04

 無事に帰宅を果たした頃には、夜もずいぶん深まっていた。

 自分の身には起こるまいと思っていた災難に遭遇するとは。世の中、何が起きるか、本当に分からない。

 ソファーに疲れた身体を投げ出し、精神の疲労回復のためウルのボディをムニムニと揉む。相変わらず、弱々しい弾力が返ってくるばかりだが……。

「ウル~?」

 呼び掛けても、反応はない。困った事に、帰宅する前から、ずっとこの調子だ。
 先ほどのド怒り状態の時は、ふわもちボディが嘘のように攻撃的な形態となり、驚くほど勇ましく立ち向かっていたのに。
 すっかり見る影もなく、萎んでしまっている。

(さて、どうしたものか)

 ただ、何を考えているかは、おおよそ想像がつく。
 少しの間、も口を閉じ、ウルを励ますように撫でる。しばらくし、沈黙を貫いていたウルがようやく動き出し、の手首に触手をふわりと巻き付けた。

『……すまない』

 案の定、聞こえてきたのは謝罪であった。

「さっきの異星人の事?」

 まあ確かに、ウルが逃亡を図らなければ、あんな事態にはならなかった。
 その恨みは多少なりにもあるので、こうして現在、腹いせにもちもちと丸いボディを揉みまくっている。

「でも、ウルが伸してくれたから、スッとした」

 酷く悪酔いをし襲いかかってきたあの昆虫型の異星人は、ド怒り状態になったウルの一撃により気絶した。
 三十センチの毛玉スライムが一メートル近くにまで巨大化した挙げ句、無数の触手で手足を作り出し別生物のような形態に変わったのだから、当然だろう。
 襲われた事に対する、正当防衛。自業自得の天罰。同情の余地はまったく無い。

 だが、よほど衝撃的だったのだろう。思った以上に深く気を失ってしまい、まったく目覚める気配が無かった。

 大の字で失神している異星人を道のど真ん中に放置というのも、近隣住民への迷惑なので、しかるべき機関へ通達し連行していただいた。
 当然、介抱なんてしていない。むしろ気絶した異星人を、ウルは何度も触手で叩いていた。
 酒に酔っていたとはいえ、あんな危険な言動をする異星人だ。叩けば色々と良からぬ事も出てきそうだし、無罪放免にはまずならないだろう。異星人に関わる専門機関で、厳罰な対応を期待する。

 金輪際あんな事態には遭遇したくないが、良い勉強になったと思う。
 もちろん、ウルの知られざる形態を垣間見た事も。

「ウル、強いんだね。びっくりした」

 いつもは三十センチサイズなのに。
 は鷹揚と笑ってみせたが、ウルから言葉は返って来ない。再び口を噤んでしまったようだ。



 ――ウルが、言葉を発する事はない。
 まだ出会ったばかりの頃、筆談や仕草で意思の疎通を図っていたように、彼の身体に声を放つ器官はそもそも存在していないのだ。
 その代わりに、触手が触れているその間だけ、彼の“声”が聞こえる。その原理はさっぱり分からないが(説明してくれた事もあったが一割も理解出来なかった)、テレパシーの一種だと思われる。
 ただ、声を届ける回路というのは人それぞれの構造をしており、複数人のもとへ同時に話しかけるというのは至難の業らしい。特に人間は、非常に複雑かつ特殊で、調整が難しい。基本的に一対一でしか声のやり取りは出来ないそうだ。
 優秀な個体ならば即座に解析し、何十人と回路を繋いだ上で“声”を送るらしいが……。

 ウルが喋り出した時の衝撃といったら、かつてない程のものだった。
 流暢に人間の言葉を扱う事もそうだが、その声が低く甘やかで、あまりにも魅惑的であったからだ。
 このもっちもちのフワッフワの可愛い外見で、こんなに低くかっこいい声を持っていると、一体誰が想像するだろう。
 異星人とはつくづく、知識の範疇を超えた未知なる存在である。

 と直接言葉を交わすため猛特訓したと、ウルは後に明かした。
 嬉しさを隠さない低い声の威力に、は一時、呼吸困難に陥った。



 ……だが、そんな彼も、今はすっかり萎んでしまい、弱々しい姿を晒している。人知を超えた神秘さは、全く見当たらない。

『……あんな事も起こり得ると、簡単に予見出来ただろうに。私は愚かだ』
「怪我もないし、もう良いよ」
『いや、良くはない。あんな危険に遭遇したのだ、はもっと怒ってもいい』

 そうは言うが、ウルの方が落ち込んでしまっているし、何か言う前から猛省している。それだけでもう十分だ。にとやかく言う資格は無い。

「それにしても、すごい良いタイミングで来たね。どうやって探し当てたの」

 実はものすごく近くに潜んでいたのだろうか。そうでないとしたら、あんなタイミングで割って入れるなんて、奇跡に近い。

「愛の力かな。ふふ、冗談だけど」
『私の防護膜の一部を、常にのコートなどに忍ばせている。発信機のようなものになるから、なかなか便利なんだ』
「そ、そうなんだ……知らなかったよ……」

