05
“海凪(うみなぎ)の精霊祭”は目前となり、町のそこかしこでは飾りつけの準備が進められた。祭りの間、玄関や軒先などに吊り下げる青い硝子細工の明かりはどの建物にも取り付けられ、大きな水路が横たわる水路通りなんかは昼夜問わずに賑わっている。
この頃になると、遠方からの旅行者などが本格的に訪れるようになっていた。隣町から繋ぐ船の運行便は頻繁に行き交い、父親を含んだ漁港に携わる人々は今から忙しそうに働いている。
その船の護衛には腕っ節の強い魚人たちがつき、お出迎えには見目麗しい事で有名な色とりどりの人魚たちが布陣している。魚人族がここまで近い距離に居るのは他所では珍しいらしく、来訪者からは毎年好評なのだとか。この時ばかりは、無骨な印象のある漁港も、華やかな空気に包まれた。
陸の民である人間も、海の民である魚人も、忙しさや賑やかさを楽しんでいる。
古い言い伝えが語られる夏の祝祭は、今年も例年通りに盛況の予感がしていた。
晴れやかな空気を素直に喜べないでいるのは――きっと、だけなのだろう。
橙色が掛かり始めた空の下の、夕暮れの訪れが漂う静かな浜辺は、すっかりと様変わりしていた。
地元民から親しまれている白い砂浜には、二段ほどの階(きざはし)が設けられた幅広な高床式の舞台があり、その正面に向かい合った波際の浅瀬には、歌い手である人魚たちが腰掛ける滑らかに削り出された岩場が用意されている。石造りの舞台、といったところだろうか。
馴染み深い場所なのに、こうして舞台が存在すると、急に別の風景に見える。
「すごい、あっという間に出来てる!」
「力自慢の、タコとかイカの魚人さんたちが頑張ったんだって」
「毎年見てるのに、自分が上がるってなると急に違って見えるわね」
設営された舞台を眺める踊り手たちは、楽しそうに笑い合っている。彼女らの姿に微笑みながらも、の唇からは人知れず溜め息がこぼれ落ちていた。
いよいよ本番が間近だというのに、あまり心が弾まない。最初の頃に、逆戻りしてしまったよう。
――それもこれも、全部、ザギのせいだ。
「さあさあ、みんな上がってみて。立つ場所とか決めておかないとね」
手を叩く音にハッとなり、は慌てて動いた。
そうだ、ザギの事なんて、考えてる時ではない。
今日は、組み立てた舞台へ実際に上がって踊る――最後の、練習の日なのだから。
脇に取り付けられた階段を昇り、壇上へと上がる。設置された舞台はどっしりとしていて、足下に危うさなどは全く感じない。ただ、こうして前を向くと予想以上に視線の位置は高く、浜辺を見下ろす格好になるのだと分かった。
本番になれば、この浜辺には埋め尽くすほどの大勢の人がやって来る――。
少しの緊張が、胸を過ぎった。
その後、踊り手たちの立ち位置などを決め、本番における進行や、踊り終えた後の所作などを確認し合った。
そして、舞台の上で実際に踊り、最後の練習を滞りなく終えた。
踊り手の娘たちとは浜辺で別れ、は一人その場に残った。静まり返る浜辺でひっとりと佇む舞台を、何をするでもなく眺めていると。
「~!」
名を呼ばれ、辺りを見渡しながら振り返る。波打ち際のところで一生懸命に手を振る、赤髪の美少女がすぐさま目に留まった。
「メル!」
「えへへ、見に来ちゃった」
「またそんな、自由に動けなさそうなところで」
寄せては引いてゆく小波の中で、メルは肘を立てて寝そべっていた。は彼女の側へ近付き、波が届かないギリギリのところでしゃがむ。
「ちょっと失敗。陸に打ち上げられた魚みたいになっちゃうね。よいしょっ!」
メルはぐっと上半身を起こし、改めて座り直した。
「踊りの練習?」
「そう、今日が最後だった」
「そっかあ、いよいよだもんね」
「メルの方は? 歌、もう出来上がってる?」
「うん、ばっちり!」
