14

 翌日の町には、無法者の影に怯えていた、陰鬱とした空気はなくなっていた。
 町の中には花の香りが満ち、路面には白い花弁が散らばっている。店の各所では人の出入りがあり、狩猟した鳥獣の加工を請け負う店はとりわけ繁盛している。道端をゆく自警団なんかもてんやわんやとし、混雑する通りで声を張り上げていた。

 暗い面持ちや不安げな声は僅かもなく、すっかりと例年通りの――いや、数日間行動の規制をされていた分、解放された町は活気が爆発してた。

「はあ、これは、確かに賑わってるねえ」

 呟いたナハトの隣を、荷物を積み込んだ馬車がガタゴトと過ぎ去る。風に煽られて舞い上がる白い花弁が、素っ頓狂に目を丸くするイタチの頭を掠めていった。

「うん。でも、こんなになるのは、ちょっと初めてかな……」

 驚く地元民の声は、加工屋の店主――強面だが気っ風のいい男性――の「予約待ちだこの野郎!!」という、嬉しそうな叫び声で掻き消された。

 白い花弁と花の香りに包まれ、快活に笑う人々で賑わう、その風景。例年にない盛り上がり様につい驚いてしまったが、の口元は自然と微笑んだ。亡き父母も大切にしていた季節は、やはりこうでなければ。

 これもひとえにナハトのおかげだが、それを口にすると彼は酷く嫌がるので――ただの照れ隠しだとは気付いているが――心の中だけで思う事にする。

「しばらく来なかった商隊も戻ったみたいだし、今度こそ、あれが買えるはず」

 パン作りに肝心要の材料である、小麦粉。
 それを購入したら、以前交わした約束を実行出来る。

「仕事のお休みもらえないか食堂に行って、それから買いに行こう。白花、きっと今頃、満開だよ。綺麗だろうなあ」

 毎年、家族で見に行った白花の群生地を、ナハトと一緒に見られる――はそれを純粋に喜んでいた。
 ……うっすらとだが、彼はもう間もなくこの地を立ち去るのではないかと予感していたのだ。だからその前に、ナハトと楽しい思い出を作れて良かったと、寂しさ以上に喜びを噛みしめた。

「そう……楽しみだね」

 呟いたナハトの言葉に、は輝くばかりの笑顔を咲かせた。

 心の底から嬉しいのだと告げる、温かい仕草。らしくもなく、ナハトは穏やかな気持ちで見つめた。だが、その瞳には焦熱のような感情も、確かに渦巻いていた。


◆◇◆


 念願の小麦粉と他の材料を買い込んだは、自宅に戻りさっそくパン作りを開始した。
 亡き母の残した手書きのレシピに則り、生地を作り、長方形の型に入れオーブンで焼く。少し久しぶりだったが、これまで作り続けた勘はすぐに戻り、長丁場の作業は滞りなく進んだ。

 意外だったのは、ナハトが手伝いを買って出てくれた事だ。
 もちろんは断らず、二人で並んで厨房に立った。

 しかしながら、彼は獣人。しなやかな四肢や身体の作りは人間の青年だが、頭はイタチのそれで、全身は茶褐色の毛皮で覆われている。もちろん腕や手も同様で、さらに長い五本の指の先端には整えているが獣らしい爪がニョキッと生えている。必然的に、手袋の装着は必須だった。
 その姿がちょっぴり不格好で、失礼ではあるが笑ってしまった。
 つぶらな瞳を不満そうにじっとりと細めていたけれど、正直、怖くもなんともなくただひたすらに可愛いだけだった。

 そしてこの時、何事もそつなくこなしそうな雰囲気のあるナハトが、料理は不得手らしい事が判明した。曰く、食べられるものなら何でもいいという生活を長年送っていたそうで、料理らしい料理はしてこなかったとか。
 何だかとても切ない気分になって、明日のピクニックにはうんと美味しいものを持って行こうと、はこっそり決心した。


