02

 千影に贈るかんざしが伊月屋へ届く、その吉日を待ち焦がれるある日。
 店に訪れた顔馴染みの商売仲間が、暖簾を潜るなり妙な呟きを漏らした。

「伊月屋さんは、大丈夫なようだな……良かった」

 心底安心したというように、商人は大きく息を吐き出した。そのただならぬ様子に、だけでなく伊月屋の主人達も不思議に思い、何かあったのかと問いかける。

「いやな、近頃、どうにもきな臭い連中が店をやり始めてよ。心配になって来てみたんだ」
「きな臭い? それは何処の店ですか」
「町の目抜き通りに暖簾を掛けた、神田屋っていう問屋(とんや)さ。店構えもでかいし繁盛してるようだが、金回りが妙だ。そこに商品を卸した奴らの顔色も浮かねえし、周りの店が急に暖簾を下げ始めてる。ありゃあ何かやってるぜ、くれぐれも気を付けてくれよ」

 馴染みの商人はそう忠告を残し、店を去って行った。

「穏やかな話じゃありませんね。旦那様」
「ふむ……町となれば、色んな店が出入りするものだが、少し気になるな」
「調べてみますか。俺、こういうのは得意なんで、任せて下さい!」

 名乗りを上げた従業員に、主人は頷きつつも「くれぐれも、店のお客様を不安にさせるなよ。あくまで調べるだけなんだからな」と付け加えた。

「変な事にならなけりゃ良いんだがな。なあ、

 神妙な面持ちで呟いた仲間の言葉に、も同意せずにいられなかった。
 胸をざわつかせたものが、単なる杞憂で終わってくれたら良いのだが……。



 ――しかし、それから間もなくの事だ。
 噂の大きな問屋、神田屋が伊月屋に姿を現した。

「お初にお目にかかります、神田屋という問屋を商う者です。少し前に店を開きまして、遅れながらご挨拶に伺いました」

 紺藍の色に染められた上等な着物に身を包んだ身体は、どっしりと恰幅があった。背丈は短いが、仕立ての良い着物のため妙に存在感を放っている。
 こいつが、噂の神田屋の店主か。存外、普通な顔立ちをしているが……。
 その後ろには男が控えているのだが、問屋の付き人にしてはあまり同業者には見えない。他の従業員と共に、はその動向をじっと見守る。

「こんな小さな小間物屋にまで、わざわざありがとうございます。大通りでの賑わい、かねがねお耳にしております」
「いやあ、そんな! まだまだでございます」

 片手を振り謙遜を示したが、神田屋の目に、不意に嫌な光が宿った。

「伊月屋様は、この辺りではたくさんの方々から慕われるお店だと聞いております。親しみやすく、困りごとの相談にも乗ってくれる、大変気っ風の良いお店だと。並ぶ品々を見て、その通りだと私めも思う次第です」
「ありがとうございます」
「……目抜き通りに構えてもおかしくはない、良質な装飾品。さぞ腕の良い職人達から卸しているのでしょうねえ。一体、どなたでしょう」

 和やかに応対していた主の面持ちが、ぴくりと揺れる。
 後方から窺っていた達も、ぎょっと目を剥いた。
 商売に係わるあらゆる情報は、店の命であり、大切な財産だ。それを軽々しく言うはずがないだろうに。
 なんて奴だ、不躾にそんな事を聞くなんて。
 思わず身を乗り出したが、それを主に眼差しで制され、達は渋々立ち止まる。

「おっと、冗談が過ぎましたな。ですが、良い商品である事には変わりない。気になりますな、大通りに並んでもおかしくはない品がここにあるという事。是非とも、うちの店にも卸したいものです」

 神田屋は柔和そうな微笑みを浮かべているが、その表情は作り物のように張り付いて、酷く不気味に思えた。
 しかし、伊月屋の主人は、それに怯む事は一切なく。

「……お認め下さるのは光栄です。が、小さな店とて私にも商人の矜持(きょうじ)というものがございます。お戯れは、あまり申されますな」

 穏やかな物腰は変わらず、しかし有無を言わさぬ凄みを含めた言葉で、神田屋に応じた。小さな店の主と侮っていたのか、神田屋は僅かにたじろぎ、その表情を一瞬歪めた。しかしすぐさま笑みを張り付けると、何事もなかったように取り繕い、上等な着物を翻して背を向けた。