茶目っ気たっぷりに微笑むメルは、今日も可愛い。赤い髪と赤い鱗が夕暮れの陽射しに映えて、本当に花のようだ。
「……、大丈夫?」
「え、あ、うん。大丈夫。踊りは、もう全部覚えて……」
「そっちじゃなくて。何だか、元気ないよ」
メルは首を傾け、覗き込んでくる。ぱっちりと開いた大きな瞳は、優しい光を湛えていた。
「何かあったの?」
尋ねられた時、の口からは自然と言葉が溢れていた。
ザギが、楽しんでやれと言っておきながら舞台に上がるなと理不尽に言ってきた、先日の事を包み隠さずメルへ伝える。彼女は口を挟まず、うんうんと頷き、最後まで耳を傾けてくれた。
そして、が全てを伝えきると――メルは大きく溜め息をついた。
「ザギったら、馬鹿ね!」
ぷんぷんと怒る姿は、やはり怖くもなんともなく、ただただ可愛かった。けれど、彼女がそうやって怒ってくるので、溜まっていた苛立ちなどはおかげで薄れた。
「似合わないって言いたかったんだろうな。踊り手も、本番に着る衣装の事も。めちゃくちゃ、腹立つけどな!」
鼻息を荒く鳴らし憤ってみたけれど、分かってはいるのだ。私みたいな、女らしさの欠片もないやつが、あんな綺麗な恰好をしてはいけないのだと。
「ザギに、そう言われたの?」
「いや、はっきりとは言わなかったけどさ、そういう事なんだろうなって」
本番に着る衣装の事を話したら、急にそうなったし。
小さく呟くと、メルはおもむろに白い指を持ち上げ、顎に添えた。
「ふうん……? あ、へえ、そっかあ……」
「メル?」
「ううん、なんでもない。やっぱりザギは、馬鹿で不器用だなって!」
メルにしては、随分と辛辣な物言いだ。相手がザギだからか。少々戸惑いながらも、は笑みを返す。
「ありがとうな、メル。でも、良いんだよ」
昔から、女性ではなく男性に囲まれて過ごしてきた。幼少期も、女の子の遊びに興味がなく男の子とばかり遊び、そのまま成長した現在、サバサバとした男勝りな性格が出来上がった。
好きでそうやってきたのだから、後悔は感じていない。
けれど――。
「メルみたいに可愛かったら、何か違ったかな」
日焼けをし、さらに色の濃くなった肌。この辺りでは特別珍しくない、金色の髪と青色の瞳。
それがもしも、砂浜よりも白い肌色であったら。青い海に咲くような、鮮やかな赤い髪であったら。夕暮れの陽射しにも映える、姿であったら――。
そこまで考え、はハッと意識を戻す。
メルが目の前で、大きな瞳をさらに丸く見開いていた。
「あ、ちが、ごめんな。変な事言った。メルは別に悪くないのに、嫌な気分にさせちゃうな」
みっともなさとバツの悪さが、胸へ押し寄せる。は笑って言い繕ったが、メルを見ていられなくて、思わず視線を外した。
「――!」
不意に、メルが声を高らかに響かせた。
反射的に俯いた顔を上げると、そこには、両腕をバッと広げ飛び掛ってくるメルの姿があった。
「どぉあッ?!」
正面からメルの身体を受け止め、そのまま勢いよく、後ろへと倒れ込む。砂浜の細かい砂がバフッと飛び散り、互いの顔や身体に降りてきた。
「コホッ……メル?」
「ぎゅ~っ!」
首筋に両腕を回した彼女は、全身でしがみついてくる。美しい赤い尾びれが、バタバタと波際で跳ねていた。
が首を傾げながら身体を起こすと、不意に、彼女が小さく口を開いた。
「ねえ、、覚えてる? 小さい頃、私ずっと、海で遊んでるとザギを遠くで見てたの」
「……うん。そうだ。そうだったね」
今も、はっきりと思い出せる。
ザギと一緒に遊んでいた時、いつからか遠くでじっと見つめてくるようになった、赤髪の人魚の少女を。
少年時代のザギとすっかり親しくなってから、一、二年は経っていた頃だと思う。
