02

「お嬢ちゃーん! 注文取ってくれるー?!」
「はーい、ただいまー!」
「こっちもお願いねー!」
「はーい! 少々お待ちをー!」

 くそ忙しい。
 内心で絶叫を上げながらも、は笑顔で店内を行ったり来たり駆け回った。テーブルのほとんどは客で埋められ、賑わう空気に飛び交う注文の声。目が回りそうとは、まさにこの状況だ。食事を取る昼時とはいえ、この忙しさは普段の比ではない。
 父の事にまで考えが回らず助かるけれど、それにしてもこれは凄い。日ごと増える客足は、昨年や一昨年の繁忙期と比べられないので、今年は一味違う事になりそうな予感がした。


 賑やかな客足が順々に減ってゆき、食堂の風景に普段の長閑さが戻る。ようやくも落ち着き、ほっと安堵した。厨房を見れば、食堂を営む夫妻もようやく人心地がついたようである。
 これ以上は増えないと思うが、もう何日か続くのだろう。
 嬉しいような、そうではないような気分になる。

 ――と、考えるの耳に、カランと鳴るベルの音が届く。

「いらっしゃいませ……あ」
「こんにちは、落ち着いた頃かな」

 開かれた扉から覗く、可愛らしいイタチのお顔。きゅっと閉じた口の周りと喉は白く、額と丸い耳は茶褐色の毛皮で覆われ、今日もふわりと柔らかそうだ。
 彼はちらりと店内を見渡してから食堂へ踏み入れる。シュッと細くしなやかな四肢の向こうで、先端の黒い尻尾がたなびいた。猫のように細長くはなく、毛足の長い少し厚みのある豊かな尾だ。
 イタチの頭部と人の身体を持つその獣人は、に視線を合わせるとつぶらな瞳を緩めた。は微笑むと、いらっしゃい、と改めて彼を招いた。

「なんとかね。ナハトはいつも絶妙な時に来るのね」

 空いてる席にどうぞと告げれば、彼は迷う素振りを見せず、カウンターに一番近いテーブルへついた。食堂にやって来るたびに彼はそこを選ぶので、お気に入りの場所なのだろう。町へやってきて二、三日の旅行者なのに、まるで常連客のような落ち着きだ。

「今日も日替わり定食?」

 彼は返事をする代わりに、キュッと甲高い鳴き声を漏らした。思わずの頬が緩みそうになる。



 ナハト、というのが彼の名だと知ったのは、わりとすぐの事であった。
 初対面から不思議な印象を強く覚えていたし、数日とはいえ毎日ほぼ同じ時間に出会って顔を見ていれば、緊張も自然と薄れる。
 食堂を営む夫妻が言うには、なんでも夜も足を運んでくれているらしい。小さな町なので飲食店も数える程度だが、通りにある同業者の店が混んでいるのでここへやって来るのだろう。
 そしてごく自然と互いに名を伝え合ってからは、短いながら言葉を交わすようになっていた。
 細くしなやかな肉体と四肢を持つ、イタチ頭の獣人の青年。年が近しいという事と、外見の可愛らしさ――男の人だから怒るかもしれないので言わないが――もあって、はこの獣人に親しさを感じていた。


 身体能力に長け、人と獣の二つの面を持つ獣人。ナハトの姿からもその種族性を感じるが、身構えるほどの恐怖を感じないのはイタチという種のおかげなのだろう。

 だって、可愛いもの。お顔から尻尾までふかふかして、たまにモキュモキュ小さく鳴いてるし。

 客としても一個人としても、ナハトという人物はの中では少なくとも好意的な印象であった。


 ――ただ。

「はい、お待ちどうさま! 今日の日替わり定食です」

 料理を乗せたトレーを、そっと彼の前へ差し出す。彼は穏やかにありがとうと告げると、フォークを取って早速食べ始めた。
 ――途端、可愛いお顔が歪み、野性的に剥き出される歯茎と鋭い牙。
 小さいながらも十二分に凶器と呼べる牙をもって、本日の日替わり定食のメイン、魚のソテーを噛みちぎる。つぶらな瞳は細く細く歪められ、端から見るとそれは誤解されかねない絵面だ。
 ナハト本人は、たぶんきっと、美味しく食べてくれている。皿からは順調に料理がなくなっているので。ただ、あまりにも、その。

(何で顔だけホラーになるんだろう……)

