07

 まだ、心臓が落ち着きなく跳ね回っている。

 初めての踊り手、初めての大舞台、初めての歓声と拍手――。
 初めて尽くしの体験に、は夢見心地だった。苦しいくらいに胸が鳴るのに、全身は高揚感で震え続けている。歴代の踊り手たちも、若かりし頃の母も、こんな気分を味わったのだろうか。


 “海凪の精霊祭”の一大イベントである、歌と踊りは、種族問わず大勢の観客たちを楽しませる事に成功した。
 興奮の余韻をいつまでも響かせ、舞台は無事に幕を下ろした。
 一体どうなる事かと不安にさせられた一ヶ月前……あの時は散々な未来しか想像できなかったが、今日の踊りは完璧だった。終了後、様子を見にやって来た両親も、良かったと褒めちぎり、労ってくれた。ヤジや嘲笑などの類が飛び交う事もなかったので、これまで散々馬鹿にしてきたあの青年たちも、きっと驚いてくれた事だろう。
 私だってやれば出来るようだ。自分を褒めてやりたい。



 観客が去った浜辺で、もはや戦友と呼ぶべき存在になった踊り手たちと抱き合う。もちろんそこには、歌い手として活躍した人魚たちもいて、共に成功を喜んだ。

ー! 素敵だったよー!」
「メルも、綺麗だったよ。やっぱり凄かったな」

 首にしがみついて無邪気に笑うメルは、興奮冷め止まぬ様子で、ぶんぶんと尾びれを上下させている。

 ……いやしかし、本当に、さすがは人魚であった。
 自慢の美しい歌声を、真心と魂を込め、全力をもって海原へ響かせ――案の定、気絶するひとが続出した。
 その大部分は、初めて人魚の本気の歌を聞いた、観光客だろう。
 休憩所などへ続々と担ぎ込まれてゆく風景は祭りの恒例なので、逆に一種の安心感も生まれたが、彼女たちの美声には恐れ入る。


「――ところでさ、みんなはこれからどうするの? 時間があればさ、せっかくだしちょっとだけ見て回らない?」

 ある踊り手の提案に、全員がわっと明るい声を漏らし賛同した。

 舞台に上がる役目は終わり、この顔ぶれが揃うのも今日までとなる。祭りが終われば、長閑な日常へ戻るのだ。

 ちょっとした思い出作りに、全員で町中へ向かう事になった。場所はもちろん、人魚たちが気兼ねなく入れる、水路通りである。祭り用の化粧を落とし、アンクレットといった細かい装飾品を外した恰好で、たちは早速移動した。


 ……そういえば、ザギは、観て行ってくれただろうか。
 不器用なサメ魚人の姿を、無意識のうちに探すが、彼は何処にも見当たらなかった。


◆◇◆


 夜が更けてゆく水路通りは、変わらずに熱気が漂い、賑やかな空気が広がっていた。
 一番の目玉である舞台が終わり、人通りは少なくなったように感じるけれど、酒を提供する店などはまだまだ眠るには早い。大きなグラスを掲げている人々が、いたるところで見えた。

 ……そんな中に、踊り手の衣装を着た集団と、美貌の人魚たちが来てしまったら。


「うおおおー! 主役が来てくれたぞ野郎どもおおおおお!」

「さっきはとっても綺麗だったよ! ほら、お金なんかいらないから、これ飲んできな!」

「あ、あの、踊り手さんと、歌い手さんですよね? あ、握手して下さい!」


 ――こんな風に、なるらしい。

 凄まじい歓迎の嵐に、は目を何度も瞬かせる。踊り手と歌い手は、祭りの華。そういう役割だとは思っていたが、さすがにこれほどとは想像していなかった。大らかで荒削りな気質の住民が多い、町の特徴でもあるのだろう。
 水路を通ってやって来たメルたちも、多くのひとに賞賛され、とても嬉しそうにしていた。

