03

 伊月屋と神田屋の水面下の合戦が始まり、一週間が過ぎようとしていた。
 相変わらず嫌がらせは欠かさず届けられており、どちらかが音を上げるまでこの根比べは続くだろう。
 近頃はも朝早くから店に向かうようにし、夜の見張り当番も組んでいこうと仲間達と話し合っている。町の取締組にもこの事を伝えるため、準備を進めているところだが……神田屋が直接的に手を出しているという証拠が無いため、どうなるか分からない。

「もうこうなったら意地でも折れてやらねえけど、どうにかしないと。しばらく面倒な事が続くけど、頼むな」
「面倒だなんて思わないわ、お世話になっているんだもの。……あ、そうそう。それでね、私、後で少し伊月屋さんへ顔を出そうと思うの」

 大変な思いをしている伊月屋を励ませるよう、これから菓子を作るのだと、千影は言った。

「今日のお昼頃に持って行こうと思うの。皆で食べてもらえるよう、少し多めに持って行くつもり。もちろん、うちにも用意しておくから」
「そっか。そりゃ楽しみだ」
「ええ、待っていて下さいな」

 力強く告げる千影は、いつになく意気込みに満ち溢れている。気の滅入る事が続いているから、伊月屋の夫妻にも、良い励ましとなるだろう。もちろん、にとっても。おかげで、その日の朝は久しぶりに心が軽かった。



 ――やがて太陽が中天を過ぎ、約束の時間が近付く。
 しかし千影がやって来る前に、は使いを頼まれた。大通りに構えた店へ、届けたい荷物があったらしい。

 戻ってくる頃には、千影も来ているだろうし。仕事はしっかりしねえとな。

 は丁寧に包まれた荷物を、落とさぬようしっかりと胸に抱え、伊月屋を後にする。店の人々に千影が訪れる事は伝えてあるので、問題ないだろう。

(それにしても、大通りなあ……。神田屋は、今日もあそこで店を開いてんのか)

 少し様子を見てみようかと思いながら、は足早に町中を進んだ。



 ――が使いに出て、すぐの事であった。
 入れ替わるように、千影が伊月屋へ到着した。

「ごめん下さいな、女将さん」
「あらあら、千影ちゃん! いらっしゃい、ちゃんから聞いていたよ。よく来てくれたねえ」
「あ、千影姐さん! いらっしゃいませ」

 朗らかに出迎えてくれる伊月屋の女将の後ろから、店の主人や従業員らが続く。親しくしてくれる人々の表情は、常と変わらずに温かく、憔悴した様子は一切見えない。嫌がらせも陰湿さを増してきているとが言っていたから、ここに来るまで少々不安だったのだが、杞憂であったらしい。千影は人知れず、ほっと安堵の溜め息をこぼした。

「でも、ごめんね。たった今、ちゃんにお使いを頼んじゃって、店には居ないんだよ」
「まあ、そうなんですか。でも、ご用があったのは伊月屋さんなので、先にこちらを」

 腕に抱えていた荷物を、板の間へ置く。なんだなんだと集まった彼らの眼差しを受けながら、包みを解き、木箱を取り出す。その蓋を両手で開け、作ったばかりの団子を彼らへ見せた。

「おお、美味そう!」
「思い立って作ってみたんです。ですがうっかり多くしてしまって……皆様で食べて頂けたらと」
「まあ! 千影ちゃんの手作り? 上手ねえ、とっても美味しそう」
「何だか悪いね、千影さん」
「いいえ、お口に合うと嬉しいです」
「合う合う! というか、口の方を合わせますって……いてえ!」

