16

 ――瞼の裏に、淡い光が届いた。
 眠りの中に沈んでいた意識が、緩やかに浮上してゆく。
 朝方はまだ肌寒いこの季節、ぬくぬくふかふかの心地好さに包まれ、温かなまどろみの中をは漂っていた。

 が、キリキリとゆっくり全身を締め上げる感覚が襲いかかる。

「――んぐう……ッうう……ッ」

 心地好さの中に混じり、じわじわとやって来る息苦しさ。夢うつつに上げた自らの声によって、まどろんでいたの意識は覚醒した。
 瞼を押し上げると、目の前には、ふかふかとした白い毛皮が広がった。
 それの正体は、すぐに分かった。
 全身を覆う茶褐色の毛皮とは色違いの、喉から胸にかけて生えている、ナハトの胸毛だ。
 そして自分は今、その中に正面から顔を埋めているらしい。

(あ……そうだ、昨日は……)

 身体を重ねた昨夜の記憶が、鮮明に思い出される。気恥ずかしさを浮かべたの頬は、ほんのりと熱を帯びた。
 目の前のナハトは、まだ眠っているのだろう。目の前のふかふかとした胸毛を微かに上下させ、ぴったりと身体を寄せている。衣服の類を身に着けていない肌に、毛皮の感触は少々くすぐったかったが、全身を温かく包まれとても心地が良い。何だかとてつもない幸福感と安心感覚え、瞼はとろんと下がっていったが――そんな事は、一瞬だった。

 の身体に回っているナハトの腕が、キリキリと締め上げてくる。の口からは、再び潰れた呻き声が上がった。

 は胸毛に埋もれながら身動ぎをし、どうにか顔を起こす。ぷはっと息を吸い込むと、目の前のしなやかな獣人の身体が小刻みに震えた。

「ッふふ、くすぐったいなあ」

 眠っていたイタチは、楽しそうに笑い、面持ちを緩めた。ただでさえ可愛いイタチの顔なのに、上機嫌に口元を上げるとさらに可愛らしさを増やす。

「えッあ、起こしちゃった……?」
「いや、少し前に起きてたよ」

 朝は苦手なんだけど、気配が動いたりするとすぐ起きちゃってね。ナハトは欠伸をし、キュウ、と喉を鳴らした。

「あったかくて、抱き心地が良いなあ。君は」
「だからって、苦しいよ、もう……」
「言っとくけど、先にしかみついてきたのは君の方だよ。無防備だったし、良いかなって」

 ナハトは悪戯っぽく言うと、を抱え直す。じわじわと締め上げる息苦しさは消え、代わりに全身を温かく包む心地好さが訪れる。むくれていたの頬はすぐに緩み、ふわりと笑みが綻んだ。

 ふと、は視線を窓辺へと移す。明らむ空に淀んだ雲はなく、清々しく澄み渡っていた。

「今日も晴れるね。出掛けるのに最適」
「……そうだね」

 ナハトの言葉には、やや間があった。その理由を察したの心にも、しんみりとしたものが微かに浮かんでしまったけれど、気落ちする事はなかった。
 ナハトはじきに本拠地へ戻ってしまうけれど、その前に、一年でもっとも華やぐ季節を共に過ごせるのだ。
 純粋に喜ぶに、翳りはない。

「お昼になったら、白花の群生地を見に行こうね。それまでに、仕事を全部終わらせないと」

 少し、いやかなり名残惜しいが、ふかふかの毛皮の中から身を起こした。

「……君、意外と元気? 身体とか、どっか痛くはない?」
「元気だよ。まあ、足の間には違和感が……でも動けるし、大丈夫!」

 ぐっと拳を握ってみせると、ナハトは何故かとても悔いるように「手加減して一回で終わせないで、もう三回くらいやれば良かった」とぼそりと呟いた。
 不穏な言葉は何も聞かなかった事にし、はナハトの腕を引っ張った。