 たくさんの言葉を掛けられ、次第に気分が盛り上がってきたのか、メルたちは歌を口ずさみ始めた。舞台で奏でたあの凄艶な歌ではなく、柔らかく包むような、夜を彩る優しい曲調の歌だった。
 水路通りに響く、心地よい音色。それを聞きつけ集まった人々も、興が湧いたのか、たまたま隣に居合わせたようなひと同士で手を取り合うと、踊り始めてしまった。しまいには、何処から持ち出したのか、リュートの音までも聞こてくる。

 地元民も観光客も、種族も問わずに笑い合う風景。人と魚人が共同で執り行う“海凪の精霊祭”が、こんなに楽しく感じたのは、今までなかったかもしれない。




 束の間、ダンス会場のようになっていた水路通りは、もとの賑やかな通りへ戻った。
 町中を共に散策した踊り手と歌い手たちとは、それぞれ用事などあるので、そこで別れる事になった。
 踊り手として集まるのはこれっきりだが、そもそも同じ町、同じ土地で暮らす者同士だ。今後も顔を合わせる事は確実にあるので、特に気落ちせず、これまで通りに「またね」と手を振り合った。

 ほとんどの娘たちは衣服を着替えに漁港へ向かったが、そのままの恰好で町を回る娘も中には居た。衣装を着て回っても良いと事前に聞かされているので、家族か、恋人か、きっと親しい人達へ見せるのだろう。
 メルは、他の人魚たちと約束があるらしく水路を下っていった。何かを企むような笑顔をしていた事が、少々気になったが……さて、私はどうしようか。
 は腕を組み、その場で少し考え込んだが――。

「あー! さっき踊ってた子じゃね?!」

 突然、賑やかな大音声が、背後から聞こえた。
 肩が飛び跳ね、反射的に振り返る。のもとへ勢い良く近付いてくる、三人の青年の姿が飛び込んだ。

「うっわ、近くで見るとやっぱ凄い格好だな」
「踊り手の衣装だっけ? エロくて良いな!」

 あっという間に三人に囲まれる形となり、は怯みながらも顔を上げた。
 彼らの顔に覚えはなく、しかもそのうちの一人は、獣の頭で全身を毛皮で包んでいた。この町では普段見かけない、獣人族という種族のひとだ。祭りを目的としてやって来た、旅行者辺りだろう。
 普段は魚人族ばかりと会うから、少し新鮮な気持ちになったが、ほんの一瞬であった。

「ねえ、一人なの? 一緒に見て回らない?」
「は、いや、私は」
「良いじゃん、俺らもお近づきになりたいしさ!」

 ことごとく彼らの視線は、の身体へ注がれた。剥き出しになった丸い肩や、青いブラトップに持ち上げられた胸元、露になった腹部やスカートのスリットから覗く足など、ほぼ全身に不躾な厭らしさが這う。確かに踊り手の衣装は露出は多いが、そういう風に見られるのは気持ちが悪い。伸びてきた彼らの手を、はピシャリと叩き落とす。

「お断りだ。悪いけど他所を当たってくれ」
「お、かっこいい。男勝りってやつか、俺は好きだよそういうの」

 青年たちの手が、の肩を掴む。生暖かさやごつごつとした感触に、ぞわりと背筋が戦慄いた。

「ちょ、離せ……ッ!」
「うわ、良い匂い。俺の好み」
「匂いって、獣人はすぐそれだな」

 止めろ、動物は好きだが匂いを嗅ぐな!
 は腕や足を突っ張り抵抗したが、そんな意思などお構いなしに、彼らは歩き始めてしまう。一人であったらどうにか出来たが、三人ではさすがにも分が悪い。容易く動きを抑えてくる力には、やはり性別の違いが存在している。歯痒さを抱きながらも、せめて一発くらいは蹴りを入れてやろうと心に決めた。

 ――だが、その直後、の肩に張り付いていた手のひらが引き剥がされた。

「――わりいが、踊り手と歌い手への度が過ぎたお触りは認められてねえんだ」

 ギリギリと音を立て捻り上げられる、青年の手首。それを掴んでいるのは、青がかった灰色の大きな手であった。

「なにす……ッうぐ!」
「祭りの主役に強引な手法はご法度だっつってんだよ、客人」

 突き飛ばすように、掴んだ手首を乱暴に解放する。
 よろめきながら数歩退いた青年らは、間に割って入ってきた人物を睨んだ。だが、その姿を視界に納めた途端、面持ちに狼狽が過ぎる。
 まさか目の前に、屈強な体格のサメの魚人が立っているなんて、思わなかったのだろう。
 は自らの肩や腕を擦りながら、彼の――ザギの後ろ姿を見上げた。僅かな驚きを、両目に乗せて。

