06

 ――朝を迎えた海辺の町には、眩しい陽射しが注いでいた。
 開け放った窓から入ってくる風は、日中よりも爽やかで清々しく、聞き慣れた潮騒の音色と海鳥の鳴き声を運んでくる。けれど、町を包む空気は普段より浮き足立ち、その風景にも賑わいが感じられた。
 きっと町のいたるところで、最後の支度が進められているのだろう。

 鮮やかな青空が広がったこの日――“海凪(うみなぎ)の精霊祭”が、いよいよ始まる。



 ――とは言っても、実際に祭りらしい催しが始まるのは、正午を過ぎてからだ。
 隣町で待っているだろう大勢の観光客をこの町へ運ばなければならないので、午前は主に運航便の往復と観光客の受け入れ等で忙しい。
 水路通りに並ぶ店も、通常通りに開店はするが本腰を入れるのは午後からだ。

 両親は二人とも祭りの役員のようなものに当たっているので、が起床した時ちょうど漁港へ出向くところであった。
 父は運航便の船の舵手を勤め、母は出し物の一つである大鍋で作る海鮮スープの、生物以外の下拵えや必要器材の準備を手伝うらしい。どちらも正午になれば落ち着いてくるので、二人はそれまで漁港に居るとの事だ。
 はというと、踊り手の出番は夜からなので、準備が夕方から始まるにしても、それまでは自由時間だった。

「お友達と一緒に遊んでても良いけど、お昼ごはんだけは頼むわね」
「メルちゃんとザギだろ? 仲が良いからなお前ら」

 は曖昧に返事をし、両親を見送った。
 仲が良い、か。そうだと思っているし、これからもそうであって欲しいと願っている。しかし……。
 脳裏にちらつくザギの姿が、胸をざわざわさせる。不安感に似た、形容しがたいものが渦巻く。相手は、小さい頃から共に過ごしてきた、幼馴染みだというのに。

 先日のあの出来事から、何か変だ。

 何と表現して良いのか分からないけれど、これまでとは違う、いや変わってしまうような、奇妙な予感がした。
 ……なんて、らしくないか。
 本番を目前にして緊張しているのだと、は言い聞かせた。両親も楽しみにしてくれているし、町の人たちも応援してくれている。指を差し大笑いした顔見知りたちは相変わらずだが、成功させなくてはと改めて思う。
 普段になく真に迫った様子で、踊るなと、彼が言ったとしても――。


◆◇◆


 気分転換に町中を歩き、賑やかな空気を味わった程度で、日中は過ぎていった。
 見るからに地元民ではない人々が大勢歩き、人も魚人も分け隔て無く笑い合う町に、次第に傾いた太陽の陽差しが掛かる。
 あっという間に、夕方を迎えようとしていた。

「踊り、見に行くからね。頑張るんだよ」
「楽しんで来い」

 両親に見送られ、は笑って頷きを家を後にした。
 踊り手たちの準備場所は、これまで練習をしてきた、漁港にある巨大な空き倉庫だ。




 広々とした倉庫内には、身支度を整える踊り手たちの声が響いていた。
 本番を目前にし緊張と高揚の入り交じる面持ちの彼女たちは、ブラトップとスカートに分かれた華やかな青いドレス衣装へと着替えてゆく。試着の日には無かった、二の腕に着ける半透明の青いアームスカーフや、細やかな装飾が施されたベルト、白銀色のアンクレットにフィンガーブレスレットといった様々な装飾品を、順番に身に着けていった。
 そして、身支度の済んだ子から、待機している町の女性たちに髪を整えてもらい、祭りの化粧を施されてゆく。

 “海凪の精霊祭”の一番の目玉であり、祭りの夜を華やかに盛り上げる、大役の踊り手。
 それを務める娘たちは皆、これまでになくキラキラと輝いて、とても美しかった。

「ほーら、前を見る」

 横を向いてしまっていた頭を掴まれ、ぐりっと直される。再び鏡を見ると、背後に佇む町の女性がせっせとクシを通し、の金色の髪を梳いた。

「じっとしてな、あんたも綺麗になるんだから」
「うん……」
「おや、本番前なのに浮かない顔だね」

 緊張してるのかな、と女性は快活に笑った。

「じゃ、おばさんから良いことを教えてあげよっか。緊張した時はね、大切なひとを思い浮かべるのがいいよ」
「……大切なひと?」
「舞台に上がったら、誰だって身体が竦むもんだ。そういう時には、友達でも、家族でもいい。大勢の観客のためじゃなくて、そのひとたちのために披露するって考えれば良いんだ」