 ナハトの意外な姿を目撃するその時間は、楽しく、あっという間に過ぎてゆく。彼のおかげで、長丁場に及ぶ作業も、まったく苦には感じなかった。
 思えば、こうして厨房が賑やかになるのも、久しぶりである。
 彼が居なくなれば、此処はまた静まりかえるのか――そう思うと無視出来ない寂しさがの胸にこみ上げたが、今はこの時間を楽しもうと素直に笑った。

「――あ、見てナハト、綺麗に出来てる!」

 時間になりオーブンを開けると、ふわりと温かい香ばしい匂いが部屋中に広がる。しっかりと膨らんだその様子に、は笑顔のままナハトへ向き直った。
 だが、そこにあった彼の面持ちについ言葉が止まる。
 ナハトは、しんとした静かな表情で、を見つめていた。無事に焼き上がったパンではなく、だけを。
 ナハトはすぐに柔和な笑みを浮かべ、視線を外した。

「――ああ、美味しそう。食べるのが楽しみだね」
「う、うん、本当」

 は笑みを返し、オーブンからパンを取り出す。今日の夕食の分と明日のピクニックの分に分けながら、嗅ぎ取った違和感に困惑した。
 はちらりとナハトを覗き見る。彼は茶褐色の尾を揺らし上機嫌な様子だったので、尋ねようとした言葉はその時は飲み込んでしまった。


◆◇◆


 ――結局、長丁場のパン作りを終えた後は、ごく普通に夕食を取り、互いの自由時間へ入った。

 空はもう茜色に染まり、藍色へ変わろうとしている。じきに訪れる夜を窓枠の向こうに見ながら、は住居と作業場を繋ぐ扉の前に佇む。これといった明確な理由があるわけではないが、の足先はナハトのもとへ自然と向かっていた。

 は一呼吸を置き、扉をノックし呼びかける。しかし、返事はなく、何度か繰り返し呼んでみたが同じだった。首を傾げながら扉を開き、作業場を覗き込む。見慣れたその空間は、明かりが全て消え、物音もしなかった。しんとした静寂に、誰か居る気配もない。
 はしばし見渡して考え込んだが、はたと思い至り、扉を閉じて身を翻した。




 ぽつぽつと明かりが灯る村を背にし、は周辺に広がる草原の中を歩む。
 さほど探す事もなく、ナハトの姿は見つかった。
 の家からもそう離れてはいない場所に、彼は静かに佇んでいた。

「ナハト~」

 呼びかけるとナハトはすぐに振り返ったが、その雰囲気が日中と違うものに見えた。背面に広がる藍色の空や、夜を迎えつつある風景が、今の彼にはとても似合っている。

「ああ、。どうかした?」
「あ、えっと、特に用事というほどのものじゃないけど、作業場に居なかったから。ナハトこそどうしたの」

 ナハトはから視線を外すと、周囲を見渡しつつ「ちょっと様子見にね」と言った。

「山賊が流れてきた時は、周りを荒らされて野生動物が異常なくらい降りてきていたから。でも、今度は面白いくらいにその数も減ってる。本格的な狩猟が始まったからかな」

 生活を脅かすような存在は、他の人も狩ってくれている。心配する必要なかったみたいだね、とナハトは肩を竦めた。

「そっか、見回り、してくれてたんだね。ありがとう」
「……別に。寝泊りする場所を貸してもらう条件だったしね」

 ナハトはその場にしゃがみ、草原に両足を伸ばして座った。も同じように彼の隣へ腰を下ろす。
 良い人なのに、照れ隠しで出る言葉はちょっぴり素っ気ない。変なところで不器用だと、は小さく笑みをこぼした。