 ぽこんと頭を叩かれた青年が、その場にうずくまる。

「まったく、調子の良い事をすぐ言いやがって」
「お昼だし、せっかくだから休憩がてら皆で頂きましょう。千影ちゃんも座って。ちゃんもじきに戻って来るから」

 女将はそう言うと、千影を座らせ、おもむろにその手をぎゅっと握った。

「ありがとうね、千影ちゃん。ありがとう」

 嫌がらせの続く店を励ますため用意したのだと、きっと気付いているのだろう。千影の手を包むように握る彼女は、嬉しそうな微笑みを絶やさなかった。

 人数分の茶と楊枝(ようじ)が用意され、それぞれの手に行き渡る。さっそく団子へ、各々が手を伸ばし、食べようとした――その時だ。

「よう、邪魔するぜ」
「伊月屋っていう店は、ここで合ってるかい」

 暖簾を乱暴に押し上げた男達が、無作法な振る舞いで店へ踏み入れてきた。




 届け物の荷物を相手方へしっかり手渡したは、伊月屋へ戻る道すがら、神田屋の前を通りかかった。
 店の名を刻んだ暖簾は大きく、立派な店構えに相応しい、堂々たるものだった。しかし、その通りにあったはずの店は入り口を閉ざし、不気味なほど静まり返っている。神田屋へ出入りしている住民達は、知っているのか、知らぬふりを通しているのか、それは分からないが……扱っている品の質は遠目に見ても良く、値段にも違和感はない。だが、町へやって来たばかりというわりに、羽振りが良すぎる。
 この不気味な感覚はなんだろう、この店はやはり何かおかしい。は、改めてそれを嗅ぎ取った。

「――おや、そこにいらっしゃるのは、確か伊月屋さんの方じゃあございませんか?」

 不意にを穏やかな声で呼びかけたのは、神田屋の主人、その人であった。
 柔和な面持ちでへ歩み寄る姿は、一見すると人がよさそうに見えるだろうが……まるで自分は何も知らぬと言わんばかりの、おくびにすら出さない自然な振る舞い。大した面の皮の厚さだ。
 胸の内で悪態をつきながらも、は冷静な心を忘れないよう自らに言い聞かせ、神田屋へ礼をした。

「使いの帰りでして、たまたま通りがかりました。噂に違わぬ繁盛ぶりでございます」
「ありがとうございます。ああ、そうだ。せっかくですから、中へどうぞ」
「いいえ、申し訳ありませんが、すぐに戻らなければならないので」

 うっせえ狸じじい、誰が行くか。心の中では唾を吐いた。
 正面に佇む神田屋は、いかにも残念そうに肩を落とし落胆する。しかし不意に、をじっと見つめた。

「あなた、従業員のわりに体格が良いですね。鍛えられたように見受けますが、何かなされておいでで」
「それは……店の荷物運びをしているからでしょうか」

 は何食わぬ顔で返す。まあ実際のところ、荷運びだけでなく、これまでの喧嘩で鍛えられた賜物なのだが。
 しかし何だっていきなりそんな事、とが思うと、神田屋は口元の笑みを深めた。

「……ねえ、あなたは、あの小さな店で満足していますか」

 ぴくりと、は微かに眉を動かす。

「最初見た時から、あの店にはもったいないと思っていたんですよ。うちでなら、より良い待遇でお迎えいたしますが」
「私が首を縦に振るとお思いですか」

 わざわざきな臭い店に、大恩ある店を裏切って、鞍替えするだと。馬鹿馬鹿しいにもほどがある。呆れ果てたに、神田屋は気に障った様子もなく、可笑しそうに笑った。張り付けた形ばかりの柔和な笑みが、その本性を剥き出すように、黒く歪むのを見た。

「振りたくなるかもしれませんぞ。例えば、あの店そのものがなくなってしまったり。あるいは――あなたの奥方に、何かあったりした時など。私はね、欲しいと思ったものは欲しがるタチなんですよ。物も、人妻も」

 無視出来ないその言葉に、は両目を鋭く細めた。震えるほどに手のひらを強く握り締め、目の前を焦がす激情を必死に抑える。

「……それは、脅しですか。それとも、伊月屋への嫌がらせをもっと酷くするという、宣言ですか」
「さあ。ですが、そのように受け止めて頂いても構いません」
「……認めるわけですね。うちの店への嫌がらせだけでなく、他の店を潰したのは自分であると」

