03

 ――“海凪(うみなぎ)の精霊祭”の華である踊り手という大役に選ばれてから、一週間が経った。
 踊りの練習は、夕方の二時間ほどで、週四日に割り振られている。踊り手を担う娘たちや踊りを教える町の女性たちと共に、少しずつ重ねる練習時間はにとっては怒濤で、あっという間に日が過ぎてしまった。
 初日こそ見ていられないほどの散々な結果に終わったが、一週間も経てば多少の慣れも生まれたと思う。踊り手経験者の母も交え、自宅でも反復練習をするようにしているので、成果は出てきているはずだ。
 ……覚える事に精一杯で、踊りの優雅さ等は、まったく無いけれど。

 祭りの本番まで、残り三週間ほど。絶対に覚え、本番で完璧に踊る。
 幼馴染みのサメ魚人、ザギはもちろんのこと、馬鹿にしてきた同年代の青年たちを、見返してやるのだ。

 のやる気は、衰えずに燃え盛っていた。

 しかし、慣れない事をやっているので――。




「だめだ、頭が爆発しそう……」
「頑張ってるね、!」

 すごいその調子だよ、と握り拳を作るメルは今日も可愛い。
 桟橋の上で突っ伏すを癒やしてくれる彼女も、歌の練習が始まっているらしい。歌う事を生来得意とし、好んでいる人魚なので、きっと順調だろう。

 ……見るに耐えない下手さから抜けだそうとしている私と比べる事が、間違いかもしれないが。

「今日は、練習お休みなんでしょ?」
「そうだよ……今のうちに息抜きしないと」
「それで泳ぎにくるんだから、は本当に海が好きなんだね」

 家でゆっくりと休むのもいいが、何かあっても、何もなくても、泳ぎに来るのがの昔からの癖である。
 知り合いたちからはよく、はひれを隠し持っている、なんて笑われた。個人的には、嬉しい褒め言葉だ。

「ね、踊りはどう? 楽しい?」
「それは……まだ分からないな。覚えるので精一杯だから」

 しかし、やりたくなくて忌避してきた役だったが――実際にやってみると、思いのほか、悪い気はしなかった。自然に踊れる頃には、楽しくなっている、かもしれない。

「そっか~楽しみだなあ~」
「ったく、海凪の精霊祭はまだなのに、メルは気が早いよ」

 透き通る海に身体を沈めたメルは、くるりと回り、濡れた赤い髪を輝かせる。そうして息を吸い込むと、歌を口ずさみ、柔らかく響かせた。
 可愛らしい少女の声と、それに折り重なる、たおやかな高音域。一つの喉から同時に奏でられる二つの音が、さざれ波の音色と共に、海風に乗る。
 密やかに奏でられたのは、毎年聞いている、祭りの歌だった。言葉ではなく、音をもって伝える、精霊の歌。

 海の魔性、水難の凶兆――昔は海上で恐れられたという、人魚の歌。鼻歌であっても、心に染みるものがあった。

 メルの歌声は、昔から好きだった。普段は無邪気で可愛らしいのに、歌うとなると急に大人びて、艶やかさを浮かべるのだ。
 本番はこんなものではない。もっと凄い事になるだろう。

「……そういえばね、この歌って、たちの踊りと対になってるんだよ!」
「え、そうなのか? 知らなかった!」

 てっきり、そういう習わしだとばかり思っていた。

「昔の話だから、知ってる人間さんは少ないかもね。私たちの間じゃ語り継がれてきたから、知ってるひとはわりと多いかなあ」
「へええ、面白いね」

 海凪の精霊祭の華である、踊りと歌。それらが元は対になる存在であった。
 今度、踊りの練習の時に、みんなに聞いてみようかな。踊りを教えてくれる先生たちなら、きっと知っているかもしれない。


 その後、メルは近海域に浮かぶ小さな島へ戻っていった。その海底には、メルが暮らす人魚の里があり、これから歌の練習をするのだそうだ。
 「踊り、楽しみにしてるからね」と気の早い声援をくれるメルを、苦笑いで見送った。

 本番まで、まだあと三週間もある。たった三週間と言えるかもしれないが……。

 は大きく息を吐き出すと、桟橋の上に寝転ぶ。誰かが差したまま忘れていった日除けの大きな傘の下で、束の間、瞼を下ろした。


◆◇◆


「――無防備だな、お前は」

 喉を震わせるような低い声が、海の音を遮った。
 ふ、と瞼を開けば、の目の前に、大きな影が飛び込んだ。
 傘をすり抜ける光を、完全に受け止めてしまう、屈強な身体の輪郭。真っ直ぐと伸びる尖った背びれと、鈍く光った両眼をぼんやりと仰ぎ見て、次第に両目が見開いてゆく。

