。
 ふん、と鼻を鳴らせば、騎士の男は何処か感心したように声をこぼした。

「……俺はお前の事を、頭のネジを捨ててきた戦闘狂だと思っている。だがたまに、酷く誇り高く感じる。不本意だが、たまにな」

 男の視線は、不意にナハトから一軒家へと移った。

「……お前を探す張り紙が出回った理由、気付いているのか」
「ああ、あれ。山賊の残党狩りか、その前の討伐戦にでも呼び戻したかったんだろ?」
「分かってて戻らなかったのか、お前らしい」
「――戻っている時間も、なかったしね」

 張り紙の意図に気付いたのは、襲撃に遭い負傷者が現れた時だった。わざわざ問いただしにガルバインへ帰還する時間などなかった。
 ナハトが呟きをこぼすと、驚いた男の視線が再び向けられる。

「……さっきの子、ここに来てから世話になってるんだけどね。一度、山賊に襲われてるんだ」

 略奪の下見にやって来た男、二人にね。小さく呟けば、周囲の空気が強ばった。

「……平和な田舎に要らない危険を投げ込んだのは、ヘマをした騎士と傭兵のせい。襲われて酷い目に遭いそうになったのは、目を放した僕のせい」

 しかし、一言の不満も、文句も口にしなかった。それを彼女が言っても、何もおかしくはない、当然の主張であるのに。
 それどころか、迂闊だった自分のせいだと言った。あんなに震え、泣き崩れる手前だったくせに、強がって歪な笑みを浮かべた。
 なんて優しく、愚かな事か。
 そんな顔をするなら、いっそ、その辛さを自分に突き立てて欲しい――あの時の衝動は、ナハトを確かに突き動かした。

「……ここだけの話、僕はあの子がいなかったら、山賊の残党なんて知らんぷりしてたよ。だけど、あの子が居たから」

 他でもない自分という獣に泣いて、助けてくれと頼ってくれた。
 あの時、どんな事でもしてあげようと思った。憐憫や正義感といった臭い理由ではなく、獣人という種族らしい、もっと本能的な感情でそう思ったのだ。
 そして山賊と争っている間、頭の中には――彼女しかなかった。

 ナハトの横顔を見つめた男は、不意に声を潜め「ようやく合点がついた」とこぼした。何の事だとナハトが問えば、男は小さな声で続けた。

「逃亡した山賊たちを追って、今朝方、ようやく町に到着したんだが……」

 町に着くなり、出迎えた自警団から山賊の潜伏先が判明したという言葉が出され、追ってきた騎士たちはすぐさまそこへ向かった。辿り着いた、打ち捨てられ朽ちた村跡には、取り逃がした山賊の頭とその部下、十数名が縄に掛けられ転がっていた。彼らは等しく腕や足の骨を折られ、しかもそれを雑に放置され、かなり悪化し憔悴としていたが、命に別状はなく騎士団が捕らえ護送した。
 そこまでは、問題なかった。
 ――だが、その中の賊の二名が、凄惨な姿で発見された。

 重い声音で語る男は、真っ直ぐとナハトを捉える。

「……両足の腱はことごとく切られ、両腕の肘から下は潰れていた。胴体と手足は繋がっているが、治ったとしてもまともに機能する事はないだろうな。一生涯」
「……」
「付け加えて、止めが、両目。綺麗に真一文字にやられ、治療の施しようがない状態だった。それでも、まだ二人は生きている、辛うじて」

 かなり短い灯火だが――。
 男の言葉を、ナハトは無言で聞いていた。茶褐色のイタチの頭部に、僅かな動揺もなかった。

「頭領ではなく一介の部下、というところが疑問だったが……今のを聞いて、納得した」

 そして、山賊の頭領と部下を見つけ、捕まえた手柄の全てを、騎士団に譲ったその真意も。

「目を瞑れ、という事か。賊二名への過剰な攻撃を」

 ナハトは微笑みで肯定した。イタチという可愛らしい生き物の頭部を持ちながら、そこに滲むのは肉食獣の獰猛な本性だった。

「あの二人だけは、僕の獲物。あの子が襲われた時から決めていた。他のは興味ないから、あんた達に任せるよ」
「……周辺の町村で略奪が行われる前に、賊の潜伏先を突き止めた上に、全て生きたまま捕まえた功績を譲られたんだ。仕方ない」
「話が早い、助かるよ」