 神田屋は歪んだ笑みを口元に乗せると、揚々と告げた。

「店の従業員程度の嘆願に、取締組とて大仰しく動けるはずがあるまい。第一に、私は縄を掛けられるような悪手は打たんよ。潰されるような店が悪い」
「……どっちにしろ、あの店はあんたに屈しない。やるだけ無駄だし、いずれ相応の天罰が落ちる」

 の言い放った言葉を、神田屋は愉快そうに笑って聞いていた。

「屈するかもしれませんよ。例えば、今日など……いや、まさに今、この瞬間とか――」

 その不気味な声に、の心臓は音を立てて跳ね上がった。


◆◇◆


 急ぎ戻った伊月屋の前には、人だかりが出来ていた。不安げに伺う見物客の向こうから、耳障りな罵声がはっきりと聞こえてくる。

「この程度の品で、こんな金を取んのかよ!」
「大したぼったくりじゃねえか、ああ?!」

 伊月屋の入り口に、難癖を付けている男連中が見える。佇まいからしてならず者の空気があり、明らかに客ではない。神田屋の手先か。は人だかりを急ぎかき分ける。

「お前らな、いい加減に……!」

 男達の粗暴な振る舞いを制止しようと、進み出た同輩は突き飛ばされる。それを見て、耐えかねたように伊月屋の女将が身を乗り出したが――それを、しなやかな身体がさっと遮った。
 千影である。

「いい加減になさいませ。店の方々にも、周りの方々にも、ご迷惑になります」

 庇うように立った千影に、男達は一瞬虚を突かれた顔をしたけれど、値踏みをするような粘着質な視線をやった。千影は、切れ長な細い目の形をしているため、怒るとその凄みが増すけれど、もともと顔立ちは凛として美しい部類なのだ。男達の顔に、にやついた下卑た笑みが浮かんだ。

「勇ましい鬼の姉ちゃんだな。店の売り子か? だったら、あんたが詫びてくれてもいいんだぜ」

 男達の無骨な手が、千影を掴まえようと伸びる。
 それを見た瞬間、の中で、ブチリと派手な音を立て堪忍袋の緒が切れた。

 人だかりを押し退けて抜けると、千影の正面に身体を割り込ませ、隠すように立ちはだかる。恐らく、怒りがそのまま表情となって面へ浮かんでいるのだろう、男達が僅かに怯んだ。だが、が若い男と見ると、嘲る態度を取り戻す。

「俺達は客だぞ。引っ込んでろ」
「こんだけ周りに迷惑を掛けて、おまけに人んちの嫁にちょっかい出す連中が、客だと? ふざけんのも大概にしな」

 は僅かともたじろがず、連中の目を睨み返す。

「……神田屋の差し金か。あの店に従う旨みは何だ。金か、それとも」
「……チッ! うるせえよ、この!」

 の正面に立つ男が、拳を振り上げる。それを見ながらも、はあえて避けずに、頬で受け止めた。鈍い音が響き、背にいる千影が悲鳴に似た声を上げる。

さん! おのれ、薄汚い人間風情が……!」

 ざわりと、千影の空気が震える。物静かな彼女にはらしくない声色を聞き、はすかさず彼女の手を後ろ手に握った。抑えるように力を込めると、千影がハッとなって正気を取り戻す。それにほっとし、は改めて男達を睨んだ。

「……先に手を出したのはそっちだ。こっからは正当防衛だ」
「あ?」

 自分の頬を殴った男の胸ぐらを素早く掴み上げ、息を吸い込み、渾身の頭突きを見舞う。まったく構えていなかったところへ叩き込まれた衝撃に、男は呆気なく目を回し、後ろへどうっと倒れた。