 これはおばさんの持論だけどね、と笑いながら、女性はどんどん作業を進めていった。
 普段はさっと束ねているだけの金髪が、丁寧に持ち上げられ、なにやらねじられてゆく。数本に分けられ出来上がったそれを、片側で丸くまとめられ、髪留めのピンが差し込まれた。頬の横から流れた髪を、露わになった首筋と、胸元へ流し「はい完成」と女性は肩を叩いた。
 は椅子から立ち上がり、鏡を覗き込む。
 これが小さい頃に憧れた、踊り手の姿か。
 頭の天辺から爪先まで綺麗に彩られた自身と、視線がぶつかった。
 普段は消滅している女らしさが生まれ、別人のようにさえ感じた。首筋や背中がくすぐったいけれど、不思議と、嫌な気分は無かった。

「本番、頑張ろうね」
「きっちり成功させて、人魚の歌に繋げようね」

 フィンガーブレスレットで飾られた手を、全員で重ね、高らかに天へ掲げる。
 その一体感にわくわくする一方で、の脳裏には未だサメの魚人が浮かんでいた。



 出発前、町の女性たちから頭と身体を隠す、深い紺色のベールを手渡された。せっかく本番で披露するのに、誰かに見られたらつまらないだろう、との事だ。それをすっぽりと頭から被ったところで、は踊り手たちと共に舞台が設けられた浜辺へ向かった。

 観客の立ち入りが制限されている本番を迎える場所で、祭りの役員、それと先に集まっていた歌い手の人魚たちと共に、最後の確認と軽い予行演習を行う。その後は、時間になるまで各々が待機となった。

 踊り手と歌い手が和やかに談笑したり、あるいは舞台に上がって最後の練習をしたりする中で、はメルのもとへ真っ先に向かった。

「メル、いつにも増して可愛くなったなあ」

 が感心すると、波打ち際に座る彼女は嬉しそうにはにかんだ。頬の横から伸びた赤いひれが、何度もパタパタしている。
 いや、お世辞などではなく、本当に。
 細い背に流している見事な赤髪は、今日は綺麗に編み込まれ、丸くまとめらている。そこに添えられた髪飾りと、露になった白い首筋を彩るチョーカーは、魚人族の工芸品だろうか。海の民らしい民族的な意匠が、彼女たちの美貌を惹き立てていた。
 普段でさえ見惚れるほどだというのに、今日はそれを上回る煌びやかさだ。これで自慢の美声を披露してしまったら……そりゃあ、気絶するひとが続出するというものである。

「ずっと海に入ってるから、たちみたいに衣装はないけどね。良いなあ」
「服で飾ったりしなくても、メルは綺麗だよ。見に来るひと皆が一目惚れしてしまうね」

 メルは恥ずかしそうに身をよじり、頬を押さえる。ものすごく可愛い。
 何故か背後からは「タラシが居るわ」「女である事が惜しまれる男らしさね」などと聞こえてきた。本心からそう思って口にしているだけなのだが。

も、踊り手の衣装、似合ってるよ! やっぱり綺麗、思ったとおり」
「そうかな、ありがとう」

 シャラシャラして、ヒラヒラして、落ち着かない気分だが、そう言ってもらえると自信になる。
 肩に羽織っている紺色のベールを直していると、メルがじっと見つめている事に気付いた。

「……ザギとは、あれから、会った?」

 は苦笑いを浮かべると、首を振る。何が面白くないのか未だ分からないが、彼の方から来てくれたりはしないだろう。また喧嘩腰になってしまうのも嫌なので、も彼を探してはいなかった。

「もう、ザギってば……。ここで来ないと、絶対にが捕られちゃうのに」
「……ん? 私?」

 首を傾げたが、メルは首を振り「なんでもないよ」と微笑むだけだった。
 それから少し経った後、浜辺に祭りの役員の声が響いた。開始時刻はまだ先だが、浜辺の立ち入り制限を解除し、観客を入れ始めるらしい。
 舞台の裏側にでも移動していた方が良いだろうと、は立ち上がった。