「さあさあ、ナハトも起きよう。朝は忙しい……あ」
「ん? なに」

 は、はたと思い出すと、改めてナハトへ向かい合った。

「言うの忘れてた――おはよう」
「……はあ、君は本当……おはよう」

 ナハトは呆れたように肩を竦めたけれど、返した言葉は柔らかく響いた。


◆◇◆


 ――そういえば、忘れかけていた。

 早めに朝方の家事を済ませ、昼食の準備に勤しむは、ふと思い出した。

「――結局、ナハトが探していた人とは、出会えずじまいだったね」

 以前、彼が町に立ち寄った際に出会ったという男性。その人に会うためやって来たのに、見つけ出す事はついに叶わなかった。
 残念だね、とは言ったが、ナハト本人はあまり気にしていない様子である。

「仕方ないよ。もうだいぶ前の話だし、そもそも本当に町の人だったかも今となっちゃ怪しいしね。それよりも……君に会えて、十分に楽しませてもらったし」

 だから、別にいいんだ。ナハトの声は、晴れ晴れとしていた。

「……ところで、僕は本当に手伝わなくていいの?」
「いいの、ゆっくりしてて!」

 は鍋を混ぜながら、肩越しに背面へ振り返る。間仕切りの役目を担うカウンターテーブルで頬杖をつくナハトに、そこから入ってきちゃ駄目だからね、と言い聞かせた。

(どうせなら、バスケットを開けるまでのお楽しみにしたいし)

 温かい飲み物に、付け合わせに、母直伝のパンもどき――用意するものを頭の中に描き、厨房を行き来するには、自然と笑みが浮かんだ。

「分かったよ、僕は手を出さないから……ん?」

 ふと、ナハトが声をこぼす。頬杖をついていた身体をおもむろに起こすと、厨房に背を向け歩き始めた。はボウルを片腕に抱えながら、その姿を眼差しで追いかける。彼のしなやかな足は、部屋の片隅にあったチェストの前で立ち止まった。
 は、ああ、と口元を緩める。

「綺麗でしょ」

 チェストの上に並べ飾られているものは、両親が付けていた、揃いの首飾り。職人だった父が、美しい青い石を用いて作り出した、世界でたった二つしかない意匠だ。

「父さんと母さんが、大事にしてたものなんだ」

 それだけは手放せず、処分も出来なかった。

「そう……綺麗な首飾りだね」

 はにこりと微笑むと、背を戻し再び作業に取りかかる。

 その背後で、ナハトは首飾りをじっと見つめていた。前に何処かで見た事があるような、不可思議な既視感を抱きながら。



 その後、軽食の準備は順調に進み、無事に完成を迎えた。
 悪くはない仕上がりにも満足しつつ、丁寧に包んだそれらをバスケットへ入れる。その傍らには携帯用のポットもしっかり用意され、の今日一番の仕事は、満足のゆく出来で完遂された。


「――ナハト、準備出来たよ!」
「お疲れ様、さ、行こっか」

 差し出されたナハトの手を握り、は自宅を後にした。
 太陽は天辺へ昇りつめ、青空から穏やかな陽を注いでいる。陽だまりのもとで咲き誇っているだろう、白花の群生地へ向かった。



 が毎年、家族と共に見に行った場所は、町の郊外にある。ナハトと肩を並べ、未だ喧噪の坩堝にある町を通り抜ける事になった。が、その途中、顔見知りの人々からは声を掛けられ、恥ずかしさを噛みしめる羽目にもなった。
 まあ、そうもなるだろう。いかにも親しげな様子で、プライベートな格好で歩いていれば。
 少しからわれたり、微笑ましく応援されたり、の顔は自然と赤くなってしまう。ただ、隣を歩くナハトは、満足げに何度も頷いていた。

「町を通るのは悪くない案だね。横恋慕する暇もなく、失恋してる奴が角に見える。ふふ、ざまあみろ」
「え、何の話……?」

 気にしないで、独り言だよ――そう囁いた彼は、の腰に腕を回し、しなやかな躯体を寄り添わせる。見上げたイタチの顔には、やけに凄みのある笑みが浮かんでいるように見えた。
 結局、その言葉の意味を、ナハトは教えてくれなかった。