いつものようにザギと海で遊んでいた時、遠くでこちらを窺う、赤髪の女の子を見つけた。ちょこちょこと波間から顔を出しては、とザギをじっと窺っていたので、一緒に遊びたいのかと思い声を掛けた。だが、そうすると女の子は海の中に隠れしまい、またしばらく経つと赤い頭を覗かせ見つめてきた。
恥ずかしがり屋な子なのかと思っていたが、さすがにそんな事が何日、何回も続くと、気になって気になって仕方なくなった。
ザギも昔からあんな性格なので、混ざりたいならそう言えと苛立ちを見せ、いつか噛み付きに行くのではないかと不安にさせられたものだ。
そしてついにある日、幼い頃からの得意技であったザギの背中に張り付き、彼女のもとへ突撃。驚いて逃げ出そうとする女の子に笑いかけ、遊びたいならおいでよと手を伸ばした。
しばらくの間、その子はオドオドとして声をさまよわせていたが、意を決したようにの手のひらを握った。
それが――昔のメルであった。
我ながら無茶をしたなと、は笑う。けれど、メルは首を振り、口元を緩めた。
「が声をかけてくれたから、今はこうやって友達になれたし、陸に近付いたりも出来るようになった。たくさん、感謝してる」
「そんな、大した事はしてないよ」
「ううん、本当に。きっとからしたら些細な事かもしれないけど、私には……“私達”には凄い事なの」
の両肩に手を置いて微笑む彼女は、同年代のはずなのに何処か大人びて、普段にない雰囲気を漂わせた。
「私ね、もとは他所の海で生まれたの。でも、そこだと人魚って珍しい存在らしくて、捕まえようとする人がたくさん居た。きっと……魚人族っていう種族じゃなくて、珍しい財宝とかに見えたのかな」
それはも初めて耳にする、彼女の生い立ちであった。
「ちっちゃい頃から、そんな生活でね。でも、色んな海を巡って旅してるっていう魚人さんが、ここのお話をしてくれたの。それを聞いたらすぐよ。お母さんや他のお姉さんたちと一緒に、たくさん泳いでここまで来たんだ」
「そうだったんだ」
見目麗しく、美しい歌声を持つ、人魚たち。彼女たちの気苦労は多いだろうと思っていたが、想像よりも過酷なものを抱えているのだと、この時ようやく気付いた。
だとしたら、小さい頃、メルがあんなに内気で臆病だったのは――。
「ごめんな。逃げ出しても当然なのに、いきなり私が近付いて手を出したら、怖かったよな。しかもザギまで一緒だったし」
「ふふ、そうだね。でも、怖かったというより、信じられないっていう気持ちの方が大きかったかな」
そういう気持ちも、のおかげですぐになくなったよ。
にっこりと微笑んだその仕草は、メルが普段見せる、明るくて無邪気なものだった。
「は、私にとっては恩人みたいなもので、眩しいひとなの。だから、はずうっと、らしく素敵でいてね!」
素直で、真っ直ぐと響く言葉。ムズムズとくすぐったくて、気恥ずかしさを感じたが、そういう風に優しい気持ちをありのままに表現できるメルが、やはりほんの少し羨ましい。
彼女が友達で、良かった。
メルの励ましを、はありがたく受け取った。
「は、ザギの事、嫌になった?」
メルは身体を離すと、小さくそんな事を尋ねてきた。
ザギか、嫌になったというか……。
「……殴りたい?」
途端に、メルはぷっと吹き出した。
「もう、かっこいいんだから。……あのね、ザギはたぶん、が憎くて踊るなって言ったんじゃないと思うよ。もちろん、踊り手が似合わないなんて、思ってない」
メルの声には、確信のようなものが含まれていた。
私には訳が分からなくて、殴りたい衝動に駆られたのに。
何故そう思うのか尋ねると、メルは視線を逡巡させた。
「んー……自分だけが見るんじゃないって、今さら気付いたのかな」
「? 自分だけ……え、何が?」
「ふふ! たぶん、本番になったら分かるよ~きっとそう、絶対そう」
メルまで、そんなもったいぶって!