「初めて祭りを見に来た観光客ってところか。おかげで張り合いも出るが、あまり面倒は起こすな」
「何だよお前、邪魔すんな」
「声を掛けたのは俺らが先だ! 引っ込んでろよ、気味の悪い魚人の分際で!」

 は、ぴくりと眉を吊り上げる。
 気味が悪いだと。何て事を言うんだ、彼らは優しい隣人なのに。
 周囲の人々も何事かと足を止め、町人にいたっては不愉快そうに表情を歪めていた。

「事実だろ、え? どの種族からも気味悪がられ、陸地から見放されたのが魚人じゃねえか」
「いやおい、待て、それはさすがに言い過ぎだ」

 友人たちから止められても、獣人の青年は不快な言葉を連ねてゆく。
 ザギは、何も言わなかった。耐えているのか、押し黙って、じっと耳を傾けている。の方が我慢ならず、てめえらな、と身を乗り出すと、ザギの口がようやく開いた。

「……さっきからキャンキャンとうるせえんだよ」

 裂けた口から、ギザギザの歯が覗く。
 心底煩わしそうな重低音は、いやに辺りへ響いた。

 ザギは腕を伸ばし、獣人の喉元を掴み上げた。そして、腕一本の力だけで、町の真ん中に横たわる巨大な水路の縁にまで引きずっていった。
 落とされるギリギリのところで獣人の爪先は止まったが、ザギの手を振り解けずにいるようだった。獣の頭に、明らかな焦燥が滲む。

「何すんだッ」
「言いてえ事はそれだけだな。とりあえず義理で聞いてやったが――いい加減、喧しいんだよ」

 力が入ったのか、獣人の息が苦しげに詰まった。獣人の友人たちが手を伸ばすが、相当頭にきているのだろう、普段にも増し凄まじい気迫を浮かべるサメは近付く事を許さない。

「陸地でどんだけ威張ってるか知らねえがな、この町でそれが罷り通ると思うなよ」
「ぐ、この……ッ踊り子に声くらい掛けて何が悪い。大体、そういう意味も、あの子たちにはあるんだろ!」

 え、そういう意味って、どういう意味? は首を傾げたが、鈍く光るザギの両目には激昂の色が滲んだ。

「……だとしても、てめえらにくれてやる理由がねえな。獣人族お得意の“つがい”か? 止せよ、何かにつけてそれを出すてめえらの方がよっぽど気味がわりいんじゃねえか」
「ッ水を離れたら、生きられない種族のくせに……!」
「……そうだな、俺らは絶対に陸地では暮らせない。だけどな――喧しい駄犬を噛み千切るくらいは、わけねえんだよ」

 見せつけるように頤(おとがい)を開き、びっしりと並んだ歯を剥き出す。

「ありがたい事にこの町は水路だらけだしな。なんなら、試してみるか。水の中で、その粋がりが何処まで続くか」

 冗談とは思えない獰猛な声色に、一様に表情が青ざめてゆく。
 さすがにそれ以上は駄目だろうと、はザギの横へ並び、彼のひやりとした腕に触れた。

「ザギ、良いって、それくらいにしよう」

 ザギの瞳が、を見下ろす。海原の暴威を象徴するサメに相応しい、凶暴な眼光。本気になって怒っている事に、は少なからず驚きながらも、もう一度念を押した。

「せっかくの祭りの日なんだから……な?」

 ザギはしばらく無言を貫いていたが、ふっと眼光を緩めると、肩を竦めた。
 仕方なさそうに息を吐き出し、渋々、獣人の青年の首から手のひらを剥がすと――前触れなく、水路へ蹴り飛ばした。
 突然の暴挙に呆然とする残りの二人も、同様に捕まえると順番に水路へ放り投げていった。