「ともかく、今後もどうぞ、よろしくお願い申し上げます。伊月屋様とは、良い関係でありまたいものですな。ええ、是非とも」

 そう言い残して、神田屋は供を従え去って行った。
 彼らの姿が遠くへ消えたのを確認し――らは、思わず怒声を張り上げた。

「何なんすか、あいつ!」
「本当に暖簾をかける店の主なんですか!」
「こら、大きな声を出すな。誰が聞いているか分からないだろう」

 窘められ、声の調子は抑えたが、憤慨は全く治まらない。
 あれが噂の神田屋か。その印象を一言で言えば、きな臭い。この一言に尽きる。数日前の商人の言葉に、今なら大いに同意が出来る。
 でさえそう思ったのだから、伊月屋の夫妻は、それ以上に不気味に感じた事だろう。

「あんた、何か起きなければいいんだけどね」
「大丈夫だ、心配いらない」

 寄り添い合う二人の姿に、はいっそう気を引き締めた。
 大恩ある二人に、何か妙な事が起きないよう、目を光らせておかなければ。
 まさかこれで本当に終わるはずがない。去り際の神田屋の顔、あれは――何か良からぬ企みごとをする表情だったのだから。

 そしてその予感は――後日、的中する事となる。




「なんだよ、これ」

 ある朝、伊月屋へやって来たは、呆然と眺める。
 店の前に、腐乱した野菜がばら撒かれていた。嫌な異臭が漂い、思わず眉を顰める。

「お、か。おはよう」
「あ、ああ、おはよう。で、これは……」
「俺らもついさっき見つけてさ。ともかく、早く片付けないと」

 は頷き、店の仲間達と共に、掃除道具を持った。
 彼らが言うには、やって来た時には既にこの有様だったらしい。周囲に人影や気配は無かったそうなので、夜更けかもっと早い時間に汚していったのだろう。
 しかし店に被害はないし、周囲に民家は少なく朝方もあって住民の往来もない。誰かの目についてしまった可能性は低く、それが幸いだ。だが、食べ物を粗末に扱った事と、あからさまな嫌がらせをされた事については、少々腹立たしく思った。

 すぐにこの件は、伊月屋の夫妻にも伝えられた。しかし話し合うまでもなく、犯人の目星は付いていた。
 先日、不気味な笑みを残していった、神田屋。
 どう考えても、あの店である。むしろあそこ以外に思い付かない。
 昨日の今日でこれとは……ずいぶんと強気な態度だ。落ち込むどころか、逆に火がついた。

「小間物屋を舐めんじゃねえぞコラァァ!」
「この程度、痛くも痒くもねえんじゃオラァァァ!」

 を含めた従業員全員が息を巻き、闘争心を激しく燃やすものだから、伊月屋の夫妻が「喧嘩屋じゃないんだから」と宥める始末である。

 この日は、それ以外の嫌がらせは特に起きなかったので、気に病む事なく普段通りに店を開いた。
 しかし、朝の一件は、単なる始まりに過ぎなかった。
 その日から、伊月屋には嫌がらせがまめまめしく届けられるようになったのだ。


◆◇◆


「ここまで来ると、いっそ感心するな」
「本当にな。何だってここまで固執するんだろうな」

 この日に伊月屋へ届けられた嫌がらせは、店の外壁に泥がぶつけられるという手法だった。
 近所の悪ガキか。
 しかし単純だが、地味に苛立ちを煽る行為だ。

 最近はこれを片付ける事が、毎朝の日課になりつつある。あまり歓迎したくない事態だ。だが、掃除技能についてはめきめきと上達し、今では阿吽の呼吸のもと、風の如き速さで片付けが出来るようになった。泥で汚された外観など、あっという間に綺麗さを取り戻す。

「ありがとうね、みんな。面倒をかけて」
「いいえ、これくらい、なんて事ありません」
「そうっすよ! むしろ、店が常にピッカピカで綺麗になって、見間違えるよう……いてッ?!」

 余計な一言を口にした同輩の頭へ、は張り手を食らわせる。そんな馬鹿なやり取りを、伊月屋の主人達は楽しそうに笑ってくれた。嫌がらせに屈する事なく店を開き続けているが、こんな事が何日も続けば、さすがに気も滅入るだろうに。朗らかな面持ちを変えない二人に、は尊敬と労わりの念を同時に抱く。