「――やあ、ちゃん。ナハトくんとお出かけかい?」

 次に話しかけてきたのは、装飾品店の主――亡父の古い友人だった。

「はい、そろそろ帰るらしいので、その前に白花を見に行こうかって」
「そうか……今までは、家族と見に行ってたね」

 ナハトの手に握られたバスケットを見下ろし、彼はくしゃりと笑った。そしておもむろにナハトへ視線を移すと、出掛ける前で悪いんだけど、と切り出した。

「少しだけ、ナハトくんと話してもいいかな」
「え、ナハトと、ですか」

 はちらりとナハトを見る。ナハトも男性を静かに見つめており、構いませんよ、と応じた。

「大丈夫、そんな面倒な話はしないから」

 二人にそう言われ、は首を傾げながらも頷き、距離を取った。



 遠ざかっていったは、少し離れた場所に佇む街灯の下に落ち着いた。それを確認したところで、改めてナハトと男性は向かい合う。

「突然、すまないね。せっかく出るのに」

 にこりと笑った表情は、穏やかだった。

「君には、礼を言っていなかったからね。ありがとう、あの子を助けてくれて」
「礼は、要りません。僕が好きでやった事ですし、頼まれたからそうしたわけでもないですし」
「ああ、分かっている。でも、言わせてくれ。本当に、ありがとう」

 ナハトは、少々居心地悪く感じながら、男性の微笑みを受け入れた。

「……実はね、一つ、君に謝らないといけない事がある」

 おもむろに、彼は居住まいを正した。

「君がもともとこの町にやって来たのは、人探しをしていたからだったよね。変わったパンを作っている男の事を」
「ええ、まあ」

 町の人々に尋ねて回った際、この男性にも声をかけた事がある。その時は、彼は首を振ったけれど――。

「知っているよ、本当は」

 ナハトは、思わず瞳を丸くさせる。男性は、ほんの少し申し訳なさそうにしながら続けた。

「私や、私の職人仲間なら、皆知っているだろうな。だけど、言わなかった。その時は、君がどういう人となりか分からなかったからね」
「それは……」
「――そのバスケット」

 不意に、男性の眼差しが、ナハトの持つバスケットへと移動した。

「中身は、ちゃんが作ったんだろう? なら、すぐにでも分かるよ」
「それは、どういう」

 ナハトは口を開きかけたが、男性は笑顔で遮り、ナハトの肩を掴んでくるりと反転させた。そして、職人らしい武骨な手で、ナハトの背を叩き押し出す。

「――あの子を、頼むよ」

 男性の穏やかな微笑みに、ナハトは言葉を飲み込み、静かに頭を下げる。彼に背を向け、のもとへ向かった。

「あ、おかえり。お話終わった?」
「……うん」
「じゃ、行こっか。町を出てすぐだよ」

 歩き出したの背を、ナハトは見つめる。もしかして、という思いを胸に抱き、その後ろに続いた。




 白い花弁が風に舞う通りを、イタチ獣人の青年と亡友の忘れ形見の娘が、親しげに歩き去ってゆく。その姿を見えなくなるまで見つめ、思わず大きく息を吐き出した。

 うっすらとだが、思っていた。こうなるのではないかと、最初から。

「……人の縁ってのは、つくづく不思議だな。“お前”も、そう思うだろう?」


◆◇◆


 賑わう町を一歩離れれば、緑豊かな郊外は静寂の世界そのものだった。
 木漏れ日の射す豊かな木々の中から、風に煽られる木の葉の音と、野鳥の微かな鳴き声が聞こえる。最近は喧噪に包まれ過ごしていたようなものだったから、清々しい静けさは心に染み渡り、格別に感じた。

 この一帯は周辺で暮らす人々の出入りがあるので、道の整備はもちろん鳥獣対策も行き届いている。町民たちの白花採取の的にもなるのだが、すでに採取は済んだのだろう。誰とも擦れ違う事はなく、目的の場所へと到着した。