「ギャーッサメー!!」
「サメだけど文句あるか」
「な、なんだザギか……死ぬかと思った……」

 何の前触れもなくサメ頭とご対面するのは、さすがのでも驚く。心地好いまどろみは、一瞬で霧散してしまった。
 ドッドッと激しく音を立てる心臓を抑えながら、は身体を起こす。ザギは屈めていた上半身を戻すと、大きく溜め息を吐き出した。サメの頭部そのものなのに、妙に感情豊かで、呆れた様子がはっきりと窺える。

「何でここにザギが?」
「メルとさっきすれ違ってな。踊りの練習を頑張ってる、でも頑張りすぎて休んでるって話していったんだけど」

 にやりと、裂けた口が笑みを浮かべる。

「なんだ、随分とまいってるじゃねえか」
「べ、別に、まいってねえし! 全然、余裕だし、順調にやってる!」

 思わず意地を張ったが、ザギはさして信用はしていない様子で「へえーそうかよ」と抑揚のない声で言った。
 く、くそ、この半眼がむかつく……!
 は唸り、ザギから顔を背けたが――ぽつりと、小さく呟く。

「……笑われたくないし、他の踊り手の子たちが恥ずかしく思うのは、もっと嫌だから」

 指を差して笑ったあいつらを、絶対に見返してやる。そういう思いで臨んだ踊り手の大役だが、共に練習する娘たちの懸命な姿を見ていたら、意地など些細なもののように感じた。
 一年に一度の、盛大な催し。失敗なんて、出来るはずがない。
 がぐっと拳を握り締めると、ザギはやや目を見張り、青がかった灰色の太い指で自らの頬を掻く。

「……別に、お前がそこまで気負わなくていいだろ。まあ、もしも失敗したら、笑ってやるけどよ」
「ぐッこの……」
「上手い下手なんか気にしてたって、しょうがねえだろ」

 腕を持ち上げた恰好で、はきょとりと瞬きをした。
 隣にしゃがんだザギは、だらしない恰好で頬杖をついていたけれど、目が落ち着きなく泳いでいる。

「やりたいようにやれ。お前が楽しけりゃ、それがいい」

 少し乱暴で素っ気ない物言いだが、きっとそれは、ザギなりの励ましであったのだろう。
 見た目はサメだし、普段の口調も少々粗暴だし、ある意味では見た目の通りの男だが――悪いやつではない。
 もっと上手い言い方をしてくれてもいいのに、と思わなくもないが、言わんとする事は伝わるので良しとしよう。は持ち上げた腕を戻し、ニシシ、と悪戯っぽく笑った。

「なに、急に優しくなって。気にしてんのか、自分が言ったこと」
「てめえな……」
「ありがと」

 ザギはちらりと視線をやり、すぐに正面へ戻した。
 照れ臭くなったりすると、急に素っ気無くなって、愛想も悪くなる。
 昔からの癖だ。分かりにくいようで、存外、分かりやすい。だから、なんだかんだで憎めない。

 は笑みを深め、その場から立ち上がる。日除け傘の下から出ると、桟橋の縁で爪先を止めた。

「ザギは、これから何か用事はある? 良かったら、ちょっと息抜きに付き合ってよ」

 そう尋ねると、彼は仕方無さそうに肩を竦めて立ち上がったが、サメの横顔には楽しげな笑みが浮かんでいる。
 はニッと口角を持ち上げ、桟橋を蹴り、透き通る海面へ飛び込んだ。



 ――ザバン、と大きな音が鳴り響き、の身体は心地好い冷たさで包まれる。
 そっと瞼を押し上げると、泡立った無数の水泡が昇り、目の前を煙らしていた。やがて泡の幕が晴れ、海面から注ぐ太陽の光で照らされる、透き通った海中の世界が広がった。
 水を蹴って進み始めると、ザブンッと大きな音が鳴り響く。
 身体を反転させ、背後を振り返る。白い水泡が柱のように上がり、その向こうから、灰色の躯体が飛び出した。しなやかに尾びれを振り、大柄な身体に反した俊敏さで水を切り裂くザギの姿は、海の中でいっそうその存在感が増す。

 海原の獰猛な象徴とされてきたサメは、危険で恐ろしいけれど――それ以上に、恰好好い。

 人魚とはまた違う目を惹くものを、彼も確かに持っていた。

 側へやって来たザギに、は日焼けした茶褐色の両腕を伸ばす。その意味を、ザギはすぐに理解し、の身体よりも少し下へと沈んだ。そうすると、の目線の高さに尖った背びれがちょうどよく近付く。はそれを両手で掴み寄せ、抱きしめるように腕を回した。

「しょうがねえな、掴まってろ――」

 水の中で、笑みを含む低い声が響く。
 自らの背にをしがみつかせ、ザギは尾びれを振った。
 人間が一人貼り付いたところで、ものともしない力強さ。泳ぎ達者な部類だと自負しているが、やはり、海の民には敵わない。だから、ザギの背びれにしがみつき、こうして引っ張られるのが楽しかった。幼い頃から、ずっと。