「うん?」
「私は、種族とか関係なく一緒に遊んでるとザギが、昔から好きだったよ」

 本当は、ちょっぴり羨ましかったな――。
 笑いながら言ったメルに、は目を丸くする。

「私が出会った時からもう、とザギは仲良しで。それは、子どもの頃のまま、今もずっと変わらない。この先もそうなのかなって思っていたけど、でもきっと、変わろうとしてるんだね」

 メルの言葉が、不思議との胸に残った。

「それはザギの方なのか、の方なのか、分からないけど……やっぱり二人は、取り繕ったりしないで賑やかに言い合ってるのが、一番良い」

 メルはそう告げると、白い腕を持ち上げ、の手のひらを握った。
 見た目こそ人間の少女と変わらないが、ひんやりと冷たく、人ならざる種族だという事を物語る手のひら。
 そこから、メルの優しさが温かく伝わってきた。

「本番、頑張ろうね」
「……うん、メルもね」

 メルはにっこりと微笑むと、波打ち際から海へ入り、仲間たちの元へ向かっていった。

 変わろうとしている、か。
 ずっと、喧嘩仲間の幼馴染みだと思っていた。それはこの先もそうだろうと、一ヶ月前、まさにそう考えていた。
 真に迫った低い声で、踊るなと言い放ったザギ。あの言葉の意味は分からないが、今思えば、あの時の彼は、幼馴染みの顔ではなくて――。

 は身を翻すと、舞台へ駆け寄り、その裏側に控えた。

 その数十分後には、町人や観光客などが続々とやって来て、瞬く間に広い浜辺を埋め尽くした。賑やかな話し声や、大勢のひとが集まる空気が、熱気と共に伝わってくる。
 この中で、舞台に上がって踊るのか。
 以前から覚悟していた事のはずなのに、改めて思ったら、急に身体が震えてきた。
 最初は、どうするのだったか。足運び、手の動きは、どうだったか。
 全部覚えた事なのに、今さら、失敗する恐怖を感じてどうする。自らを叱咤し、両手を強く握りしめ、何度も何度も頭の中で踊りの所作を繰り返していると。

「――

 近付いてきた踊り手の娘が、そっとの耳元に顔を寄せた。

に、お客さんが来てるよ」
「え?」

 彼女は微笑むと「本番までまだ時間はあるから、行ってきなよ」との背中を押した。
 お客さん……誰だろう、まさか。
 紺色のベールをしっかりと握りながら、舞台裏の端へ向かう。覗き込むように窺うと、三角の背びれが生えた、大きな背をすぐに見つけた。

「……ザギ?」

 灰色の盾鱗(じゅんりん)に覆われた屈強な身体が、ゆっくりと振り返る。
 尖った鼻先、大きく裂けた口、太い首筋にある切れ込みのようなエラ。
 見慣れているのに、ここ最近は見かけなかったサメの顔が、そこにあった。

「……悪いな、本番前に」
「う、ううん。別に、大丈夫」

 そう返してみたが、何となく気まずくて、は意味もなく紺色のベールの裾を直す。
 会場の空気は賑やかなのに、ここだけがしんと静まり返っていた。

「あー……なんだ」
「う、な、なに」
「あのな」
「うん」

 しかし、何故か一向に本題へ入らないので、の方が次第に焦れてきた。一体何の用事かと唇を尖らせた瞬間、ザギは突然「くそ!」と悪態をつき、サメの頭を乱暴に掻いた。

「真っ当な事を言おうかと思ったが……止めだ」
「は?」
「こないだの事、俺は謝るつもりはねえぞ」
「はあ?!」

 これから本番だというのに、よりによって、それ。は絶句し、ザギを見つめた。サメの顔と佇んだ身体には、相変わらず、不遜な仕草が窺えた。

「お前なあ――!」
「今も、思ってる。踊り手の恰好をしたお前が、人前に出なけりゃいいって」

 ――はたと、は目を丸くした。

「俺でさえ見た事がねえのに、赤の他人の、他所から来たような連中も見るだと。ふざけんな」
「……んん?」
「俺が、先に見るならまだしも、何で他の連中も一緒に見なきゃならん。気に入らねえ」