 せっかくの可愛らしい面持ちが、ホラーじめた凶悪な顔面と化すその瞬間だけは、は慣れずにいた。



 また一人、食事を終えた客が食堂を去ってゆく。
 はその背を見送り、ほっと落ち着きながらテーブルの片づけを済ませた。

「――ねえ、良かったら、ちょっと付き合ってくれないか」

 不意に掛けられた言葉に、はやや驚いてナハトを見た。茶褐色の体毛に覆われたイタチの顔は、へじっと視線を合わせていた。

「聞きたい事とかあるんだ。食べている間だけで良いから」

 椅子からはみ出た豊かな尻尾が、ふわりと揺れる。
 彼からそんな言葉を掛けられたのは、これが初めてであった。が少し驚いていると、厨房の夫妻から「他の客も居ないし、せっかくだからお相手してあげて」と後押しされた。
 確かに今は食堂にナハト以外の客の姿はなかった。

「でも……」
「ああ、こっちは良いんだよ。ちゃん、ずっと立ちっぱなしだろう? ついでに休憩してくれよ」

 夫妻のフランクな言葉には苦笑をこぼすが、ナハトは気を悪くした様子もなく「店主の許可も出た事だしさ」と椅子を勧めてくる。どちらが客か分からない状態にますます笑ってしまったが、はその空気に甘えお相伴に預かる事にした。
 実を言うと、立ちっぱなしで確かにきつかった。
 ナハトの隣に腰掛けると、の唇からはふうっと息がこぼれる。

「いつもこんな風に忙しいのか? この食堂……というか、この町全体」

 ナハトは、ぱくりと口の横からフォークを含む。

「ううん、普段は長閑なものだよ。外からやって来る人も、本当に少ないしね。今の時期だけだよ」
「今の時期?」

 きょとりとするイタチの顔を、は見つめた。不思議そうなその表情に、もまた首を傾げる。

「あれ、知らなかった? 私、てっきりナハトもそれ目当てで来たのかなって」
「いや、僕はただの旅行者だよ。何となくここを選んだだけのね」

 ナハトはそう言って、料理をぱくりと口に運ぶ。ギッシャギッシャと牙を見せ咀嚼する様は、間近で見ているせいか余計に迫力を感じる。
 ただの旅行としても、こんな田舎を選ぶのも珍しい。
 はふうんと声を漏らしながら、田舎町が人で賑わう理由を彼へ説明する事にした。

「普段は本当に田舎だよ、この辺りは。でも、今の時期はあちこちで特別な花が一斉に開花するから、こんな風に賑わってるんだよね」

 が暮らすこの自然豊かな土地には、この地でのみ育まれるというとある特別な花が群生している。
 花弁は大きく、他の色を許さぬ純白一色に染められており、たおやかに花を開かせる。その様は豪奢でありながら清楚さも放ち、何とも美しい外見をしている。時期が訪れると示し合わせたように一斉に咲き乱れるので、見事な大輪を咲かせ空へ上向くその光景は、人の手では生み出せない清らかな美しさに満ちていると評判だ。
 しかもその花は、たっぷりと蓄える蜜がとにかく甘いと評判で、さらには蜜だけでなく花弁から茎までは薬の材料とされている。その道に精通する人々からは、魅惑の存在として認知されているらしい。

 だが、この土地で暮らす人々からしてみれば、魅惑の白花の一斉開花は戦争開始の合図である。

 甘い蜜をたくわえる、自然界の特別な花。恩寵を受けるのは、なにも人間だけではない。自然で生きる生物たちも同様なのだ。
 この花が咲く時期になると、それを食料とする周辺の野生動物が大小問わずに集まり、そしてさらに集まった動物を求めて別の動物が集まるという、連鎖が生じる。
 人里付近にも咲く花なので、周辺で暮らす人々が鳥獣とはち合わせ襲われてしまうという話も、珍しくはない。

 白花が咲いて恵みをもらたらすのは事実だが、同時に危険も訪れるのだ。

 そのため、この時期になると、白花を求める者だけでなく、集まった鳥獣から糧を得ようとする者や、人里に近づき過ぎた場合の駆除を引き受けた者、白花を採取する際の護衛などなど、様々な人々が集まるのである。

 一年に一度、毎年必ず。
 この喧噪を、は十八歳という年齢の分だけ体験してきた。

 そして現在の賑わいを見る限り、近々、あの花が咲くのだろう。

 がそう説明すると、ナハトはしきりに頷いた。

「なるほど……ようやく納得した。やけに色んな人が居るなあとは思ってたけど」
「今年は特に人が多いみたいだしね。地元民もびっくりしてるよ」

 もしかしたら、今年は大量発生しているのかもしれない。恵みをもたらしてくれる白花は大切な存在ではあるが、人だけでなく鳥獣までも集めるのはなかなか毎年頭を悩ますところだ。