「それにしても、今日のはずいぶんと直接的だったな」

 言われてみれば、確かに。神田屋が挨拶という名の不気味な宣言を残したその翌日から、小さな嫌がらせは始まったものの、程度としては児戯のようなささやかさだった。しかし一週間が過ぎた今日、ついに店の建物に手を出すようになった。という事は、つまり――。

「じわじわと、段階上げてくるつもりかね。少しずつ、弱い毒を流し込むように」
「厭らしい上に小賢しい! 本当に商人かよ!」

 ――それが商人であるというのだから、余計にタチが悪い。

 偵察が得意だという同輩の調べによれば、神田屋は店構えとしては本当に立派で、問屋として仕入れている品についても文句はつけられないものだったそうだ。成功を収めた商人として、大きな暖簾に見合う繁盛ぶりらしい。
 だが一方で、神田屋の周囲にこれまであったはずの店が極端に減り、携わっていた同業者達の多くは口を噤んでいるという。一強を誇る神田屋には裏の顔があると言っているようなものだ。
 横で繋がる町の商売仲間は皆、神田屋を訝しく思い、一体何をしているのかと毎夜のように話し合っていると聞く。

 神田屋に目をつけられ、あからさまな嫌がらせを受けている伊月屋としては、おおよその想像がつく。
 商売敵となりそうな店を徹底的に痛めつけ、暖簾を外させると同時に、その店の命である商売の情報を根こそぎ奪ってゆく心算なのだろう。
 商売の競争はあるとしても、この手法は道理に反する。そこまでして、店を大きくしたいのだろうか。だとすれば、ろくでもない理由がありそうだが……。

「何が来ても対応出来るよう、心構えはしっかり持っておかないとな」
「伊月屋を守るぞ! おー!」

 達は握り拳を高く突き上げ、意気込みを新たにした。その傍らで、夫妻は感極まったように微笑む。

「お前達には迷惑を掛けている。すまないな」
「俺達は、迷惑だとか、思った事はありませんよ。旦那様にも、女将さんにも、ご恩がある。改めて言う事ではないかもしれませんが、俺達はこの程度の事で逃げたりなんかしませんよ」

 な、とが振り返ると、従業員の誰もが揚々と頷いた。
 二人は一瞬面食らった様子を見せたが、やがて安堵の笑みを浮かべる。そのまなじりには、きらりと光るものが滲んでいた。

「……しかしまあ、この店の良さに気付くとは、神田屋は目が肥えてるな。胡散臭いけど」
「ああ、胡散臭いけど、目利きの腕はあるな」

 大通りから離れた場所に立つ、それほど大きくはない小間物屋。しかし此処は、余所とはひと味違う店なのだと、自負する強みがある。神田屋はいけ好かないが、一目で気付く点については賞賛してもいいかもしれない。腹が立つが。

「それはそうだろう。うちは“人間の店には並ばない品”が集まる、数少ない場所なのだからな」

 夫妻が胸を張って言ったその時――唐突に横切った風が、伊月屋の暖簾をふわりと揺らした。

「――ごめん下さいな、伊月屋さん」

 人影も、気配もなかったはずの入り口に、小柄な老人が佇んでいた。
 の腰に届く程度の、極端に小柄な背丈だが、背中や足はしゃんと伸びていた。身なりは、少々汚れた質素な笠と衣服を身につけ、見窄らしさを感じさせるものの、その笠の向こうで光る目や、裂けた口元、尖った爪の伸びたしわだらけの手など、人間のそれではない。人の世から離れた、泰然とした独特の空気が周囲にあった。

「少し“飛んできてみた”んだよ。気にしないどくれ」

 小柄な老人は、しわがれた声で笑いながら踏み入れると、まるで自らの家のように小上がりに腰掛けた。

 その老人は、いやあやかしは、伊月屋と深い縁のある御仁で。
 何を隠そう、伊月屋に並ぶ装飾品の一部を作り出している、珍しいあやかしの職人である。

「噂を聞いてねえ。他所の店に目をつけられてんだって?」
「これは……お恥ずかしい限りです。一体どなたからお聞きに」

 すると、老人は口を大きく開け、呵々と笑った。

「あやかしの噂は、人間のそれよりもずうっと早く回るのさ。わしらは元来、噂好きの、悪戯好きだからね。ああ、そうそう。店から少し離れたところに怪しい男連中が居たんだがね、恐ろしかったからついつい“手を出しちゃった”よ。今は逃げ帰った頃かねえ」