 緑で囲まれた視界が開き、目の前に陽が注ぐ。そして広がった光景に、は感嘆の吐息をこぼしながら、そっと踏み入れた。

 歩を進めたの足下には、たくさんの小さな白い野花が揺れている。それらは、広い平らな大地を埋め尽くすように、陽に向かい咲き誇っていた。何物にも染まらない純白の色彩は、目映いほどに輝き、視界を染め上げた。

 一年に一度、長閑な緑の大地を一斉に埋め尽くす、白花の群生。

 毎年の事ながら見事という他ない純白の風景に、は頬を緩めた。所々で摘み取られた場所があるが、その下の緑が覗き、むしろ良いアクセントになっている。
 今年も、綺麗に咲いているようだ。

「どうナハト、なかなか良い景色でしょ?」
「へえ、確かに言うだけある。見事な咲きっぷりだね」

 ナハトはつぶらな瞳を瞬かせ、小さな鼻をひくつかせている。感嘆を浮かべるイタチ獣人の仕草に、は大満足の微笑みを浮かべた。

 ナハトの手を取り、白花で埋め尽くされる大地を進む。花が摘み取られ緑の原っぱが覗く場所へと腰を下ろすと、はバスケットを受け取り、早速その蓋を開けた。
 歩いてやって来たので、ちょうどよくお腹も空いてきた。
 携帯用のポットと器を取り出し、飲み物を傍らに用意する。それから軽食の包みを二つ持ち上げ、一つをナハトへ手渡した。男性の、それも獣人の手のひらから飛び出す、少々大きめのサイズの包み。ナハトは面食らったような面持ちで見下ろした。

「なんか、豪快な大きさだね。なんだっけ、のお母さん直伝のやつ?」
「ふふん、そう。特に好評の具を挟みました」

 胸を張るを横目に見つつ、ナハトは包みを開き始める。彼女はパンもどきと称して冗談ぽく笑っていたが、果たして。少しの期待を胸に抱き、中身を覗くと――思わず、動きを止めた。
 ナハトの反応を盗み見て、は悪戯が成功したような気分になった。

「ふふ、面白いでしょ。もともとは母さんが旅行した時、旅先で見つけたパン料理らしいんだけど、この辺りじゃまったく見ないものだからさ」

 変わった料理だってよく笑われたよ。楽しそうに表情を煌めかせながら、も包みを開いた。その中には、濃い目のソースで柔らかく煮た肉――ナハトが狩ってくれたものだ――を、自家製の葉物野菜で包み、さらにそれを正方形に切ったパンが両サイドから挟み込むという、豪快な見た目のパン料理が包まれている。
 メイン料理と前菜が一緒に取れるというこのパン料理は、亡き母がよく作っていた。そして今日挟んだ具は、その中でも特に家族の間で人気だったもの。母が居なくなってからは、幼い頃からがその役目を引き継ぎ、町の職人仲間のもとに向かって仕事をする父に持たせていた。

「見た目はちょっと変わってるけど、美味しいよ~」

 は大きく口を開き、かぶり付いた。甘辛いソースの絡む肉は柔らかく、野菜はシャキシャキと瑞々しい。我ながら良い案配に仕上がったと、ご満悦に微笑んだ。

 しかし、上機嫌に食べるのその隣で――ナハトは動きを止めたままだった。
 はそれを変わった見た目のせいだと思っているが、そうではない。
 ナハトの手のひらに乗っているそれは、同じだったのだ。焦燥感に苛まれ、負傷し町に足を運んだ数年前のあの時、顔も知らない男性が半ば押しつけるように持たせてきたものと、ほぼ――。
 まさかと思いながら、ナハトは怖々と口に運ぶ。舌の上に広がっていった味に、瞠目せずにはいられなかった。


 ――中身は、ちゃんが作ったんだろう? なら、すぐにでも分かるよ


 意味ありげに笑った男性が、ナハトの脳裏に過ぎる。

 やられた。最初から、知っていたのか。
 自分が探していた人物の事も、あれを作った人物の事も、全て――。

 ナハトはもぐもぐと咀嚼し飲み込むと、次第にその肩を揺らし、声を上げ笑った。
 は唇の端から野菜を覗かせながら、ギョッと彼を見やる。どうしたのかと窺ったが、ナハトは肩を震わせたまま首を横に振る。

