03

 お疲れ様でした、と声を掛けて食堂の外に出ると、橙色で染められた空が広がった。
 涼やかさを帯びた風がふわりと吹く。穏やかな心地よさに、はほっと肩の力を抜いた。
 陽が傾いて夕刻を迎えた町は、日中の喧騒よりかは静かな気配があるものの、やはり人通りが普段よりも格段に多い。この時期でなければ今頃はもう人々は帰宅し、団欒を取りながら夜を迎え寝静まるのだが。

 は食堂の勝手口から表側の入り口へ足を進める。店の前に設置された角灯にも明かりが付けられ、じんわりと光を放っている。
 その下で佇む荷物を担いだ獣人の背を直ぐに見つけ、は小走りで近付いた。

「ナハト!」

 豊かな長い尾を翻し、向けられていた背が振り返る。茶褐色のイタチの獣人――ナハトの瞳が、へ定まった。

「ああ、仕事は終わった?」
「うん、待たせてごめんね。暗くなる前に行こっか」

 暮れるの空の下を、とナハトは共に進んだ。

 集まった人々で一段と賑わう町も、いったん離れてしまえば自然豊かな環境に満ちる静けさで包まれる。暮れる色に染まった町と村を繋ぐ道には、二人分の足音が響いていた。

「――それにしても、まさか獣人の、しかも傭兵に寝床を貸すなんてね」

 ナハトが不意にそう呟いた。

「危険だとは思わないの?」

 は少し考える仕草をしつつ、隣のナハトを見上げる。
 細くしなやかな躯体と四肢には、シュッとした凛々しさ。上背は、ちょっぴり小柄なよりも伸びやかで、頭一つ分と半分程度の身長差だろうか。首や肩の周りも同様で、ガチガチの頑丈さはないが女にはない自然な凛々しさが浮かんでいる。こうして見ると、彼は大柄の部類ではなくて、背格好もとても近しい印象だ。外見こそ人と獣、両方の性質を持つ種族の特徴はあるものの、恐ろしく思う事はない。
 それに、なにより――やはり、イタチの頭とふわふわな尻尾に、恐れる要素が見当たらなかった。

 というの考えは顔に出ていたようで、ナハトは肩を竦め「外見で判断したら危険じゃない?」と少し冗談ぽく笑う。

「まあ、そうなんだろうけど、でも……大丈夫、きっと。ただの勘だけど」

 でなければ、そもそも世話焼きのとて寝床を貸してあげるという心遣いを向ける事はない。

「それに、田舎って情報伝達が早いからね。仮に何かあれば……うん、ナハトが真っ先に疑われちゃう」

 脅しているようで、この言い方は自身もあまり好感は抱けないが、ナハトは感心するように頷く。「抜けてるようで抜けてないね」と呟く彼の声には、笑みが含まれる。
 取っ付きにくさや居心地の悪さはない。けれど、確かに感じた違和感に……縁遠い傭兵という単語が、ほんの一瞬だけ近付いた気がした。

「まあ、寝床を貸してもらえるのは助かるし、色々と言ったけどそこはありがたく思ってるよ」
「ふふ、そうでしょ? それで良いじゃない」

 はにこりと微笑む。ナハトの黒いつぶらな瞳が緩やかに瞬く。

「ところで、君は僕の事を、“ただのイタチ”の獣人って思ってるのかな」
「? イタチじゃないの?」
「いや、それは当たってはいるけど……うーん、警戒されないのはやっぱりそこかな」

 彼の言葉が何を示しているのか分からず、は首を傾げる。

「なんでもないよ。この顔で良かったと思っていただけだから」

 ますます分からなかったけれど、が暮らす村が見えてきたので、その話はそれで終わった。
 は軽く駆けて先に進むと、こっちだよ、とナハトを呼び先導する。そんなの背を、ナハトは少し笑って見つめた。