「もっとも、今は……その約束はあんまり関係ないけど」

 静かな呟きに、はほんの一瞬首を傾げたが、すぐにその意味を理解する。脳裏に過ぎったのは、山賊のもとへ出向く前に交わしたやり取りだった。


 ――ただの人間の君へ、ただの獣人として願う


 カアッと顔が熱くなり、心臓が激しく跳ねる。あんな強烈な出来事を忘れてしまったのは、彼が無事に戻ってきた喜びの方が上回っていたからだろう。唇に残された牙の感触までも思い出し、は一瞬、声を詰まらせる。
 ――が、ふっと鼻がむず痒くなり、は「へっくし!」と間の抜けたくしゃみをこぼした。

「ご、ごめん」
「寒い?」
「ん~……今日はちょっと風が強いからかな」

 は小さく鼻をすすり、肩に羽織っていた薄い上着を胸の前でぎゅっと合わせる。
 すると、真横から伸びたナハトの腕が、の肩と腰に回った。力強く引き寄せられたの身体は、ナハトの足の間――つまりは正面に移動させられた。

「人間は毛皮がないからね。これなら寒くないでしょ」
「あ、う、うん。そ、そう、だね」

 は平常心を装おうとしたが、見事に失敗し、うろたえた声が飛び出た。
 背中に寄り添う胸や、上半身を閉じ込める腕は、やはり女とは違った。頭はイタチのそれだが、身体はしなやかな青年のもの。いくら外見は細身でも、胸の広さと腕の力強さは、男性そのものだ。衣服越しでもそれがはっきりと伝わってきて、は身を縮める。
 尋常でないほど、心臓がドキドキと跳ねる。肌寒さなんてものは、一瞬で忘れてしまった。

「……こうやっても、君は逃げないね」

 不意に、の耳元でナハトが呟いた。
 反射的に振り返ろうとした時、の耳の後ろに、ぬるりと生暖かい感触が這った。
 それがナハトの舌だったとは、すぐに理解した。

「あ、ど、どうしたの、ナハト」

 身動ぎをする身体を、ナハトの両腕がぐいっと引き寄せる。押し止めるというより、閉じ込めてしまうような強さだった。はナハトの腕の中に収まっている他なく、困惑で口を閉ざす。

「――ねえ、ちょっと不思議なんだけどさ」

 訪れた沈黙を、ナハトの問いかけが静かに破った。
 彼の顔が横に並んだのを感じ、の肩はぴくりと跳ねる。

「君は、僕が怖くないのかい」
「え……」
「町の食堂にも張られた、張り紙。あれの探してる“凶獣”っていう傭兵は僕だ」

 両腕の拘束は緩まないので、何とか顔だけを横に向ける。思っていたよりもずっと近い――というより、互いの呼吸がぶつかるほどの至近距離に、イタチの顔があった。
 飛び込むように映った獣の瞳は、真っ直ぐと、を見つめている。

「別に隠すわけじゃなかったけど、教えるタイミングを逃して結局黙ってる形になった。驚いた、だけじゃなくて、もっと言う事があっても良いんじゃないのか。昨日来た騎士の奴らも言ってただろ」

 夜に染まる草原の風景に、ナハトの瞳が鋭く光る。責めているわけではないのだろうが、挑みかかるような気迫は確かに存在していた。
 口を閉ざしたへ、ナハトはさらに言い募る。

「……あの反応からして、君は知らない側なんだろうけど。もう半分の生き物は、君が想像しているよりもずっとタチの悪い存在だよ。きっと」

 ――本当は、ナハト自身でも自覚している。恐れられるのも当然ではある、と。


 雪深い北の地の、限られた場所で暮らす、クズリ――ウルヴァリン――という生き物。
 犬猫ほど広く分布する生き物ではないので、知っている人は少ない方だろう。
 小柄な身体全体を暗褐色の体毛で覆い、胴体の側面に明褐色の帯状の模様が走るその外見は、イタチというより熊のよう。平常時の顔つきも、何処となくのんびりとした雰囲気もあるので、一見すると愛らしいと表現出来る生き物だ。
 しかしその実態は、天敵とされているはずの熊や狼といった、自らよりも遙かに巨大な猛獣たちと獲物を奪い合い、時に生命を懸け戦ってきた、獰猛な肉食獣である。