「ふ、はは……ッ何でもないよ。ちょっともう、可笑しかっただけだから」
「そ、そう? 口に合った?」
「ああ、美味しいよ。本当に」

 ナハトは笑うと、大きく口を開きかぶり付く。顔を歪ませ、牙と歯茎を剥き出し、ギリギリと噛み千切るその姿は、相変わらず平素とのギャップが著しい。端から見れば、恐ろしい以外の何物でもなかったけれど――あっという間に、ぺろりと平らげてしまった。
 その早さからして、気に入ってもらえたのだろう。
 口の周りのソースを舌で舐め取る姿は、とても機嫌が良く、そして愛くるしい。食事顔のホラーを一瞬で忘れさせる。

「良かった! おかわりはまだあるから食べて」

 は上機嫌にバスケットを引き寄せ、ごそごそと中身を漁る。
 ナハトは、その横顔をじっと見つめていた。日向にあるせいか、周囲の白花のせいか、の穏やかな面持ちがいやに眩しく映っていた。

「……助けてくれて、ありがとう」

 は包みを持ち上げると、首を傾げ振り返る。

「……ん? 今、何か言った?」
「何でもないよ。本当に美味しいなって」 

 は嬉しそうに頬を染める。空気に溶ける花の香りよりも、ずっと甘く、温もりに満ちた仕草だった。




 食事を済ませ、暖かい陽射しの下でくつろいでいると、ナハトがぽつりと呟いた。

「――傭兵都市に戻れば、こんな風にゆっくり出来なくなる」

 は視線を移し、隣に座る彼を見つめる。そこにあったイタチの横顔は、思わぬ静けさを湛えていた。

「放り出して来た自分のせいだし、そこは文句なんて言わないけど」

 は、ただ小さく頷いた。
 もうすぐ、ナハトは活動拠点である傭兵都市という場所へ戻る。傍らには鞄も置かれているので、戻る準備も万端だ。
 以前から知っている事なのに、何故、この瞬間になって痛感するのだろう。



 不意に、ナハトが呼びかける。自然と下がってしまった顔を起こすと、ナハトの腕が伸び、肩を引き寄せた。

「少し、覚悟がついたんだ」
「覚悟……?」
「そう、覚悟」

 今まで散々、好きなように振る舞ってきた。
 浴びせられてきた言葉に傷つき、振り回され、しかもそれに苛まれ傷まで負った自身を、最も嫌悪したあの瞬間、決意した。仕事の領分を超えてまで誰かの為に動く事も、身を尽くす事も、今後一切は決してするまいと。
 けれど、今日まで、無意識に探し続けていたのだ。イタチという種に付きまとう心象を気にしない、あの男性のような存在を。

 ――どんなに強くても、どんなに傭兵として成功しても。
 結局、自分は何も変わらない、クソガキのままであったのだ。

 だから、今度こそ、変わるべきだ。
 もう二度と会えないあの男性に報いるため、目の前の存在のため、今度こそ。

 それによって、何かが大きく変わる事は、恐らくない。
 騎士のように国のため尽くす高潔な志は生まれないし、傭兵が命の消耗品である事には変わらない。荒事から雑事まで請け負う傭兵の仕事に影響はないし、それを望み“凶獣”と呼ばれるようになった自身のやり方も、変わる事はないだろう。

 ただそこに“彼女”のためという一文が加わった。

 それだけでも、ナハトが覚悟を決めるには、十分だった。

「もう少しだけ、真剣に向き合ってみようかな」

 そう告げたナハトを、は口元を緩め見つめた。
 面倒になって逃げてきた――そう呟いたあの日の晩の彼と比べると、面持ちの違いをはっきりと感じる。言葉こそ軽やかだが、何処か晴れ晴れとした仕草は、年相応の爽やかな青年らしさを漂わせている。