 ああ、やっぱりやったかと、は立ち上った水柱を見つめた。あのザギが、こき下ろされて大人しく引き下がるなんて、思ってはいなかったが。

「良かったな、頭が冷えただろ」
「てめえ……!」
「来訪者は歓待しろと親父どもに言い聞かせられてるがな、さすがにお前らみてえのまで受け入れる必要はねえだろ」

 ザギは不遜な態度で笑うと、水路の中に向かって「今日はもう休むそうだ。連れてってくれ」と言い放った。
 すると水路の中から、魚人族の女性たちが浮かび上がり、落とされた三人に寄り添う。彼らの身体をしっかり捕まえると、慣れた動きで下へと泳いでいった。
 彼女たちは皆、人間の女体が強く現れた、美人ばかりだった。たぶん、こういう時のために待機していたのだろう。その艶やかさにあっさりと当てられ、鼻の下を伸ばす青年らには呆れたが……穏便に過ぎ去ったので、良かったのかもしれない。

 事態を見守っていた周囲から、拍手と歓声がわっと上がる。荒事にも寛容で、むしろ面白がっている節さえある笑い顔は、この町と暮らす人々らしさに満ち溢れていた。

 だが、何故かザギは、またしても不機嫌な面持ちを宿していた。

「……来い」

 ザギはの腕を引き、人の多い通りからやや距離を取った。そして、おもむろにへ向き直ると――無言のまま、頭突きを繰り出した。

「ふぐッ?!」
「こんの、馬鹿野郎! そんな恰好で、一人でうろつくやつがあるか!」

 物凄く怒られ、額を押さえたは目を丸く見開いた。
 え、これは、私が悪いのか? ただそこに居ただけなのに。

「……はあああ……まあ、お前にその気はねえんだろうけどよ。もう少し自覚してくれ、危なっかしくてしょうがねえ」

 ザギは大きな溜め息をこぼすと、疲れたように項垂れた。
 突然の頭突きは許しがたいけれど、手間を掛けてしまった事は理解出来る。助かったのも事実なので、は「ありがとう」と礼を言った。
 ザギはちらりと視線を向け「言われるほどの事じゃねえ」と素っ気無く返してきた。

「でも、ちょっと迫力があって、怖かったけどな。そんなに、気に入らなかったのか?」

 魚人族である事を、あんな風に侮辱されて。
 少し躊躇いながらが尋ねると、彼は胡乱げに目を細めた。

「あの程度で目くじらなんか立てねえよ。大体、俺がああ言われて傷つくようなタマだと思うか?」

 ……ないな。それは、ない。
 むしろ、喧嘩の口実を得たとばかりに、殴りかかるのが彼だろう。

「気に入らなかったのは、そこじゃねえよ」
「え、じゃあ……」

 ザギの両目が、を見つめる。それまでにない静けさを帯び、一瞬、ザギらしからぬ何かを見つけたような気がした。

「だからお前は、危なっかしいんだ。昔から、目を離していられないのに、無自覚で振りまく」
「……?」
「まあ、それは置いとくとして。何処か、見て回ろうと思ってたのか」

 その時には、もう普段のザギだった。ほっとしたような、残念なような、不思議な感情がの胸に渦巻く。

「いや、そういうわけじゃないんだけどさ。ただ、仕事も終わったし、踊り手の衣装もこれっきりだしさ……もう少し味わっていたいというか」
「そうか。なら、行くぞ」
「えッいや、でも……」

 その場でまごつくと、ザギは小さく息をこぼし、「俺じゃ不満か」と呟いた。そういう意味ではないと、慌てて首を振る。

「違うよ。ただ、ザギは見回りとかあるんじゃないかって」

 今さらながら気付いたが、彼は現在、祭りの見回りを行う人々が着る衣服を身につけていた。
 袖をばっさりと切り落とした膝丈のコートで、背びれや尾びれを考慮し後ろ側には切れ込みが入っている。その外見は、一言で言えば、海賊だ。はこっそりと、海賊の頭目の服と呼んでいる。