 体格で劣る小さなクズリが、天敵である熊や狼と、どうして戦ってこれたのか。
 “小さな悪魔”とまで称されるその所以は――相手が北の王者だろうと、群れた狼だろうと、そこに罠があると知っていようと、決して怯まずに飛び込む恐怖心の無さと。
 例え相手が音を上げ懇願しようと執拗に追いつめる、執念深さだ。

 熊や狼を蹴散らし、王者であるホッキョクグマを噛み殺すのだから、その本性は――語るまでもないだろう。


 その生き物の獣人として生まれるという事は、気質や特徴なども色濃く受け継ぐ事を意味する。半分だけとはいえ、ナハトも例外ではない。自覚のない部分で、確かにクズリという生き物特有の、命知らずの蛮勇を秘めているのだ。

 ――誰かが言っていた。
 彼らは今日を生きるために、いとも容易く命を賭ける、と。
 実感はないが、人から見たら存外そうなのかもしれない。

 だから、いくらが知らないとはいえ――。

「どうして、そう平然としていられるの」

 純然とした疑問と、途方もない困惑が、その声に浮かんでいた。を見つめるナハトの瞳は、理由の所在を必死に探しているようでもあった。

「――装飾品店の、おやじさん。あの人は気付いていたよ。僕がどういう奴なのか」




 捕まえ損ねた賊によって負傷者が出たあの時、ナハトは護衛を兼ねと行動を共にしていた。多くの人は細身のイタチ獣人の事なんて気にも留めていなかったが――その人だけは、違った。

「……ナハトくん、ちょっといいかい」

 装飾品店の主だという男性は、ナハトを呼び止め、静かに建物の脇へと導いた。人目を避けるように通りから離れてゆく足取りに、ナハトが異を唱える事はなかった。
 向けられたのは、確信を持ったような真剣な表情。真っ直ぐと見据える眼差しは、傭兵にも怯まぬ重い気迫に満ちている。
 彼が言わんとしている事は、その顔と雰囲気を見れば、あまりにも容易く想像出来た。

 だが、怯まない代わりに、少しだけ驚いていた。“凶獣”という傭兵の名が浸透していないこの地で、初めて嗅ぎ取った人物が、職人だという事に。

「……装飾品というのは、道具と材料に向き合うだけの仕事じゃない。身に着ける人をより彩り、素材全てを最高に輝かさなければならない」

 作る事ばかりではなく、微細なところまで観察し知り尽くす。それが自分にとっての仕事であり、矜持なのだと、男性は言った。

「だから、観察眼はそれなりに鍛えてきたつもりだ。体格は細めだがしっかりとした身体の線、騒ぎを見ても微動だにしない目、素人ではない足運び。傭兵と言えば納得だが、君はきっと、上手に牙を隠した猛獣でもあるんだろう」
「……」
「それも、この辺りの生き物が逃げ出すような……いや、もしかしたら熊でさえ尻を向けるかもしれない。君は恐らく、そういうのを相手にしてきたような存在だろうな」

 それを聞いた時、またいつものように意味もなく怯えられるかと思ったが、そうではなかった。男性の面持ちにあったのは、ナハトへの恐怖でも怒りでもない。亡友の忘れ形見である、を案じる心、それだけだった。

「仮にそうなら、どうか、あの子だけは守ってやってくれないか。あの子は人を惹き付ける子で、確かにしっかりしているが、決して強くはない。むしろ弱い。寂しさを隠して笑っている子だ、誰にも頼ろうとしないだろう。残党がうろつくようなこんな時ですら。昔から、あの子はそうだった」