「それに――そうでないと、君を近くに置いとけないしね」
「えッ?」

 は思わず、素っ頓狂な声を上げる。途端に、ナハトは表情を怪訝に歪めた。

「……まさかとは思うけど」

 ナハトはやや不機嫌に呟くと、柔らかく回していた腕に力を入れる。引き寄せられたの身体は、閉じ込めるように、強引に抱きすくめられた。

「僕が、というより、僕ら獣人が、ただの一時の迷いで終わらせると思ってる? 傭兵都市には戻るけど、これっきりではいサヨナラ、なんてするわけがないでしょ」

 の目と鼻の先にある、茶褐色のイタチは、真っ直ぐと見下ろす。日向で輝く獣の瞳に、冗談の類は欠片ほどもない。本心からそう言われているのだと理解した瞬間、見る見るの面持ちに驚きが広がってゆく。

「え、ほ、本当?」
「……こんな嘘つくわけないでしょ。もしかして、嫌だったの」
「ち、違うよ!」

 は勢いよく否定し、首をぶんぶんと振る。

「嬉しい、すごく……」

 ナハトと過ごせるのは、これっきりでなく、これから先にもある。
 嫌なはずが、ない。
 の胸の奥に喜びが溢れ、温かく満たされた。傭兵都市という場所へ帰る彼を、見送る心は決めていたが、寂しさと期待まで手放したわけではなかった。嬉しいと、は何度も言葉を口にした。

 大輪のように鮮やかに咲いた、色づいた微笑み。心の底から喜び、それを表す仕草は、年相応のあどけなさと恥じらいに満ちていた。真正面から見たナハトの方が、むず痒くなってしまう。
 執念深さでは随一とまで時に言われる、イタチ獣人の雄――しかも凶獣とまで呼ばれるような雄――に目を付けられてしまったというのに。嘆くどころか喜ぶような雌は、きっと、世界でくらいなものだろう。

 皮肉めいた言葉を思い浮かべたが、格好はつかなかった。逃がすつもりは毛頭ないにしろ、喜んでいるのはナハトなのだ。
 のほっそりとした身体を、縋るようにかき抱く。

「今さら嫌がっても、鬱陶しがっても、遅いから」
「うん」
「頼まれなくたって来るし、その間はしつこくついて回るから」
「うん」

 は微笑んだまま、こくこくと頷く。

「……君、ちゃんと意味分かってる?」
「わ、分かってるよッ」

 は、ナハトの両腕の中に閉じ込められた自らの身体を、そっと彼に預ける。陽を浴びて暖かくなった、茶褐色のふわふわの首へ頬を寄せ、意外と肩に顎を乗せる。すると、ナハトの身体がぴくりと跳ねた。

「ありがとう――」

 ナハトは少し呆れたように溜め息をついたけれど、キュウキュウとこぼれる音は、とても上機嫌だった。

「……僕が居ない間、気を付けてよね。君は妙に緩いから、本当、心配だよ」
「もう、大丈夫だよ。私よりも、ナハトの方こそ気を付けてよね」
「……僕?」

 ナハトは意外そうな声をこぼした。は彼の肩に埋めていた顔を起こし、大きく頷いた。

「そうだよ。風邪引いたりとか、怪我しちゃったりとか、ちゃんと身体に良い食事を取らないとか……」
「本当、君、ちょいちょいお母さんみたいだよね!」

 この場面で止してよ、とナハトは項垂れた。

「良いから、約束。いくら傭兵として強くったって、あんまり危ない事したら怒るから」
「君に言われるとはねえ……分かったって、約束するよ」

 ナハトの言葉に、は満足げに頷く。
 ふと、互いの瞳を見つめ、小さく吹き出す。吸い寄せられるように、額と額を重ね合わせた。

「……何でだろうね、私、ナハトとこれからも一緒に居たいの。だから、一人に、しないで」
「……安心しなよ」

 イタチの顔が、悪戯っぽく笑った。

「頼み込まれたって、離れてあげるつもりはないから」
「う、うんッ」
「それに――諦めたわけじゃ、ないしね」

 ナハトの片腕が、緩やかに動く。獣の手のひらが、背中からお腹へ這うように移動してゆく。そして、へその下の、柔らかな腹部で止まると、爪の伸びた指先でくるりとなぞった。まるで大切な何かを慈しむように、ゆっくりと、妖しく。
 ほんの少しだけ、の背中がぞわりと粟立った。