 奇跡でもなく、愛の力でもなく、肉片の力……。
 僅かに生まれたときめきは、さざ波のように引いていった。

 そうか、私のコートには、ウルの破片が常に入っているのか。その事実は、知らないままで居た方が良かったかもしれない。

 窮地にやって来てくれたというところを大切しようと、は静かに自身へ言い聞かせた。

『……驚いただろう』

 少しの沈黙が流れた後、ぽつりと、ウルが呟いた。

『あんな姿に、いきなりなってしまって。すまない』

 の腕の中の黒いスライムは、相変わらずしんなりと萎んでいる。
 どうやら彼は、蜘蛛を彷彿とさせる姿へ変身した事も、気にしているらしい。
 確かに、は驚愕のあまり腰を抜かしていたが……。

「――怖くは、無かったよ」

 昆虫型の異星人を恐ろしいとは思っても、初めて見たウルの姿には、そんな感情はこれっぽっちも湧かなかった。

「むしろ、かっこよかったかな。うん。それに、頼もしかったし、嬉かった」

 丸いボディが、びくりと跳ねる。驚くあまり、仰天したといったところだろうか。は小さく微笑み、そっと柔らかい弾力を撫でた。

「でも、いつもとは全然違う見た目になったね。なんていうか、黒い毛皮が刺々して、ギザギザして」
『ああ……あれは、我々が持つ戦闘形態だ』

 本体を覆う防護膜――ウルの場合は黒い毛皮――が、攻撃と防御を兼ねて性質変化し、戦闘に適した状態になるのだという。
 また本体を肥大化させ、無数の触手を形成するのも、戦闘形態の特徴なのだという。

 自由自在に身体の大きさを変える上に、形成する触手によって多彩な攻撃手段と姿を持つ。
 異星人は、つくづく、不思議な存在だ。
 は感心しきったけれど、説明するウルは誇らしさを見せたりせず、むしろいっそう落ち込んでしまった。

『――怖がられると、思っていた』

 これまでは、この姿でしかと接していなかったから。
 呟くウルの声は、弱々しく、の脳内に響いた。

『ただでさえ、私はこんな姿をし、交流手段はこの触手のみ。戦闘形態など、とても言える自信が無かった。この先も、見せるつもりは無かったんだ』
「うん」
『けれど、怖がられないだろうこの姿でも、結局、傷つけてしまった』

 手首に絡んだ触手が、縋るように、指先にも巻き付いた。

『――嫌わないでくれ、

 いつだって温厚で、好奇心旺盛な、心優しいウル。
 一度だって乱暴に振る舞った事は無かったが、可愛らしい見た目であっても、その根幹には地球人が持つ事の叶わない底知れぬ強さが秘められている。

 見た目こそこんな風でも、ウルは、人間よりも遙かに強大な種族だ。

 そんな彼にも、恐ろしいと思う事があったのか。他ならぬ、私の事を考えるあまりに。

(今日は、色んな事が起きる日だな)

 隠してきたウルの本心にも、触れられるとは。
 ふわりと込み上げる嬉しさと共に、落ち込む黒い毛玉スライムを抱きしめる。

「触手を操るスライム星人なんて事は、もうとっくに知ってるし、受け入れ済みなんだから。今更、それくらいで怖がるわけないでしょ」
『だが、に嫌われたら、悲しみのあまり本体が溶けてしまう』

 困り果てた様子を浮かべる低い声に、心臓がぎゅっと摘ままれ、無意識に呻いてしまった。
 そんな格好良い声を持っているのに、ファンシーな見た目で途方に暮れられたら、可愛いしか感じない。なんという不意打ちだ。

「嫌ってないよ、ウル」
『本当に』
「そもそも、私は人間で、ウルは他所の異星人。色々と違って、当然だと思う。えーと、グラ……グ……グラニュートウ星人だっけ?」
『グランニューツヴェルドゥート』
「ぐ、お、覚えにく……グラニュー糖しか入ってこない。と、ともかく、そういう異星人同士だから、知らない事とか、これからもたくさん出てくると思う。全てを見せろとは言わないけど、今日はウルの新しい一面が見れて良かったよ。本当に」