「そんな時に来ちゃって、ナハトも驚いたでしょ」
「まあねえ。まさか同業者がこうも多いとは思わなかったかな……」

 せっかく遠くに来たのに、と呟く彼は肩を竦めた。

「同業者?」
「ああ、この町に来ている来訪者の半分くらいは、傭兵だったからさ。経験積みの連中かな」

 確かに、町に滞在する来訪者の中には、荒事を生業とする傭兵も含まれていると聞いている。花を咲かせた白花の近くには、必ず巨大な鳥獣や昆虫たちが潜んでいるので、これを退けてもらわない事には採取などの作業が何も始まらないのだ。
 来訪者の半分とは、さすがに思ってもなかったが。
 ただ、が驚いたのはそこではない。彼は、同業者、と表現した。

「ナハトは、傭兵なの?」

 尋ねたに、彼は口元をくっと引き上げてみせた。「今はただの旅行者だけどね」
 返されたその言葉に驚き、はまじまじとナハトを見てしまう。茶褐色のふかふかした体毛に包まれるイタチ頭の青年は、獣人という種族にしては細くしなやかな印象を受ける。女性と見紛う身体つきではないものの、テーブルについた腕やその下で組まれる足など、傭兵という単語が何処にも見当たらないしなやかさを有している。そして何より――その可愛らしいイタチの顔を見て、とてもそうとは思えなかった。
 にわかに信じがたい話である。

「ふふ、君は思った事がすぐ顔に出るね」
「……あ! ご、ごめんなさい。不躾に」
「いや、良いよ。そっちの反応の方が助かるし」

 ナハトに気を悪くした様子はない。はほっと安堵した。

「今はただの旅行者だけど、これでも結構強いんだよ、僕」
「そうなの……? 全然そうには見えないなあ」
「はは、新鮮な反応。そう言われたのは久しぶりかな」

 テーブルに頬杖をつく上機嫌なイタチは、つぶらな瞳を細めた。食事の時のあのホラーな目つきではなく、何処となく柔らかい仕草。きゅっと閉じた口元も、心なしか緩んでいるように見えた。きっと、それが彼の笑顔なのだろう。それにつられて、もにこりと笑みを浮かべる。
 傭兵といえば、商隊や貴族の護衛、揉め事の物理的駆除といった荒事を請け負い片付ける人々だ。実力だけがものを言う厳しい業界と噂でしか知らないが……。
 そう言われたとしても、ナハトは傭兵に見えない。

「それはともかくとして、やけに人が多い理由分かってすっきりしたよ。どおりで宿屋が全部埋まってるわけだ」
「そうだね、たぶんどこも……ん? あれ、ナハトは町の宿屋を使っていないの?」

 まさかと思い尋ねると、イタチの頭が頷いた。は思わず身を乗り出す。

「え、じゃあ、この町の、近くの村とかで寝泊りして……?」
「いや、野宿」
「野宿?!」

 この時期に、屋外で。は絶句するが、ナハト本人は「やれない事もないよ」と実にあっけらかんとしている。

「傭兵生活が長いから、野宿くらい特に問題ないよ。まあ確かに、やけに野生動物だとかやたら大きい虫だとか遭遇するなあとは思っていたけど」
「そ、そりゃそうだよ。これから白花が咲くんだから、もう集まってきてるはずだもの」

 という事は、彼はこの数日間、危険度高まる屋外で寝ていた事になる。は驚きのあまり声を喘がせる。
 見る限り怪我の類はないので本当に無事に過ごしたようだが、それでもよく堂々と野宿の選択肢を入れられたものだ。本当に、彼は傭兵なのかもしれない。

「でも、だからってそんな……いつまで町に居るの?」
「さあ、まだ未定。気が済んだら、かな」

 そんな計画性のなさで、今後ますます危険になるだろう外で野宿。
 本人よりも、話を聞くの方が次第に不安になってくる。出会って数日だが、目の前にいるこの獣人の青年を放っておいてはならないような、そんな感情が徐々に浮かんできた。
 母亡き後、家事関係が苦手だった父には任せられず、幼い頃より一手に担ってきた。培われてきたお母さん的気遣いが、この瞬間つい出てきてしまう。