「……脱いでくるのを忘れただけで、見回りはもう他の連中と交代している。別に、気にしなくていい」

 ザギは背中を向けると、早く来い、と呼びながら歩き始めた。は慌てて駆け寄り、衣装を揺らして彼の隣に並ぶ。
 見回りが既に終わっていたなら、此処に居るのは、偶然か。それとも――。
 これまでなら気にもしなかったのに、何故だか今は、酷く落ち着かなかった。


 だがそんな事は、水路通りに並ぶ屋台を巡り美味しいものを食べればすぐに忘れた。
 祭りの時にしか見かけない串焼きや甘味を、ザギにも持たせ、は食べ比べを楽しむ。

「新しく並んだやつ、美味しいな。ほら、ザギも口開けて」

 ほれほれと、串焼きを揺らして差し出す。餌やりをするような仕草であった事は自覚しており、ザギも何やら物言いたそうな顔をしたが、仕方なさそうに口を開き食らい付いた。サメという種類に相応しい、豪快な、腕ごと持って行きそうな迫力だ。一口に飲み込んでしまうところに、さすがだと妙な感心を抱く。

「……せっかく良い服着てるってのに、変わらねえんだな。お前は」

 ザギは、低い声に呆れた笑みを浮かべた。

「お前はそうやって、馬鹿みたいに笑ってるのがいい」
「何だよ馬鹿みたいって」

 この野郎、と冗談混じりにが殴ると、彼は空気を緩めて笑った。


 ……だが、踊り手の格好をしているために先の舞台の事などで呼び止められると、そのたびに彼は不機嫌さを滲ませた。特に、を散々に笑ってきた顔見知りと鉢合わせした時は酷い。ギザギザの歯を威嚇するように剥き出していた。
 としては、指を差し爆笑した彼らが急にそわそわする様子は不気味だったので、止めたりはしなかったのだが……いつもザギは、そんな風にしていただろうか。やはり、不思議な違和感を覚えた。


◆◇◆


 水路通りの屋台巡りをした、その後である。
 ザギから「浜辺の方に行かないか」と誘われた。
 町中の熱気に汗ばんでいたは、疑いもなく、二つ返事でそれを快諾し、人混みを離れた。

 町中と比べれば少ないが、人の姿は意外と多かった。そこかしこで、飲み物などを囲みながら楽しそうに談笑をしている。
 賑やかな彼らの後ろを横切り、ザギはさらに足を進めてゆく。彼の後ろを着いていくは、何処に向かうのか、分かっていた。


 町が遠ざかり、明かりが無くなっても、はしばらく歩き続ける。夜空からは白い月明かりが目映く注ぎ、夜とは思えないほどに照らされているので、不安感は全くない。それにこの辺りは、地元民ならよく知る場所だ。
 ほどなくし辿り着いたのは、こじんまりとした狭い浜辺であった。海水浴向けの場所ではないので広さはないけれど、人の声も喧噪の音もない、さざなみの音色が優しく包む、美しい情景が広がっている。
 今は暗闇にぼやけているが、この先はさらに、細い岬へと続いている。
 そこが、本当の意味での、最果ての地であった。

 他に誰か居るのかもしれないと思っていたが、とザギの姿以外はなかった。紺碧に染まった海原と、星屑の瞬く目映い夜空が囲む、とびきりの場所を独り占めしている事に、は口元を緩めた。

「――悪かったな」

 ふと、ザギの低い声が響いた。

「まあ、なんだ、みっともない事を言って、気分を悪くさせた。舞台に上がる前とかな」

 ああ、とはあっけらかんと声を漏らす。
 謝ってくれるのなら素直に受け取るが、それを責めたりどうこう言う気は、今はもう全く無かった。

「観ていってくれた?」
「……ああ」
「そっか。楽しんでくれたのなら、それで良いよ」

 は笑うと、それより、と声色を改めた。

「どうだ、踊り手の衣装。そんなに悪くはないだろ?」

 スリットの入ったスカートを摘まみ、くるりと回って見せる。
 ザギから“これ”呼ばわりされ啖呵を切った、一ヶ月前のあの日。怒ってはいないが、忘れてもいない。少しの悪戯くらい、許されるはずだ。
 悪くはないと彼に言わせたくて、ニヤニヤと笑ってみせると。