「な、てめ……!」

 躍りかかってきた男達の身体に、順番に拳を叩き込む。体勢を崩し怯んだ男を、最後は道の真ん中に放り投げた。

 これまでの喧嘩相手は、人間だけではなかった。色んな術を使うあやかしともやったし、そんなを気に入ったあやかしの男衆から稽古をつけてもらったりして、鍛えられた。
 例え曲がった事を嫌うがゆえの行いだったとしても、喧嘩は喧嘩。生傷の絶えない無鉄砲なは、あまりにも危うかっただろう。それを憂えた大人達のおかげで、道を踏み外す事はなかった。おかげで、こういう荒事にも対応出来るというものだ。

 ――ただ、心配してくれた彼らの方こそ容赦なく投げ飛ばしてきたので、生傷だけは結局減らなかった。
 今になって思う。あれは半分くらい、面白がっていただけなのだ、と。

 は着物の襟を正し、地べたに這いつくばる男達をじろりと睥睨する。

「喧嘩慣れしてんのが、そっちばかりと思うなよ」
「ぐ、てめ……」
「――雇い主に伝えろ。そっちがその気ならこっちだって簡単に折れてやらねえ。てめえのヘマを必ず引きずり出してやるってな」

 集まっていた人々からも、男達を批難する声が上がっていた。さすがに分が悪いと思ったのか、男達はどうにか立ち上がると、乱れた格好のまま走り去っていった。

 張り詰めていた空気が、あちらこちらからどっと上がった歓声によって、全て吹き飛ぶ。もようやく息を吐き出すと、胸を撫で下ろし、改めて店の仲間に向き直った。

「おい、大丈夫だったか」
「あ、ああ、ありがとな」
「いやでもお前、小間物屋で働く男じゃなくて、喧嘩屋みたいだったぞ」
「不覚にもヒュンってなったわ、何処とは言わんが」

 ならず者を相手にし、少々疲れた様子を見せているが、仲間からはいつもの軽口が出ている。その調子の良さに、も口元を緩めた。

「おい、どういう意味だよ……ッつう」
さん」

 普段は見せない焦燥をはっきりと浮かべながら、千影が正面に佇む。彼女の切れ長な赤い瞳は酷く心配そうにし、殴られた頬に触れる指先は怖々としていた。

「大丈夫だ。これでも散々、大人に投げ飛ばされてきたからな。受け止め方とか流し方とか、身に染みてんだ。それよりも、お前の方が危なかっただろ、あんな前に出て……」
「――ちゃん、大丈夫かい! ああもう、こんなに赤くなって!」

 慌てふためきながら、女将が駆け寄ってくる。その様子に小さく笑いながら、大丈夫だと宥めてみるも、落ち着くどころか余計に火が付いてしまった。

「大丈夫なわけないだろう! 心の臓が止まるかと思ったんだから。ねえあんた」
「まったくだ。こっちは冷や冷やさせられっぱなしだったよ」

 伊月屋の二人にそう言われてしまい、は苦笑いと共に頭を掻いた。

「すみません。つい、居ても立ってもいられず……」

 おかげで連中を追い払えたが、冷静に考えて見れば、余計な事をしてしまったかもしれない。悪手を打ったかと項垂れたが、店の人々と事態を見ていた見物客からは、責め立てる言葉は聞こえなかった。それどころか、よくやったと囃し立てる声が上がっている。

「まあ、こっちも気分が良かったし、大事なお客と女房を守れた。ありがとうよ、
「そうよ、ありがとうね」

 いつものように微笑む二人の姿を見られ、ようやくも安心した。

「――でもちゃん、あんた、商人よりも用心棒の方が似合いそうな顔だったよ」
「げえ?! よして下さいよ女将さん!」
「それ良いですね、本格的に用心棒に仕立てちまいましょうか」
「お前らまで!」

 愉快そうに笑う声が、辺りにどっと響き渡る。千影までもクスクスと肩を震わせているので、これは参ったなと、は頭を掻いた。


 ――しかし。
 今日の危機はどうにか去ったが、ならず者を寄越すなんていう、直接的な手段がついにやって来た。
 これからは、もっとタチの悪い面倒な事が起きるのだと、覚悟しなければならないようだ。



2018.8.25