 母親と父親が居なくなった時と、同じように。

「だから、守ってやってくれ、頼む。頼む――」

 張り紙の“凶獣”と同一の存在だと、さすがに気付いてはいなかっただろうが、猛獣だと知りながら頭を下げた男性に、ナハトは素直に感心した。

 押しつけられるのは、好きではない。しかし、あの言葉だけは、意外にもすんなりと耳に入っていた。




「――話が逸れた。まあ、つまりさ、あのおやじさんは……僕が単身、山賊の潜伏先に突っ込むような奴だと、気付いてた」

 そして実際、その通りになった。結局、それしか思い付く方法などなかったから。
 それについて、ナハトの中に後悔や自責の念といった類は、全くない。
 しかし――。

「……怖いって、言われ慣れたはずの言葉を君から聞くのは、ちょっと、面白くないかな」

 いや、面白くないどころか――きっと、耐えられなくなるだろう。
 傷つくような繊細な心は、当の昔に捨ててきたはずなのに。
 今更、必死になって探っている自身を嗤いながら、ナハトは何度も問いかける。

「怖いと、本当に思っていないのか」

 至近距離から覗き込むナハトの瞳を前にして、は――気付いたら、ほっと笑っていた。

「……良かった。少しだけ、安心した」
「……安心した?」

 面食らったように、ナハトが呟く。うん、とは頷く。

「安心したっていうより、嬉しいって言った方が良いかな」

 ナハトはこのしなやかな外見に反して、とても度胸があり、野生動物どころか凶賊をも退ける力を持っている。傭兵をやるだけの強さが、彼にはあるのだ。それは、とてもじゃないがなどでは、一生持つ事なんて叶わないものだろう。
 けれど、そんな彼にも、弱い一面がある。何かを恐れる事がある。
 それを知ったは、嬉しかったのだ。

「私は、ナハトに弱いところしか見せてないから。ナハトも同じで嬉しいし、見せてくれる事が嬉しいよ」

 それは少なくとも、彼の内心を見せてもらえるだけの存在になれたという事だ。
 柔らかく緩むの面持ちには、少女というより、女性らしいしたたかな煌めきが広がっていった。

「私、馬鹿だけど、それでもちょっとくらいは分かってるつもり」

 ナハトがどういう人物であって、どういう立場にあるのか。戦う姿や、冷徹な横顔を見てきて、最初の頃よりもずっと理解しているつもりだ。組み伏せられ、短剣を突きつけられたのは、他ならぬなのだから。

 ――もっと、何か出てこないのか

 張り紙の傭兵の正体を口にした騎士が、に言いたかった事も、今なら想像がつく。隣に立つ獣人が恐ろしくないのかと、問いただしていたのだろう。
 けれど、の思いは、今も変わらない。

「私が最初に出会ったのは、“凶獣”って呼ばれる傭兵じゃない。食べる時は顔がちょっと野性的になる、少し皮肉屋で……でも明るくて悪戯好きな、イタチの獣人だったから」

 張り紙でどれほど凶暴な姿を描かれても、恐ろしい動物の血を半分宿してるとしても――ナハトへの思いは、変わらない。

「だから、怖くなんてないよ」

 上半身を押さえ込むナハトの両腕が、力を緩めた。は自らの身体を振り返らせ、背面のナハトと視線を合わせる。真ん丸に見開くつぶらな目に、少しだけ笑みをこぼした。

「あのね、今更だけど――助けてくれて、ありがとう」

 がそう言った、瞬間。
 ナハトのしなやかな両腕が背中を覆い、力強く引き寄せた。

 互いの胸がぶつかるように重なり、ほんの僅かな瞬きの間に距離が失われる。両腕の中に閉じこめる強引な拘束は、もう抱擁と言っても差し支えなかった。
 肩口に、イタチの顔が埋まる。肌を撫でる毛皮のくすぐったさと、急にこみ上げる不思議な熱さに、の顔が火照る。唯一自由の利く両手は、夜風の中をおろおろと彷徨った。