「――、ちゃんと、覚えておいてね」

 イタチの瞳が、を真剣に見据える。

「僕は自分の言葉を違えるつもりはないし、これから先、君を手放す気なんてこれっぽっちもない。誰かに渡すなんてのは、もってのほかだ」

 おもむろに口角を上げ、牙を覗かせる。そうすると、途端に、目の前の可愛らしいイタチが、猛獣へ様変わりする。

「執念深いイタチに目を付けられたのが、運の尽き――だから、今から覚悟して待ってて」

 ……狡いなあ。そんな風に言われたら、否とは言えないよ。
 は目を細め、唇へと近づく牙を受け入れた。

「……うん、待ってる」

 噛みつくような口付けなのに――牙の向こうから聞こえた鳴き声は、やっぱり甘えるようだった。


◆◇◆


 ――自宅へ到着した時には、天辺に昇った陽は傾いていた。

 玄関の扉を開け、中へ踏み入れる。陽が差し込んだ家は静まり返り、誰の気配もない。今までそうだったのに、それを強く感じてしまうのは、ここ数日間に起きた出来事の濃さと、イタチ獣人の存在のせいだろうか。


 白花の群生地から町へと戻ると、ナハトはそのまま去っていった。馬車を乗り継ぎ、傭兵都市に帰還するそうだ。
 荷台へ乗り込む前に、彼はありったけの力でを抱きしめると、首筋を何度も甘噛みした。視線を一斉に浴びて恥ずかしかったものの、振り払う事は出来なかった。またね、と軽く手を振る彼は去り際まで笑っていたが、茶褐色の長い尻尾は垂れ下がり気落ちしていたのだ。
 はぐっと堪え、笑顔で馬車を見送った。その姿が見えなくなるまで、しっかりと。

 寂しくなかったわけではないが、長い時間、落ち込む事はない。またね、と彼が言った通り、これっきりではないのだ。


 空のバスケットを机に置き、ふう、と一呼吸を置く。後片づけを済ませようと再び動き出した時、ふと目に付いたのは、片隅で輝く青い首飾りだった。
 ……そういえば、二人に全然報告していなかった。
 すっかりと忘れていた事を笑いながら、は首飾りの並ぶチェストへ歩み寄る。

「父さん母さん、私ね、大切なひとが出来たんだ――」


◆◇◆


 ――結局、ナハトはに伝える事なく、その側を離れた。

 目的は最初から果たされていたのだと、隠すつもりも必要性もないのだが、今は胸の片隅へしまう事を選んだ。
 なにしろ、手放せなくなった理由がまた一つ増えたのだ。
 喜びに舞い上がってはいるが、のんきに語っている場合ではない。

 傭兵都市に戻ったら、早々に動き出さなければならない。を囲い込むには何が必要かと考え続けた。

 手放せない理由が増え、彼女に対する想いもさらに募った。何者からも守ってあげたいという純粋な好意だけでなく、何もかもを渇望する野蛮な欲望も。

 ……出来るものなら、今すぐにでも攫ってしまいたかったが、さすがにそこまで愚かではない。
 それになにより、“あの人”に申し訳が立たない。
 踏むべき順序は見失わないようにと、獣の感情を抑え付けた。

(……本当、僕がこうなるなんて、誰も思わないだろうな)

 らしくない事と笑ったが、悪い気分ではなかった。



たぶんきっと、最初から気付いていた人は居たと思われる、五年前の真実。
人の縁は、何処でどう巡ってやってくるか、分からないですよね。

◆◇◆

悪魔の契約を結んだなあと思いながら、次話でラストになります。


2016.12.24