「……大小の違いはあっても、狼や熊と何も変わらない生き物なんだけどな。イタチって」

 ナハトの呟きは、に届く事なく風の音に吹き消された。

 仰ぐ空は茜色を深め、彼方から藍色を招きよせている。暗くなる前に無事に到着した村は、長閑な静けさをもってとナハトを出迎えた。



 質素な民家がぽつぽつと並ぶ村の道をしばし歩み、奥まったところに佇むの家へ辿り着く。その道中、顔見知りな村人たちと言葉を交わし、ついでにナハトの説明などをしたりして進んだので、普段以上に時間が掛かってしまった。
 人も少ない村なので、物珍しい事には食いついてしまうのだろう。ナハト本人は気にしていないようだが、不躾だった事には変わらないのでは彼らに代わり謝罪をした。

 ともあれ、はナハトを引き連れ、無事に帰宅を果たした。
 の家は、父の仕事の関係上、夜遅くにまで作業が長引く事が多いので周囲の迷惑にならない場所へ佇んでいる。住居と作業場が併設されているので、外観だけは恐らく村一番の大きさなのだろう。他はありふれていて、柵で囲った敷地に小さな畑がある程度だ。

 「ここが私の家だよ」は笑うと、ナハトを作業場へ案内する。

 扉を開け、明かりを灯す。薄暗かった屋内が、ぱっと照らし出された。
 作業場の中は至極シンプルな造りをしていて、作業をする大部屋と、仮眠などを取る小部屋が付いているだけだ。作業台や机、椅子、棚などが大部屋には残っているが、道具などは全て部屋の片隅に集め、細々としたものは収納家具の中へ納めているので、現在は広々とした空間がそこにあるだけだ。小部屋にはベッドのみだが、寝泊まりする分には事欠かないだろう。
 が歩を進めると、その後ろにナハトも続く。きょろりと見渡すイタチの頭は、何処か興味深そうな面持ちだ。小さな茶色い鼻をひくひくと震わせて匂いを確かめる様子は、まさしく獣。

「ここは……君の……?」
「正確には、父さんの仕事場。装飾品作りの職人だったから」
「立派な仕事場だね」

 そう言われて、悪い気はしない。は微笑み、ありがとうと礼を返す。

「でも、大事なところだろう。良いのか、あまり良い顔はしないんじゃ」
「ああ、そこは大丈夫」

 も作業場を見渡した。

「父さんは、もう死んじゃって居ないから」

 音のない、生活感のない、ただ広い静かな空間。二ヶ月前までそこにあった姿は、今は追想する記憶の中だけだ。

 一瞬、ナハトの動きが鈍る。人間のように表情が明確ではないけれど、気まずく思ったのかもしれない。はすぐに細い首を振り、もう平気だよ、と屈託のない笑みを浮かべた。自身もしんみりとしないよう、重くなりそうな空気を蹴り飛ばす。

「それにほら、これだけ広いんだし、ちょっと寝床を貸すくらい父さんだって快く受け入れてくれるよ」

 ナハトはしばし押し黙ったが、の笑みにつられるように身体の力を抜き、「ならお言葉に甘えて」と呟いた。
 そうそう、使うぐらい、構わないんだから。存分に使っちゃってね。
 は冗談ぽく言った後、小部屋のベッドを手早く整え、いつでも客人が寝れるよう用意した。そこまでしなくて良いのに、と彼は笑ったが、そこは世話焼きの心ゆえに適当は出来ない。

 今後の詳しい話などもしたいところだが、明日以降に持ち越しとなる。もう間もなく陽が落ち、村は夜を迎えるだろう。


「夕飯食べてきた? そっか、じゃあ明日から交換条件の朝夕のごはんを実行するね」
「……ねえ、君、お母さんみたいって言われない?」
「よく言われる! 何でだろうねえ。あ、それと作業場と家は繋がってるから。奥の、あの扉。何か入り用ならいつでも言ってね」
「……そして、とても緩い。ねえ、僕が言うのもなんだけど大丈夫?」


 こうしての家は、旅行中のイタチ獣人のお宿となった。



イタチを見て、青ざめ警戒する人はまず居ない。
けれど、実際の中身が外見に伴うかどうかは分からないところ。


2016.06.18