「あ、ナ、ナハト」
「……こんなの、助けのうちにも入らない」

 肩に口先を埋めたまま、ナハトが喋る。温かい息遣いが掠め、の身体は飛び跳ねる。しかし、嫌悪感の類は一切なく、むしろ――心臓が高鳴り、恥ずかしいほどに喜びを感じた。
 の宙を泳ぎ続ける両手が、おずおずとナハトの背へ回る。抱きすくめる腕は、さらに力強くを引き寄せた。

「……君は強いよ、たぶん、僕なんかよりもずっと」

 気にしない、どうでもいいと口にしながら、この種族に生まれた事を誰よりも痛感しているのは――他ならぬナハトだ。
 だからこそ、腕に閉じこめたに対し、どうしようもない劣情も覚える。

「頼って、僕の事を」
「私、もうずいぶん頼ってるよ」
「それじゃあ足りない。もっと、僕だけを頼って」

 言葉すら足らなくなり、馬鹿のように繰り返す。
 もっと、もっと望めばいいい。どんな事でも出来るし、きっとしてあげられる。周りが“凶獣”と呼ぶ通りに、野蛮な獣として狂ってもいい――!
 そんな風に考えた瞬間、ナハトは思い知る。人の理性を持ちながら、決して人にはなれない、獣人の本質を。

 苦しいほどの抱擁を与えられるは、恥じらいと困惑を感じながら、何処か冷静にナハトを見つめていた。そんな風にぎゅうぎゅうと力を込めなくても、は振り払えないし、振り払う事だってしやしない。なのに、必死になるその姿は……怯えているような、泣いているような、危うさが滲んでいた。
 は自らの顎をナハトの肩に乗せると、気持ち背伸びをし、背中をぽんぽんと叩く。見た目よりもずっと広いそこが、微かに震えた気がした。

「上手く言えないけど、私は、ナハトの事、すごく頼もしく思ってる」

 けれどそれは、傭兵としての彼ではなく、肩書きや職業を取っ払ったありのままの彼の方だ。もちろん、前者も頼もしく思っているけれど、の中で大きくなった存在は後者である。

「だから、なんて言うのかな、ナハトが何かしなくてもそこに居てくれるだけで私は」

 私は、それだけで――。
 微笑むの声は、ナハトの耳へあまりにも自然に、温かく流れ込んだ。たったそれだけで陶然としてしまい、喉が勝手に鳴り始める。
 こんな醜態、他人に決して見せた事はないのに。
 だからこの存在が、特別なものになってしまったのだろうか。

「君はそういう子だったね……本当、敵わないな」

 ふと、ナハトの腕の力が緩まる。は少しだけ身体を離し、ナハトの顔を視界へ入れる。

「ずっと、考えてた事があるんだ」
「うん……?」
「明日、君と白花を見に行ったら――傭兵都市に戻ろうって」

 唐突にナハトから放たれた言葉に、は目を見開く。

「昨日、ここに来た騎士たち。あいつら、たぶん黙っててくれないだろうからね、連れ戻される前に自分から戻った方が楽そうなんだ」

 一瞬、頭が真っ白になってしまったけれど、ああやっぱりという思いがすぐに浮かんだ。予感は、当たっていたらしい。出来る事なら外れてくれた方が嬉しかった。

 しかしその後に続いた言葉は、予期していなかった。

「……だけど、このまま戻るのは、どうしても出来そうにない」

 の身体に緩く巻き付いていた腕が、ゆっくりと離れてゆく。そうして、おもむろにその手はの俯きがちな顔へ伸び、両頬を包んで静かに上向かせた。
 「あ、え……な……」言葉になり損ねた声が、の口からこぼれた。