 微笑みを浮かべた唇を、ウルの丸いボディへ押し当てる。
 徐々にしおれていた空気が晴れ、弱々しかった触手もピンッと復活した。

『……恐ろしくは、ない?』
「うん。怖くない」
『……そう、か。良かった』

 本当に、不安に思っていたのだろう。ウルは譫言のように何度も、良かったとしきりに言葉を噛み締めていた。

「私も、嫌がる事して、ごめんね」
『嫌がる事……? は、謝る必要はないだろう』

 ウルは不思議そうにし、丸い身体を揺らす。
 いやいや、数時間前にあった事を、忘れてはいやしないだろうか。

「触ろうとしたら、嫌がってたじゃない。私の手を叩くくらいに」

 途端に、ウルの動きが凍り付き、言葉を詰まらせた。騒動の原因となったやり取りを、思い出したらしい。

「ウルを責めるわけじゃないよ。私が悪かったから」
『いや、あれは、その……嫌だった、わけではなく……』
「じゃあ、どうして?」

 問いかけると、ウルは答えに窮したようで、沈黙した。
 やはり、あまり尋ねてはならない事らしい。
 それならば無理に問い質すべきではないと、は自らにも言い聞かせた。

「でも、これだけは言わせてね。具合が悪いならそう言って欲しい、さもないと強引に病院へ連れて行く。バッグにぎゅうぎゅうに押し込んででも。本当に病気だったら、困るもの」
『……
「嫌だからね、ウルが本当に溶けたりしたら」

 ウルは、少しの間、口を閉ざした。そうして、小さく溜め息をこぼすと、腹を括ったように告げた。

『――医療機関に頼っても、これは治るものではない』
「え?」
『種族上の、生理的現象だ。病気ではない』

 ウルの低い声は、隠すのはもう止めたとばかりに、朗々と響いた。

『それを知ったら、きっとも、私を遠ざけようとする。人間の思考では、追いつかないから。それでも、知りたいと、思う?』

 その問いかけは、これまでにない真に迫った緊張が帯びているように感じた。まるで、最後の警告を告げるように。逃げ出すなら今しかないと勧告するように。

 黒い毛皮に包まれたふわもちスライムの気配が普段と違うと、は嗅ぎ取りながら、口をついて出たのは「教えてくれるのなら知りたい」という暢気な言葉だった。

『――そうか、分かった』

 短く漏らした声は、淡々と、の耳を掠めた。


◆◇◆


 秘匿し続けたものを明るみにするように、あんまりにも覚悟の篭もった声だったから、も自然と身構えたのに。

 ――現在、何故か、浴室に連れ込まれていた。

 温かい空気と湯気が立ち込め、白く煙る天井。そこから滴った雫は、ぴちょん、とささやかな音を奏で、浴槽の水面を揺らした。
 疲れ切った身体には、普段以上に湯の温かさが心地好い。ほうっと安らいだ溜め息をこぼし、ゆったりと身を預ける。

(うん、なんか、普通に、お風呂だなあ)

 つい数分前は、一体どのような話を聞かされるのかと緊張していたのに、すっかり気が抜けてしまった。
 当のウルも、湯船の中でぷかぷかと漂っている。
 風呂から上がったら話すのだろうか、と思っていると、濡れた触手がへと伸びた。

『身体を、洗うんだろう?』
「え、う、うん」
『なら、私も手伝おう』

 そう言って、ウルは湯船からぷるんと飛び出すと、洗い場の腰掛けをてしてしと叩いた。は少し躊躇いながらも、言われるがまま湯船から出る。

 濡れた黒い触手が、石鹸を持ち上げ、もこもこと泡立てる。毛皮のおかげだろう、きめが細かくたっぷりとした泡が出来上がり、の背中に擦り付けられた。
 ふ、ふふ、ちょ、くすぐったい。
 上下に滑る色は柔らかく、思わず身体を捩って笑ったが、慣れてしまえば極上の触り心地である。

「ウルは本当に、人を駄目にする触手だね」

 肌を労る安心安全設計の触手が、もっちりとした泡でを包んでいく。
 温かくて、心地好くて、瞼が下りそうになる。


『――は、いつでも、無防備だな』


 不意に響いた、自嘲するようなウルの声。

 閉じかかっていた瞼が、バチッと開く。
 同時に、の身体へと黒い触手が巻き付いた。
 ウルの手足に当たる泡にまみれた細長いそれは、柔らかいのに、けして振り払えない力を秘めている。何も纏わない、剥き出しの両肩や腰を、意外な強さで捕らえられていく。

 石鹸の泡のせいか、ぬるぬると這い回る触手の感触は、普段とは違う生命体のよう。の背に、不可思議な震えが走った。

『物静かで落ち着いた性質なのに、気を許した相手には懐を広げる上に、隣にある危険も感知してくれない。貴女らしいと言えば貴女らしいが、もっと、注意してくれ』

 私だって、男性体なのに。

 呟きを送りながら、ウルの触手は動きを変える。濡れた首筋から、泡が伝い落ちる胸元まで撫で、無防備な腹部を下がり、太腿へと緩やかに向かう。
 いかにも意味ありげなその仕草を、は眼下で目の当たりにした。