「――ああ、そうだな。よく似合ってる」

 ザギは静かな面持ちで、そう告げた。
 は思わず動きを止め、両目を大きく見開かせる。
 不遜さのない、穏やかな眼差し。悪態をつかない、優しげな低い声色。ザギがするとはとても思えないものを返され、は大いに狼狽した。

「何だ、別に変な事は言っちゃいねえだろ。お前も練習してたし」
「あ、う、うん。そう、なんだけどさ」

 調子に乗るなと、笑ったりすると思っていたのだが……。

「……まったく本当に、集まった観客全員が楽しんだろうよ。そういう声も、終わった後しばらくずっと聞こえてたからな」

 ザギは大きく息を吐き出し――その声色を変えた。

「……だから、踊るなっつったんだ」

 月明りの下ではっきりと見える両目や、忌々しげにこぼれ落ちる呟きに、静かな苛立ちが滲む。

「あの服を着るって聞いた時から、そうだとは思ってた。で、実際その通りになった。くそ、だから腹が立つ」
「な、なんだよそれ」

 笑ってみせたが、目の前のザギから、冗談の気配は欠片ほどもない。
 ぐっと息を飲んだへ、ザギはさらに畳み掛ける。

「――さっき踊ってた時、どれだけの奴らがお前を見てたか、分かるか」
「え……」
「あの格好のまま町に出て、どれだけの奴らがお前の後を追いかけていたか。声を掛けようだとか、誘おうだとか、その手の事ばかり。何人の野郎どもが狙ってたか、気付いてないのか」

 狙うって、そんな。予想もしていない言葉を耳にし、の頬に困惑と羞恥が熱となって浮かぶ。
 そんな事あるはずないだろ、散々、男女扱いされてきたんだから。そう言おうとしたのに、何故だか声が詰まる。
 ザギは先ほどにも増して、眼光を鋭く放っていた。

「長く一緒に居たのは俺だってのに、俺でさえ知らなかった事を、余所から来た野郎どもにまで知られるなんてな。本当に腹が立つ」
「な、なに、なに言って」

 無性に恥ずかしくなり、それ以上は喋ってくれるなと両手を突き出した。だが、ザギはの事など気にも留めず続ける。

「大体、あの踊りとか歌、どういう意味があるのか知ってるか」
「え、祭りの伝統だろ?」

 この地に流れ着いたという人間の娘と、彼女に恋をしたという海の精霊の、古い言い伝えだろう。
 がそう返せば、ザギは「それだけのわけがないだろ」と鼻を鳴らした。
 祭りの華とされている、踊り手と歌い手。その役目を担うのは、これまでの風習にのっとり若い娘と定められているが、もちろん現在はそれだけの意味を持っていない。町などにいる年頃の若い娘たちが選ばれるので、合法的に紹介する場でもあるのだと、ザギは言い放った。

「そ、そうなのか?!」
「お前、本当に知らなかったのか」
「ぜ、全然、初耳」

 そういえば、舞台に上がった踊り手のうちの何人かは、祭りが終わると立て続けに結婚していたような。
 なるほど、あれはつまり、そういう事だったのか。舞台の若い娘を見初め、娶ろうとする男性たちがいると。
 今日初めて、祭りの裏事情を知った。

「だから当然、お前んとこの親父さんとかおふくろさんも、知ってるはずだ」
「ん、んん?! じゃあ、知ってて応援してたのか」

 舞台に上がる日を楽しみにしていると、そう言ってくれた両親。純粋に応援してくれていたとは思うが、その片隅には、この事情も含まれていたのだろうか。
 知っていたなら、教えてくれても良かったのに。
 はぼやいたが、「逆に聞きたいがお前は何でそこまで知らなかったんだ」とザギに窘められてしまった。全くその通りなので、ぐうの音も出ない。