 漁師を生業としていた父に連れられ、は幼少期から頻繁に漁港を出入りしていた。
 父には親しい友人がいるのだが、そのひとは警邏と護衛を担う魚人族で、をよく可愛がってくれた。ただその外見が、幾つもの死闘をくぐり抜けてきたような凄まじい貫禄のサメの魚人であったので、最初は怯んでしまっていたのだが……。(そのたびにこっそりと影で落ち込んでいたとは、後になって聞いた)
 そのひとにも子どもがいて、は小さなサメの魚人の少年と引き合わされた。
 それが、ザギだった。
 は昔から女の子の遊びに興味がない勝ち気な性分であったので、すぐにザギとは親しくなり、遠慮無く話し合う間柄になった。まあ、当時から喧嘩仲間のようなものであったが、性別などお構いなしに一緒に遊び回っていたので、馬が合ったのだと思う。

 海にも一緒に入って遊んだが、昔はまだ泳ぎも下手で、どちらかといえばザギに遊ばれていた雰囲気だった。彼もよく下手くそと言って笑っていたけれど、を置いていく事はけしてしなかった。手を繋いで、あるいは自らの背びれにしがみつかせて、しょうがねえなと口では面倒がりながら、いつも楽しそうに引っ張ってくれた。

 ああ、きっと、その時からだ。
 もっと上手に泳げるようになろうと決めたのは。海の世界と、そこで生きる海の民に、不思議な憧れを抱くようになったのは。

 私はあの頃から、変わっていないんだな。

 すっかりと大きくなった背びれにしがみつきながら、はふと、そう思った。



 ――呼吸が少し、苦しくなる。
 ザギの背を軽く叩くと、彼はすぐさま海面へと浮上した。

 塩辛い水から顔を出し、ぷは、と大きく息を吸い込む。

「昔っからよくやるよな。そんなに楽しいかよ」
「楽しい!」

 どれほど上手に泳いでも、水中を自由自在に駆ける魚人には勝てない。だからきっと、彼らの速度と見る世界を体感するのが、楽しいのだ。
 ザギはくつくつと笑い、そうかよと呟いていた。

「いやまあ実際、羨ましく思う事はあるよ。泳ぎ上手で、それで水の中でずっと息が続くだろ? いいなあ」

 魚人は、種族の名の通りに、水棲の生き物の血を宿している。魚類や甲殻類、多足系の軟体生物と存在するので、一口に魚人と言っても多様な姿を持っているが、海の中で暮らす彼らは当然ながら潜水していられる時間は無限大だ。
 ザギなんかのサメの一族は、海中に僅か一滴垂らした血の匂いを嗅ぎ分け、遥か遠くの獲物を追いかけるという。鼻の良さと執念深さは、なかなかのものがある。しかも、目まで良いと聞く。
 水中という環境において――魚人は追随を許さない、無類の強さを誇る。

「そりゃ水中でならな。陸に上がったら、俺たちはそれほど自由じゃねえよ」

 ザギのように、人間と同様、手足を持つ者なら陸へ上がれるが、乾燥を嫌うので長時間は水から離れられない。メルのような人魚ともなれば、陸に上がる事すら叶わない。
 水中ではほぼ最強だが、その反面、陸地では制限され弱くなる。
 単純な腕っ節なら負ける事はないが、フィールドの違いはそれなりに影響するらしい。

「ふうん……十分に凄い事だけどな、私からしたら」
「万能な種族なんか居ねえよ。立ち入れない世界を羨ましく思ったりすんのは、人間も魚人も同じだ」
「ザギもあるのか? そんな事」

 は、思わず尋ねる。ザギは波を切る背びれを揺らし、ちらりとを見た。

「……まあ、無くはない、な」
「そうか。一緒だな」

 ザギの目を覗き込み、はニカッと笑った。


 ――と、その時、前方から船がやって来るのが見えた。
 見るからに漁船ではないので、遊覧目的のものだろう。邪魔にならないよう距離を取るザギに引っ張られ、もぷかぷかと浮きながら移動する。

 すると、突然その船から、悲鳴が上がった。

「キャアアアア! 女の子がサメに襲われてる!」
「何だとッ! 大丈夫かアアア!」
「……え?! 誰が襲われ……あ、私?!」

 サメに襲われてなんて……あ、ザギか!
 は勢いよく、ザギへ視線をやる。彼は少々不機嫌そうに目を歪め、ギチギチと歯を鳴らしていた。それはさすがに怖いので宥めすかし、彼に代わって「サメじゃなくて友達の魚人です」と大きく手を振り無事を伝え、船とは穏便に別れた。甲板で申し訳無さそうに頭を下げる姿が見えたから、きちんと通じたと思われる。

