03
ようやく見つかった毛玉スライムに、真っ先に思い浮かべたのは、困惑であった。こいつ一体、今の今ままで、何処を逃走していたのだろう……。おかげで要らぬ厄介事に巻き込まれ、人生初の修羅場を迎えてしまった。
恨みがましくその背(正面かもしれないが)を見つめたが……見知った三十センチサイズの黒い球体に、安堵が溢れたのも事実だった。
安心する束の間、弾丸のようなウルの体当たりに吹き飛ばされたのだろう異星人が、よろめきながら立ち上がる。そうしてウルへ投げ寄越す視線には、暗がりを焦がすような悪意。街灯の橙色の明かりを受ける異形の瞳が、獣の比ではない獰猛な光を放っていた。
「ふ、クク……ああ、お前の雌カ。不定形の分際デ、騎士にでもなったつもりカヨ」
箍(たが)の外れた笑い声が、暗がりに響く。ウルは変わらず、一定のリズムを刻み、ポンポンと軽やかに跳ねる。
「アア、弱っちい人間に媚びへつらうのハ、やっぱ窮屈ダ。俺らには、こっちの方が性に合ウ――!」
再び両腕の鎌を構えると、狙いをからウルへと変え、疾走した。
昆虫に酷似した外見を持つ異星人は、人間の成人男性を超える身の丈だった。それに対し、ウルは僅か三十センチサイズの柔らかいボール体。
体格の差、膂力の差などは、外見からしてあまりにも歴然だった。
は焦燥に駆られ、腕を伸ばす。
それを留めるように、柔らかい触手が、の指先に巻き付た。
今この瞬間にも敵意を露わにする異星人の事など、何の心配もないとばかりに、優しく――。
鎌を振り上げた異星人が、目の前に迫る。
――その瞬間、ウルの丸い身体から、何十本もの触手が飛び出した。
鞭のようにしなる触手は、襲いかかる異星人の身体へ、一瞬の内に巻き付く。身動きの全てを奪い拘束すると、叩き付けるように地面へ引き倒した。
「ナッ!? ウグ、グ……ッ!」
激しく身動ぎを繰り返しているが、振り解く事はおろか、腕を動かす事すらままならない。そんな状態でも、どうにか拘束から逃れようと藻掻き続ける異星人の正面に、ずいっと、ウルは這うように移動した。
『――それ以上、耳障りな声で、口汚い言葉を吐くな』
昆虫に近い異星人の面持ちが、虚を突かれたように歪んだ。鋭い異形の双眸に驚愕が満ち、唖然と見開かれる。
その底知れぬ怒気を孕んだ低い声は、の頭の中にも響いていた。襲ってきた異星人とはまた違う意味で、も呆然とする。
いつもは穏やかなウルから、そんな“声”が聞こえるなんて。
「な、おま……グ……ッ」
その声が煩わしいとばかりに、触手の拘束が強まる。ギリギリと、音を立て男の身体を締め上げていく。
『自分が強者だと、捕食者だとでも思っているのか、羽虫の分際で。地球の平和に慣れ、“喰われる恐怖”というのを忘れたらしい――なら、思い出させてやろうか』
柔らかいボディを覆う黒い毛皮から、ビキリ、ビキリ、と恐ろしい音が鳴り始める。
ふわふわなはずの毛皮が、棘のように逆立ち、硬く尖った鎧へと変貌していった。
滑らかな丸い輪郭は瞬く間にその姿を消し、針山のような凶悪な外貌へと変わり果てる。だが、それだけでは終わらないとばかりに、三十センチサイズの球体が肥大し、一メートル近くにまで膨れ上がった。
やがて、巨大化した丸い身体の全方位から、黒い触手が無尽蔵に溢れ出る。数十本、などという領域ではない。数百、数千と、空に向かう樹木の枝葉のように、音もなく生え続けた。
とっくに町は夜を迎え、薄暗く包まれているのに――目の前に、夜よりも深い暗闇が広がっているようだった。
ゆらゆらと揺れながら伸びる無数の触手は、次第に一つにまとまり、太く強固な束を作り上げる。最終的にそれは、八本ほどの長大な脚を生み出した。
一メートルほどの丸い身体は地上から持ち上げられ、宙に浮くその姿は――。
(まるで、蜘蛛みたい)
ぼんやりと見つめている間に、ウルはすっかり別人のようになってしまった。
それとも、こちらの方が、彼の本当の姿だろうか。
これでは膝に抱えられないな、などという見当違いな事を考えてしまうくらいに、思考が上手く追いつかない。
ただ、でも、はっきりと理解出来ていたのは。
今の彼が、普段にはないド怒り状態であるという事と。
――満たされぬ顎(あぎと)
あの呼び名が、どうやら本当に誇張ではなかったらしい、という事だけだ。
『――さあ、どちらが強者だ。小さな羽虫め』
触手を束ねて作り出した脚の一本が、高々と、持ち上げられる。半ばほどから解けた無数の触手は、再び新しい形を作り出した。
細長く伸びた円錐状のそれは、馬に騎乗した騎士が用いる西洋武器のランスのようだった。
身動きを封じられ、地面に縫い付けられたままの異星人に、それまでは無かった恐れがいよいよ現れ始める。
十本近い槍に頭上を覆われた上に、その鋭利な切っ先の全てが己に突きつけられれば、誰しも恐怖するだろう。
『彼女への無礼は、同じ異星人だろうと許さない――覚悟しろ』
無数の触手を束ねて生み出した黒い槍が、躊躇無く下ろされる。
は無意識の内に、ウルへ縋った。
「ウル、待って――!」
ガギン、と重い音が、次々に鳴り響く。
思わず閉じてしまった瞼を、は恐る恐る、慎重に押し上げる。
狙い澄ました一撃は、あの異星人の身体を貫いてはおらず、ギリギリのところで外れていた。
だが、僅か数ミリの距離で掠めていったその衝撃に、異星人の男は泡を吹いて気絶している。
――ああ、良かった。
激しく跳ねる心臓を押さえ、安堵の溜め息が溢れる。この男が可哀想などとはこれっぽっちも思わないのだが、後々にウルまで難癖を付けられてしまってはたまらない。
あんなに息巻いていたのに、一瞬の内に取り押さえられた挙げ句、深く気絶させられたのだ。その情けない醜態を晒した事で、良しとしておこう。
「ウル」
『……』
は視線を、気絶する異星人からすっかり様変わりしてしまったウルへと移す。
彼は何も言わず、無数に生えた触手をシュルシュルと解き、体内へ戻していく。宙に浮いていた一メートルサイズの球体は、の前に下り、いつもの見慣れた三十センチサイズへ縮小した。
普段はこんな可愛い姿なのに、やはり彼も、異星人。地球の常識に収まらない、規格外の存在らしい。
立て続けに見せられた衝撃の光景の数々に、しばしは言葉を失ったままであった。だが、恐る恐ると這いずって近付く気弱過ぎるウルの様子に、の口からは疑問ではなく、笑みがこぼれていた。
「――帰ろ、ウル」
腕を伸ばし、ふわもちの感触を抱き上げる。
の手首に絡んだままの触手は、弱々しく、きゅっと縋り付いた。
2019.04.28