 思ってもいない言葉がさらに連なり、の面持ちは素っ頓狂なものに変わる。込み上げた怒りは、一瞬で霧散した。
 え、つまり、なんだ。

「ザギが前、踊るなって言ったのは……そういう意味で?」

 ザギは一瞬目を逸らすと、口を閉ざした。
 恥ずかしくなったりすると、彼は急に、無愛想になる。
 つまりそれは、ザギの――肯定の合図だ。

「……ふふ」

 無意識のうちに、の口元が緩む。

「ふ、ははは、お、大事かと思ってたら……そ、そんな事」

 あんな怖い顔で言うから、一体どうしたのかと思っていたのに。実際の理由は、そんな事。
 私が、彼の気を悪くさせたのでは、なかった。
 理解した瞬間、が真っ先に感じたのは、怒りや呆れなどではなく――安堵だった。
 気が抜けて、ついつい笑い声が出てしまう。ザギは舌打ちをし睨んできたが、そうされたところで今はちっとも怖くない。

「くそ……言わねえ方がやっぱ良かったな。邪魔した」

 背中を向けたザギを、は慌てて呼び止めた。

「待てよザギ」

 は羽織っていた紺色のベールを取り外すと、彼が振り返ると同時に、そのベールを投げつけた。ちょうどよくザギの頭に覆い被さり、彼の視界を奪った。

「てめえ、何す……」

 ベールを引き下ろし、文句を言おうとしたのだろうザギは、を見るなりその声を噤んだ。
 それはそうだろう。普段は飾りっ気のない衣服ばかり着ていたのに、今では町の女性たちに飾られすっかりと華やかな踊り手の姿になってしまっているのだから。
 昔からこういったものと無縁な生活を送っていたと、ザギの方もよく知っている。自身でも驚いたが、彼もきっと、同じ事を思っているに違いない。
 黙りこくるザギの姿に、悪戯が成功した気分になった。まじまじと全身を見られるのは、恥ずかしいが。

「ほら、これでザギが、一番最初に見た」

 いつもの調子で笑うと、ザギの眼差しがの瞳へ定まった。

「これでもな、けっこう本気で、練習したんだ。せっかくやるんだから、観てくれる人達に楽しんでもらいたい。もちろん、ザギにも」

 何か言おうとしているのか、彼はサメ特有のギザギザの歯を覗かせた。
 だがその時、舞台の表側から、男性の声が高らかに響いた。

「――長らくお待たせいたしました。これより“海凪の精霊祭”の本番である、夜の部門へ入らせて頂きます!」

 途端に、観客席からは拍手が上がり、その熱気が辺りを包み込んだ。

 確か、司会進行役の男性の挨拶が終わると、まずは町でとれた季節の野菜などを海原へ捧げる、奉納の儀式を執り行う。その後、浜辺の舞台で踊り手が舞い、終えると同時に全ての明かりを消し、歌い手である人魚たちへ繋げる手筈だ。
 祭りの発祥となった、人間の娘と海の精霊の言い伝えをなぞらえた、古くからの伝統。
 いよいよだと、は気を引き締める。

「そろそろ、脇の方で待機していなきゃ」
「……ああ」

 は改めて、ザギへ視線をやる。彼も、じっとを見つめていた。何も言わないが、相変わらず舞台に上がる事を望んでいないと、その目を見ればすぐに分かる。一方で、応援してくれている事も。
 だからは、普段の調子で、ニッと唇を持ち上げてみせた。

「いつものように、笑っててよ。そうしてくれたら、こないだの事も許すから」

 ザギの両目が、微かに動いたように見えた。
 は青いスカートを翻し、踊り手たちのもとへ戻った。

「お話は、もう大丈夫?」
「ああ」
「そっか」

 踊り手の娘が、なにやら嬉しそうな顔をしたので、どうしたのだろうかと尋ねる。そうすると、彼女は「こないだから変だったから。元気になって良かった」と笑った。
 何も言わなかったのは、きっと気遣ってくれていたからなのだろう。感謝と同時に、申し訳なさを抱く。

 でも……そっか。

 気が付いたら胸の中央に居座っていた不安感が、もう綺麗に消え去っている。それを自覚した時、不明瞭な感情の正体がはっきりと分かった。

 私はきっと、他でもない、あんたに笑って欲しかったんだな――。

 仲が良くて、遠慮や気兼ねのない、サメ魚人の幼馴染み。子どもの頃のまま、何にも変わらずにここまで来ていたと思っていたが……。

 今夜くらい、少しは変われるような気がした。

 女らしさの欠片もなく、サバサバしている私だが。
 メルのようには、なれなくても――幼い頃の憧れを、精一杯に堪能しよう。


◆◇◆


 奉納の儀式が終わり、たち踊り手の舞台へと移行する。
 は気を引き締めると、青いドレス衣装を揺らし、ゆっくりと舞台の袖から壇へ上がった。

 拍手の音が響き渡り、心待ちにしていた観客たちの視線が全て集まる。壇上は、思っていたよりもずっと明かりが眩しく、舞台の下はほとんど見えなかった。だが、大勢の観客がひしめき合っている事は、肌で感じ取った。
 緊張で、指先が震える。
 ふと過ぎったのは、倉庫で準備をしている時、町の女性が口にした言葉であった。