「……で、お前はその舞台に、その格好で上がった」

 ざくりと、浜辺の砂が踏みしめられる。
 その音を拾い、ハッとなって意識を戻した。正面に佇むサメの魚人が、爪先を踏み込んだところだった。

「……今日の踊りで、何人の野郎どもがお前を見つけた」
「ザギ、あの」
「だから、踊るなって言ったんだ」

 ゆっくりと、近付いてくるサメの青年。その頭顔には、単純な憤りだけではない、熱を帯びた激情が、はっきりと読み取れた。

 こいつは本当に、ザギなのだろうか。

 疑ってしまうほどに、から見た今の彼は、別人のようだった。ザギから距離を取ろうとし、無意識のうちに足を後退させる。
 その時、の踵に、ごつりと大きな石がぶつかった。
 バランスが崩れ、の身体が大きく揺れる。後ろへ転びそうになり宙を泳いだ腕を、ザギが素早く掴んだ。そのまま引き上げると、腰に腕を回し、抱きしめるような格好でを支えた。

「お前が何も考えちゃいねえ事は、今日だけで十分に分かった。相手が俺だからって、警戒しないで着いてくるんだからな」

 ぶつかった胸と腹部に、体温を持たない冷たい表皮が触れる。昔から知っているはずの感触が、今は酷く落ち着かない。何度か身を捩ってみたけれど、海流を切り裂いて進むザギの腕はびくともせず、逆に強く引き寄せられてしまった。距離が埋まり、互いの腹部がぶつかって重なる。

 その時、ふと、は違和感を覚え眉を顰めた。
 下腹部というか、太股というか、何か妙に硬い感触がぶつかっているような……。
 ザギの胸に腕を宛がい、ぐっと顔を下に向けると。

「え、ええ……ッ?!」

 下衣を押し上げ、存在を主張するものに、目が留まる。
 大体の位置からして、すぐに理解した。
 は混乱し、ザギの顔と下半身を意味も無く見比べる。

「お前が上がった時から、何となくやばかった」
「いや、あの、わ、私……? ほ、他の、お、踊り手だろ……?」
「それはねえな。お前しか見てなかった。お前からはたぶん見えやしなかっただろうがよ、俺は」

 俺は、お前ばかり追っていた――。
 吐き出した声は、静かな熱を帯びていたが、一方で罪を告白するような重みもあった。まるでそれが、許されない事なのだと言うような。

 混乱は未だ拭えないが、そんなザギらしくない弱った姿を見せられたら、突き飛ばせなくなってしまう。

「……私のお腹なんて見ても、どうこうならないんじゃなかったのかよ」

 は少し笑い、腕をそっと持ち上げる。つるりとした表皮が覆う顎を指先で触れると、途端に、ザギが笑った。自嘲するような息遣いが、ギザギザの歯の向こうからこぼれ落ちる。

「おかしな話だ。水が無けりゃ生きられねえ魚人が、陸の上の人間にこんな風になるのも……お前に、幼馴染み以上のもんを持つのも」

 の指先が、一瞬、動きを止めた。
 幼馴染み、以上。
 信じられない思いで見上げた先にある、鈍く光るサメの両目は、やはり冗談の欠片もなくて。
 ああ、ザギは本心でそう言っているのだと、理解した時、の心は不思議と落ち着いた。そして、その後に浮かんだのは――。

「……そっか、うん、そうだったのか」

 ようやく出た声は、意思に反し震えていた。それだけでなく、頬はとんでもないほど熱く染まり、心臓までもうるさく跳ねている。
 それらも含め、全て、ザギに伝わっているに違いない。
 しかし、口元は、弧を描き緩んでいた。そうなっても、仕方ないだろう。

「ザギは、馬鹿だな。それを言ったからって、私があんたを嫌ったり、ぶん殴ったりするとでも思うのか?」

 ザギの逞しい身体が、ぴくりと、微かに揺れた。それに気付かないふりをし、は続ける。

「大体さ、ザギも、ずいぶん変わってるな。周りには、もっと色んな女の子が居るのに。メルみたいな、あんなに可愛い人魚だってたくさん居るだろ」
「……本当にな、何でお前なんだろうな」
「おいこら、どういう意味だ。……まあでも、たぶん私も、変わってるんだろうな」