は教えてくれと何度か縋ったが、彼女はバッテンのマークを作った指を唇に添え、結局それ以上は言ってくれなかった。
くそ、可愛い! 許す!
太陽が、海原へ沈んでゆく。橙色の陽差しが、ゆっくりと、陰ってゆく。
そろそろ戻ろうかと立ち上がった時、不意に、メルが口を開く。
「……魚人っていう種族はね、。陸と、陸の上の人たちを、絶対に嫌いになれないの」
呪われたように恋をするのだと、彼女は言った。
「でもこんな姿だから、対等には扱って貰えない。だから、大勢の人間さんと一緒にやれるお祭りが、本当に嬉しい。暮らす世界だって違う私たちが、陸と繋がる事を許してくれてる唯一の証だもの」
「メル」
「だから、も楽しい気持ちで、踊って欲しいな」
ザギだって、あの顔でそう思ってるのよ――。
夕焼けに染まり、夜を迎えようとする海原に戻ってゆくメルを、は見送った。
物心がついた頃には、海の民である魚人族が隣に居る事は当たり前で、彼らと関わって過ごす事はごく普通の日常であった。だが、魚人族は、人間が思うよりもずっと深いものを抱えていたらしい。今になってというのも変な話だが、今日、初めてそれを理解した。
メルもそうだというのなら、ザギも、そんな風に思っているのだろうか。あのザギが。昔っから喧嘩っ早くて、口も悪くて不器用な、あのサメの青年が。
――……俺らはお前たちが思うほど、立派な種族じゃねえって事だ
だとしたも、踊るななんて、何でそんな事を。
◆◇◆
しばらく浜辺に佇んでいたは、海に背を向け、町へ戻っていった。
その姿を波間から見つめていたメルは、海の中へ潜り、尾びれを振って浅瀬を進む。そして、浜辺の舞台と向き合うように用意された、歌い手が腰掛ける滑らかに削られた岩場へと近付いた。
赤い髪を揺らし、その後ろを覗き込む。メルは水泡をこぼしながら、小さく笑った。
「心配で見に来るくらいなら、声でもなんでも掛ければ良いのに」
岩場に寄りかかっていた、灰色のサメの魚人は、無言を貫いていた。だが、言葉など無くともその目は雄弁である。
「私たち海の民は、陸に憧れる。全員が、必ず」
「……」
「でも、ザギが思いを寄せるのは、陸の上なんて、抽象的なものじゃないんでしょ?」
鋭く伸びたサメの尾びれが、水を切るように揺れた。
「踊るな、なんて……ザギったら、本当に不器用ね」
呆れと、微笑ましさを込めて呟く。眼下で腕を組むサメの魚人は、ようやく口を開くと、ただ一言「うるせえよ」と悪態をついた。いつになくその声が弱々しかった事は、メルにもすぐに分かり、苦笑を深めるばかりであった。
そういう少年少女の心を大切に書きたい。
◆◇◆
この三人の中で一番しっかりしているのは、意外とメルだったり。
素直で動かしやすい、動かしてくれる、良い子です。
2017.07.24
◆◇◆
この三人の中で一番しっかりしているのは、意外とメルだったり。
素直で動かしやすい、動かしてくれる、良い子です。
2017.07.24