 ――緊張した時はね、大切なひとを思い浮かべるのがいいよ。


 ――友達でも、家族でもいい。大勢の観客のためじゃなくて、そのひとたちのために披露するって考えれば良いんだ。


 踊りを見せたいひと。それはもちろん、家族と、友人であるが。
 その中には、ザギの存在もあった。
 凶悪な風貌でありながら、兄貴肌の一面も持つ、サメの魚人。彼が浮かんできた理由など、今はそこまで気が回らないので分かるはずがない。だが、間違いなくその時、は彼のために踊りを踏んでいた。

 爪弾いたリュートと、軽快な打楽器が、遠くで聞こえる。囃子の音色に合わせ、青い衣装を翻し、指先を宙に滑らせる。自らの意思とは関係なしに、勝手に身体が動いているような、不思議な気分であった。

 終盤へ向かうにつれ、囃子の音色が激しく、大きく広がる。観客側から聞こえる手拍子が、高揚感をさらに高めてゆく。その熱が最高点に至ったところで、舞台を大きく踏み鳴らし――踊り手たちの舞は、熱の中、終わりを迎えた。


 は乱れそうになる呼吸を抑え、落ち着いた所作を努めながら、他の娘たちと共にその場に両膝をついた。この地の言い伝えにある始まりの娘がそうしたように、ゆっくりと両手を組み、祈りの言葉を口にした。


 ――その瞬間、舞台や浜辺を照らした明かりが、全て消え去った。
 浜辺が暗闇に包まれ、何事かと困惑する声がそこかしこからこぼれたが、誰かが海原へ指を差して声を上げる。

 波打ち際に近い浅瀬に、淡い光が浮かび上がり、ゆらゆらと揺れた。

 火を灯した硝子細工の明かりが、一つ、また一つと、暗闇に染まった海面を照らす。蛍火のように淡い、優しい光だった。たちが見守る舞台の壇上からも、それがよく見えた。

 やがて聞こえてきたのは、美しい女性の声。たおやかに響いた一つの歌声が、徐々に厚みを増し、幾つもの声色を重ね合わせて広がってゆく。
 かつて海の魔性とも、水難の凶兆とも呼ばれた、人魚たちの奏でる絶世の歌声だ。
 柔らかな明かりに照らされた石造りの舞台に、美貌を誇る人魚たちが腰掛ける。たったそれだけで、全ての人を魅了し、現実から切り離された夢幻の狭間へと引き込んだ。

 魚人族が持つという、特別な声帯と音域。一つの喉から複数の音を奏で、そしてそれがいくつも重なり、多重合唱のように響き渡ってゆく幻想の情景。
 その歌に理解できる“言葉”などはないが、“音”を持って伝える精霊の歌は、多くのひとの心を揺さぶってゆく。
 事実、浜辺に集まった大勢の観客は、彼女たちを一心に見つめ、身動ぎすらせず聞き惚れていた。

 そっと耳を澄ませれば、大好きなメルの歌声が聞こえてくる。普段の無邪気さから想像もつかないほどに、甘く大人びた、艶やかな声色。心を込めて歌い上げる、メルの姿がの脳裏に浮かんだ。




 ――人魚たちの歌声が、海風に溶け消えてゆく。
 訪れたのは、さざなみの音色だけが聞こえる静寂。凄艶な余韻が、周囲を甘く震わした。

 そっと、小さな拍手が鳴り響く。次第にそれは波紋のように大きく広がってゆき、浜辺を包み込んだ。再び明かりが灯ると、それぞれの舞台に佇む踊り手と歌い手たちに、惜しみない歓声が注がれた。

 の背が、歓喜で震える。成功した喜びとは、きっと、これを差すのだろう。踊り手たちと顔を見合わせ、微笑みながら一礼をした。

 最果ての地と、夜空には、鳴り止まない喝采がいつまでも響き渡った――。



2017.08.14