 もののついでのように告げられた言葉に、は微かに背を伸ばす。怖や、怖や、と老人は呟いているが、本当は微塵もそう思っていないだろう。あやかしの存在に慣れているとはいえ、この老人の風格は、今も少し震えるところがある。

「ああ、安心しなさいよ。わしはお前さんのところにしか卸す気はない。他の連中もそうだろうよ。此処は、居心地が良いからねえ」

 老人はそれだけ言うと、飄々とした態度を崩さず、ひょこひょこと店の入り口へ向かう。そして一陣の風が横切った時には――老人の姿は、もう何処にも無かった。


 伊月屋に良質な品が並ぶ理由が、正にこれだ。
 この店は、数少ないあやかしの職人達に、たいそう気に入られているのだ。
 人とあやかしの隔たりが無くなった現在でも、人の世と頻繁に係わろうとしない、人間以上に頑固で融通の利かないあやかしの職人。彼らが手がける代物は、あやかしにとっては馴染み深く親しみやすいものだが、人間にとっては珍しく一等美しい品である事が多い。それを、伊月屋にこっそりと卸してくれているのだ。
 ……ただ、あやかしの職人達は、基本的に自由というか気まぐれなので、作品を卸す頻度にはかなり幅がある。おまけに、卸値についても気分一つで簡単に変動する。先ほどの老人もそうだ、あの御仁が作る作品は素晴らしいのだが、いかんせん気まぐれが過ぎる。扱いづらい職人の中でも輪に掛けて気を遣う人物と、は内心思っている。
 そんなやりづらい相手と、夫妻は事も無げに親睦を深めているというのだから、純粋に尊敬する。



「こんにちは、伊月屋さん」
「こんにちはー!」

 ほどなくし、今度は親子連れのあやかしがやって来た。暖簾をくぐった彼女達の後ろから、千影が顔を覗かせる。

「千影も来たのか」
「ええ。手習いの帰りで、用があるからと一緒に」
「へえ、じゃあ後ろの子は千影の教え子って事か」

 はしゃがむと、あやかしの子どもと目線を合わせる。

「お兄ちゃんが、せんせーの旦那さん? 本当に人間だあ!」
「あら、そうなの。お似合いねえ、千影先生」

 千影は恥ずかしそうに肩を狭めたが、袖を添えた口元は嬉しそうに緩んでいた。

「おい、先生って、どういう事だ?」
「あれ、言ってなかったっけ。小さいあやかしの子達に文字の読み書きとか、あとは町に来て日の浅いあやかしにここの生活とか教えてんだよ」
「先生と呼ばれるほど、大したものではないのですが、精一杯勤めさせて頂いてます」

 謙遜しているが、千影は昔から字が上手で、ある意味で人間の域を超えていたの字を正してくれた。(相当な根気を要した事だろう)だから、文字の読み書きを教える先生というのは、意外と彼女の天職であると思っている。

「ふふ、千影先生からこのお店が良いと聞きまして。こないだ、かんざしが折れてしまって困っていたんです。新しいものに換えられたら嬉しいのですが」
「それはそれは、ありがとうございます。うちはかんざしも多く取り扱ってますので、どうぞ見ていって下さい。こちらですよ」

 母親がうきうきとした足取りでかんざしを見に行く。その間、他の従業員が子どもの相手をし始め、和やかな空気が店に広がった。

「ねえ、さん」

 そっと歩み寄った千影が、に耳打ちする。

「お二人とも、大丈夫? あれはまだ続いているんでしょう?」

 あれ、というのは、伊月屋に対する嫌がらせの事だ。

「まあ、お二人は、大丈夫なように振る舞っているんだけどな……」

 嫌がらせ程度に屈するつもりのない二人は、いつもと変わらずに店に立っている。幸いにも贔屓にしている客が近隣に多く、逆に励まされ勇気づけられているほどだ。二人にとっては、心強い後ろ盾だろう。
 しかし、風評というものは、まったく馬鹿に出来ない。
 拳の喧嘩なら手っ取り早いのだが……それで済めば苦労はしない。

「お元気そうだけど、きっとお辛いわよね。何か励ませたら良いのだけれど……」

 千影の言葉に、も同意せずにいられなかった。



2018.8.25