「いやあ、今日も見事に間違われるな!」
「その辺を泳ぐのと同じにしやがって。失礼な奴らだな」
「いや遠目で見たらサメにしか見えないよ」

 海面から突き出た、三角の背びれ。
 青い波を切り裂き悠々と進む、灰色の巨躯。
 そして、それに引っ張られてゆく、人間の姿――。

 一目見たら、ドクンッと胸が高鳴るだろう。主に恐怖で。

「まあ仕方ないよな。見事なサメ頭だし、牙も凄いし、全体的にこう、ヒュンッとなる怖さがあるしな。くくッ」
「振り落とすぞ」
「うわ! 馬鹿、止めろって!」

 ザギの身体がゆらゆらと左右に揺れる。手のひらがつるりと滑りそうになり、慌ててザギに張り付く。

「……まあ、今更、不満を言ったところでどうにもならねえがな。俺らは、人間じゃねえ」

 どう間違われようとも、人間とは全く異なる姿と本質の種族だという事には、違いない。
 ザギはそんな風に、淡々と告げた。

「ちょっと不思議だな。私は、ザギたちがずっと隣に居たから、もう当たり前の事になってるのに」
「お前や、この辺りで暮らす人間たちには、な」

 ザギにしては意味深な含みのある言葉だったが、あまり気にはとめなかった。ふうん、と声をこぼし、背びれを両手で掴み直す。水を足で蹴り、勢いを付けてザギの背中に乗り上げた。

「よっこいせ!」
「何してんだお前は」
「ん~ッ楽チンだなって」

 ザギの背によじ登り、腹這いに伏せる。三角の背びれを片腕で包み、頬杖をついてほっと息を吐く。
 水着と薄いシャツを通じて、ザラザラした盾鱗(じゅんりん)の感触が重なる。鱗はもちろん腹部等を覆う表皮に温もりはないので、の日焼けした肌はひんやりとした冷たさを覚える。
 魚類は、人間の体温で火傷をするというが、人の性質も持つ魚人にはそんな事がないので良かった。サメの背に乗るなんていう浪漫は、他ではなかなか味わえないのだから。
 ひやっこくて気持ちいい、とが寝そべると、ザギは呆れた声をこぼした。

「お前なあ……そんなだから女扱いされねえんだろ」
「え? 何?」
「……何でもねえ。思いのほか重たかっただけだ」

 重いって、おま!
 反射的に、はザギの身体をドスッと殴った。

「……でも、変に怯えられたりするのは、ちょっと悲しいな」

 魚人たちは、多種多様な姿を持つ、良き隣人であるし。ザギなどは怯えられる筆頭だが、気の良い人物だ。でなければ、手を繋いで一緒に泳ぐ幼少期はなかっただろう。

 サメの姿であるせいか。
 それとも、人の姿ではないせいか。

 やっぱり、何度考えても、不思議だ。

「そうはっきりと言う人間の女は、お前くらいなもんだよ」

 ザギは低い声で笑い、尾びれを揺らした。緩やかなカーブを描き、桟橋へと戻ってゆく彼の背の上で、は小さく笑う。

 ほら、やっぱり良い奴。振り落としてしまっても良いのに、好きにさせてくれるのだから。

 ひんやりとしたサメの背に身体を預け、は瞼を下ろした。


◆◇◆


「なあ、そういえば、さっきメルから聞いたんだけど」
「あ?」
「海凪の精霊祭の、歌と踊り。あれって、元は対なんだって?」

 桟橋の上から尋ねると、ザギが波に揺られながら「ああ、そういえば」と呟いた。

「なんだ、ザギも知ってるんだ」
「まあ……別に、聞きたかったわけじゃねえが」
「ねえ、対って、どういう事なんだ? 何か、意味があったりするのか?」

 純粋な疑問だったのだが、ザギから明るい返事は来なかった。ああだの、いやだの、歯切れ悪く声を濁している。そんなに言いづらい事なのだろうか。

「知ってるには、知ってるが……あんま、言いたかねえな」
「え?! なんで」
「こっぱずかしい」

 何故に。は目を丸く見開く。
 そんな大それたものなのだろうかと狼狽えたが、ザギの反応からして……単純に彼が言いたくないだけだ。そんな風にされると、余計に気になってしまう。

「いいじゃん、教えてよ!」
「どうせ後で、踊りの練習の時にでも聞かされんだろ。そん時に聞け」
「ええー?!」

 結局、ザギは教えてくれなかった。別に深い意味はなく、ただ知りたかっただけだというのに。

「何だってんだろ……」

 青い波を切り裂き、遠ざかってゆくサメの背びれを眺め、は独りごちた。



この小説における独自設定の、魚人族の声帯。イメージは、喉から多重録音。


2017.07.16 更新:1/1