「欲しいものが出来たんだ」
「ほ、欲しいもの……?」
「そ、欲しくて、仕方ないもの。それのせいで、戻るのが不安なんだ」

 分からないかなと低く囁いた声と共に、の側頭部にまで回るナハトの長い指が、意味ありげに耳をなぞる。

「――君が欲しいって、言ってるんだけどな。


 誰が、何を、欲しいと。


 頭の処理が追いつかないの前へ、イタチの顔が近寄る。笑うようにつり上がった口元からは、牙が覗いた。可愛らしい見た目も、今だけは、そう見えなかった。
 困惑するの瞳を見つめ、ナハトは続ける。

「……君はそんな性格だから、微塵も気付いちゃいないだろうけど」

 ナハトが知る限り、町や村で、彼女の評判は非常に良かった。だからこそ、ぽっと出の余所者のナハトはの知らぬところで睨まれてきたし、実際、彼女に懸想してると思しき男も何人か見つけた。こんな獣まで惹かれるのだから、当然の事なのだろう。

 もしも自分が居ない間に、そういう雄が近づいたら――。

 その可能性は、考るだけで心臓を焦がした。

「だから、ねえ、今すぐに頂戴。君を、僕に」

 欲しい、ただひたすらに、この目の前の雌が欲しい――!

 純然とした好意だけではなく、もっと本能的で抗いがたい、強烈な欲望。獣人が“人”には決してなれないその理由を、自ら証明するように、ナハトは吐露する。
 もっと気の利いた言葉が出せればいいのに、を前にすると、どうもその辺りも馬鹿になるらしい。欲しいとしか訴えられないなど、一体どこのガキだろうか。

 はというと、まさかそんな風に言われるとも思っておらず、口をぱくぱく開閉させ呆然としていた。頬を包む毛むくじゃらの手も、一心に見つめる瞳も、正面から向かい合った身体も、何もかもが熱い。
 今まで、そんな言葉をぶつけられた事は、一度たりとも……。
 恐れもよりも、驚きや羞恥心の方が、遙かに上回っていた。

「……冗談、言ってるように見える?」
「み、みえ、みえない、けど」

 狼狽えるばかりのの鼻先を、イタチが不意にかじる。決して痛みは与えない、優しい甘噛み。顔に集まる熱が、さらにじわりと増した。

「前にこれをした時は、単なる悪戯だったけど――今は、わりと本気だよ」

 言葉よりも目で語るイタチに、は情けなく声を漏らし、ぎゅっと肩を縮める。いくらこの手の経験値が低くても、何を言われているのか分からないほど、は馬鹿ではない。

 だって、困る。何が困るって、びくびくするしか出来ない癖に――。

「余所者だろうと関係ない。僕の爪と牙は、君に全部あげると決めた。なのに君を、他の雄に盗られるなんて、死んでもごめんだ」

 ――思い描いてきた告白とは程遠い激情をぶつけられながら、やっぱり、嫌悪感が全く無いのだ。

「死んでも、なんて、言い過ぎだよ……」
「僕にとってはそれぐらい君が重要だって事だ」

 あまりにも率直に吐き出された言葉のせいで、の顔はさらに赤みを増す。何か言おうと必死に言葉を探ったが、結局は形にならず、意味不明な音となってこぼれた。
 そんなの醜態も、ナハトはじっと見つめている。無視しがたい熱を宿す獣の瞳で、瞬きすらせず、狙うように。
 人間と獣人の違いが、そこにある気がした。

 絶えず押し寄せる羞恥心に、は仰け反って離れてしまいたくなる。しかし――ナハトの胸に置いた震える手は、引き剥がせなかった。

 それが意味するところは、ナハトにも伝わっただろう。

「……ねえ、逃げないの。逃げないなら、鼻とは言わず色んなところにかじりつくけど」

 冗談じみているのは言葉だけで、彼の声は急くように響いた。
 そうして、ナハトの手は確かめるように、再びの身体を抱き寄せる。ぎゅうっと固く目を瞑ったは、静かに腕の中に納まり、そして――もう一度、ナハトの背に腕を回した。



2016.11.15