 訝るようなザギの視線が、へ注いだ。

「身体がでかくて、鱗も尾びれも生えて、おまけにサメの頭してる魚人の方が、全然怖くないし安心出来るんだ」

 他の誰かに賞賛されるより。
 他の見知らぬ青年たちに手を引かれるより。
 この凶悪な外見をした、サメの魚人にだけされる方が、ずっと。

 酷く驚いた空気を放つザギを、笑いながら見上げた。

「……たぶん、ザギも知らないだろ? 舞台の上で、私は……あんたのためにも、踊ってたんだ」

 頭を傾け、広い胸板に額を押し当てる。滑らかな質感の表皮は、ひんやりと冷たい。

「……それは、さすがに、知らなかったな」

 長い沈黙の後、呆然とした低い声がこぼれ落ちる。それが少しおかしくて、は喉をくっと震わせた。

「そうだろ、言わなかったんだから」
「……馬鹿だな、てめえも」

 その言葉は暗に、魚人なんかに言うものではないと、仄めかしているように聞こえた。
 知ってるよ、人間と魚人がどれだけ仲良く暮らしたって――種族として超えられない、一線があるって。
 それを良く理解しているのは、他でもないである。

「そう思うよ。でも……私はそこまで、馬鹿じゃないぞ」

 ぐい、と大きな背中に手のひらを押し当てる。距離が無くなり、互いの腹部が重なると、嫌でもその間に挟まれた硬い存在を感じ取る事になるが、出来るだけ意識はそれに向けないようにした。

「こ、こういう風にするのは、ザギだけだったんだからな」
「…………おい、
「本当に、昔からッ」

 恥ずかしさを誤魔化し、半ば叫んだ言葉が、静けさを震わす。
 は、ザギの胸板に額を押しつけた格好のまま動けなかった。今さらになって、らしくない事を口走ったと羞恥心に襲われる。
 笑われるかなと、そんな考えが過ぎってしまい、余計に顔が熱を帯びた。

 ……いや、やっぱり、私が言ったら気持ち悪いよな!

 そう自己完結して、慌てて離れようとすると――ザギの腕が、強く腰を抱きしめた。

「……お前はやっぱり、馬鹿だよ」

 抑揚のない、低い声が落ちてくる。
 初めて聞いた声色に、のうなじがぞわりと震えた。

 すると、ザギはの身体を軽々と持ち上げ、砂浜から爪先を浮かせた。急に地面から離れた事に慌てる間もなく、ザギは身体を屈めてしゃがみ、を浜の上に座らせる。
 そしてその正面に、ザギは膝をつき、両手を置いた。
 覆い被さるように距離を詰め、迫ってくる強靱な身体。その迫力に押され、は後ろ手をつき、上半身を傾ける。

「ザ、ザギ?」
「この状況でそんな事を言って、大抵の野郎が止まるとでも思ってんのか」

 月明かりに慣れた視界に、サメの眼が映る。そこで初めて気付いた。彼の両目には、焦げそうな熱が渦巻いていた。サメという一族の凶暴な外見も相まって、それは酷く危うげで――酷く、惹き付けられた。

 こんなザギは、見た事がない。

 一瞬、言葉が無くなってしまうくらいに、衝撃だった。僅かな恐怖も抱いたけれど、嫌悪感はなくて、言うなればそれは――。

「待て、だなんて言うなよ、。絶対に、逃がさねえ」

 言うなればそれは、期待だ。

 肩を竦めたに、ザギの手が触れる。人間とは根本的に異なる、鱗と表皮に覆われた冷たい質感。それが、明らかな意図をもって、の日焼けした肌をなぞった。

「……今すぐに、お前をくれ」

 ――他の誰かに、捕まる前に。

 噛み付くように言った彼は、もう幼馴染みではない。
 情欲を湛えた、一人の雄だった。



不器用な少年少女の、そういう恋愛を、全力で応援し隊。
(みんなに伝われ、ぶきっちょ同士のケンカップルの良さ!)

◆◇◆

次話、多くの方が待っていらっしゃるだろう、18禁シーンになります。
サメのアピールポイントはがっつり入れます。


2017.08.14