 これであとは早く山賊の話題がなくなれば、あの子も安心するかな。ナハトは上機嫌に、茶褐色の尾を揺らした。

「……お前、少し見ない間に、変わったか?」
「まさか。まあ、でも……」

 ナハトはふっと口元を穏やかに緩めると、無意識の内に甘く囁く。

「自分には似合わない事をしてでも、守ってあげたくなる存在は出来た、かな」

 その時の男は、お前もそんな事を言うのかと、あからさまな驚愕を浮かべていた。やや腹立たしいが、それについてはナハト自身でも思う事だ。

 自分にも、まだそんな心があったのかと。
 いや――そんな心を持ってしまうような日が来るのかと。

「……獣人は、愚直なほど本能に従う、だっけ」
「は……」
「ふふ、僕も結局、ただの“獣”なんだろうな」

 道理や理性ではなく、感情と本能を尊ぶ種族――獣人。
 今更になって、改めてそれを噛みしめた。ただ一人の雌のため、敵の群れに飛び込む事も厭わないなんて、客観的に見れば頭がどうかしている。狂った獣、あるいは雄そのものだろう。

 ――いいな、それ。

 悪くないと、ナハトは静かに笑う。

「……酷い顔だ、今にも噛みつきそうな目をしている」

 呟いた男の言葉に、ナハトはありがとうと礼を言っておいた。





「――あれ、騎士様たち、もう帰られたの?」
「ああ、大した用件じゃないし、向こうも忙しいしね」
「そう……お茶でも、と思ったんだけど」

 少し残念そうにしながら、はカップを戸棚に戻してゆく。
 のんびりと笑う彼女の背を、ナハトはじっと見つめた。


 ――……お前、少し見ない間に、変わったか?


 去っていた男の言葉が脳裏で再び聞こえる。
 まさかと否定はしたが、実際はその通りだろう。両足、両手、両目を奪ってゆくその理由に“たった一人のため”という言葉が加わったのだ。決して、些細な変化ではない。

「お湯、沸かしちゃったしなあ。もったいないし、ナハトも飲まない?」

 くるりと振り返ったは、カップを二つ握って、にこやかに笑っている。頂くよ、と頷きを返すと、彼女は再び背を向け茶の準備を始めた。
 鼻歌が聞こえてきそうな、穏やかな背中。その無防備な姿が、いつから“ただの宿の主”と思えなくなっていたのか。
 小さな存在でない事を理解して喜ぶと同時に、悲しい事に、途方もない不安感を抱く羽目になった。

(あいつに知られたって事は……絶対、ガルバインの方にも伝わるな)

 このまま放っておいてくれるような人物ではない。きっと帰還すると同時に、傭兵ギルドの長にもこの事を報告するだろう。そうなれば、確実に何らかの接触があり、下手したら連れ戻されるかもしれない。
 ――よりにもよって、自覚したこの瞬間に!

 もしも、自分がここを離れた直後、他の雄の影が近付いたとしたら。
 ほんの一瞬、その光景を思い浮かべ、すぐに引き裂いた。今度こそ半殺しで済まなくなる事は、あまりにも容易く想像出来た。

 そんな浅ましい葛藤や醜い欲望を、彼女は気付きもしない。だから、ああも平然と、見てくれだけは無害を装った獣に、無防備な背中を見せられるのだ。


 ――あの無防備な存在を守るのも、柔らかい唇や首筋に噛みつくのも、全て自分だけだ。自分だけでいい。


 そう考えた時、今まで抱いた事のない疼くような熱が、奥底で這い上がった。
 そんな風に誰かを求めるのも、ナハトにとって初めての事であった。



そろそろ、リビドー溢れるアニキアネキが待ち望む、18禁シーンの予感です。


2016.09.25