「……ねえ、泊まるところがないなら、提供するよ?」
「え?」
「これから、たぶんもっと危険になるだろうし、夜ろくに眠れなくなるのは大変でしょ?」

 いやらしさの欠片もない声で提案すると、ナハトはしばし口を閉ざし考え込む。
 会話を聞いていたのだろう、厨房に居る夫妻はいつの間にかカウンターにまでやって来ており、不安げにへ声を掛ける。

ちゃん、泊めるったって、何処に泊めるんだい」
「父さんの作業場。物はもうないし、一人くらい平気よ。それに……」

 は、打って変わり苦笑いをこぼした。

「半分くらいは、私もちょっとだけ下心があるの」

 白花の一斉開花の時期に合わせて集う、鳥獣や昆虫たち。これまでは、父が年を感じさせない逞しさで自宅周辺を守ってくれていたが、これからはがどうにかしなくてはならない。村の男衆も見回りなどをしてくれるはずだけれど、自己防衛の必要が生まれたのだ。
 とはいえ、齢十八の娘がどこまで獰猛な野生の生き物と渡り合えるかも定かでなく、ここのところの不安の種だった。
 けれど。

「傭兵さんにはあんまり見えないけど、村人よりも腕は立つんでしょう?」
「まあ、これでもね」
「交換条件って事にしない?」

 が寝床を提供する代わりに、花が咲いて鳥獣たちが特に活発化するその数日間、ナハトは危険を排除する。
 どうだろうと提案するの声に、ナハトの持つ丸みを帯びた小さな耳はしっかりと傾けられている。茶褐色のイタチの顔に難色を示すものは浮かんでいないので、さらには言葉を重ねた。

「ついでに今なら朝夕の食事も付けちゃうよ。どう?」

 覗き込むに、ナハトの眼差しが注がれる。イタチの口元にはつぶらな瞳は笑っているが、どこなく不敵な仕草が窺えた。

「一つ聞いても良いかな。君は“僕”の事を知らない、そうだよね?」
「え? うん、こないだのが初対面よ」
「そうだよねえ……ちょっとお人好しが過ぎるかな、こっちが不安になってくるよ」

 これが狼や虎だったら、も怯んでいたのだろうが。
 なにせつぶらな瞳が可愛らしいイタチ頭なので、天秤は恐怖よりも親しさへ思い切り傾いている。

 だが……確かに、いきなり不作法な提案だったかもしれない。つい目先の事にばかり気を取られて勢いのまま言ってしまった。は少しだけ焦ってしまったが、不敵な表情を作るナハトは、打って変わりにこりと笑った。

「でも……宿を貸してくれる上にご飯つきだしね。家の防衛だっけ? その条件でお願いさせてもらうよ」
「本当に? わあ、助かるよ」

 は両手を合わせ喜んだが、食堂の夫妻の声は芳しくなく不安そうである。
 背格好はだいぶ人と近いけれど、その身に流れるのは色濃い獣の血。隣人としてもっとも近しい種族としても、異種族なのだ。
 は穏やかに宥めていたが、当のイタチは気にしておらず、至極当然な反応だとむしろ頷いている。

「なら、こうしようか」

 そして、ナハトは提案する。この子を危ない目に遭わせないと、まずは貴方たちに誓おう。それなら良いだろうと、彼は告げた。

「ほら、本人もこう言ってるし」
「君はちょっと緩すぎかな……」
「だって実際、馬鹿に出来ない問題なんだもの」

 傭兵になんてまったく見えないけれど、少なくとも棒を振り回すしか脳のない村娘よりかは、断然安心だろう。
 力説するに、ナハトは仕方なさそうに肩を竦める。こぼす声には苦笑いが含まれているが、楽しそうな響きも感じられた。
 食堂の夫妻も、誓ってくれるのなら、と歩み寄りを見せた。彼らの目にもイタチの可愛い頭が映っているだろうから、なかなか彼は得する外見である。

「それにしても……“僕”をたったそれだけの条件で雇うなんてねえ……」
「え?」
「ん、何でもないよ」

 ナハトは居住まいを直すと、片手をへ差し出した。茶褐色の体毛に包まれた、獣の手。その指先には、人とは異なる、鋭い爪が生え揃っている。

「ともかく、これで交渉成立なわけだ。少しの間、お世話になるよ」

 は向けられた手のひらとイタチの顔を見比べ、にっこりと笑った。こちらこそ、とも己の手を差し出し、毛皮に包まれた彼の手を迷わず握る。
 茶褐色の彼の手は、意外にもがっしりとしていた。指の長さも手のひらの面積、触れた頑丈さも、全ての倍はある。それは獣人という種族より、異性であるという事を示しているようだった。



2016.06.18