『確か、湯を浴びるのが、人間の作法なのだろう。私も、それに則った』
「さ、作法……? あ……ッ」

 太腿に巻き付いた触手が、足の付け根を撫でる。
 びくりと飛び跳ねると共に、急速に頬へ熱が集まっていくのを感じる。

 その仕草が、言葉が、意味するところ。
 知らないなどと、初を装うわけではない。こうして共に無防備な姿で居るのだから、おままごとのような洗いっこで終わるはずもない。

 けれど――今更ながら、困惑と羞恥心が押し寄せる。

 常々、彼に情欲の類いはあるのか等と疑問を抱いていたわけだが、どうやらそれは愚問だったらしい。
 彼にも、あったのか――異性を組み敷き蹂躙したい、雄の本能が。

『……今は、過食期にあるんだ』

 身体が活性化し、本能が増強され、特に食欲や欲求が異常なほどに昂ぶる時期だと、ウルは明かした。

 過食期――一年に二、三回ほど訪れるというそれは、彼の種族だけが持つ生理現象であり、また最たる特徴であるらしい。
 “過食”という言葉の通りに、食欲や欲求が異常に昂ぶり、ともかく何でも取り込み消化しようとする。あるいは、食べるという行為によって、欲望を昇華させようとするのだそうだ。

 ああ、だから、皿やコップをあんなに溶かしたのか。
 あれは過食期とやらの片鱗だったのだと、は合点がついた。

『地球で、最も近い言葉を借りると……そうだな、発情期だ』
「はつじょうき」
『似たような言葉を借りた場合だ。原理だとかは違うが、想像がしやすいだろう』

 冷静に聞いているように見えるかもしれないが、発情期というパワーワードに、既に混乱の極致である。
 そういえば、彼の低い声の節々には、常には無い荒々しい熱が滲んでいるように聞こえる。
 それが、何にも遮らず、の頭の中に注がれているのだ。混乱するしか、無かった。

『我々の種族の、抗いがたい本能。大昔に、周囲のものへ手当たり次第に触手を伸ばし食い散らかした、その名残。醜く、浅ましく、捕食ばかり考える――なんてみっともない本能か』
「今までも、あったの……?」
『……何度かは』

 それでも、我慢してきたのだと、ウルは言った。
 堪え忍び、ひたすら堪え忍び、やがて抑えきれなくなったら食物も無機物も関係なく消化し、絶え間なく腹を満たす事で強引にやり過ごしてきたと。

『これまでだったら、それで良かった――けれど、耐えられなくなった』

 ここに来て、ついに耐えきれない場所にまで及んでしまった。
 たびたび意識が飛び、無意識の内に過食の本能に飲まれ、ぼんやりとしたまま食べ散らかし、しまいには体調にまで現れ始めた。

 苦しくて、渇ききって、何でもいいから満たされたい、身を掻き毟る飢餓感。

 その上、窮状にありながら戦闘形態になってしまい、一気に身体の活性化が進んでしまった。
 ずうっと、腹の底で抱き続けた欲望を、抑える術はもう無い。
 一つしか、残っていない。

 ――でもそれを、言えるはずもなかった。

 忌々しそうに、恥じ入るように、ウルは吐露する。項垂れるような空気が、有り有りと見えた。

「言ってくれて、良かったのに」
『……言えるわけがないよ』

 こんな暴食の本能、人間には気味悪かろう。
 穏やかな彼らしからぬ、自らに対した蔑みに満ちた言葉だった。

『他の人間になら、そう思われても構わないのに。からは、そんな風に見られたくない』

 ああ――まったく、この異星人は。
 人間などより、遙かに強靱な存在であるくせに。臆病で、優しくて――なんて可愛い事か。

 の中に込み上げたのは、場違いな喜びだった。

「――そっか、良かった」

 自然と口をついて出たの言葉に、ウルは酷く驚愕し、一瞬言葉を失った。

『良かった、とは……』
「私が、何か気に障る事をしたとか、嫌がる事をしたとか、そういうのでは無いんだね」

 安心したと心から笑えば、ウルはさらに絶句する。巻き付いた触手が、ぶるぶると震えている。

「要は、色んなものを食べたくて、仕方なくなるって事でしょう。ほら、ビュッフェとかバイキングとかに行って、あれこれ食べたくなる感じ? 別に私の事を、物理的に、むしゃむしゃ食べたいわけじゃないでしょ?」
『いや……』
「え、まさか、食べたいの?」

 さすがにそれは、と視線を逡巡させると、ウルは勢いよくぶんぶんと身体を振った。

『そんな事は……だが、ああ、過食期を乗り切るには、もう普通の飲食では駄目なんだ。でないと、もう』

 ああ、何を言いたいのか、分かる。手に取るように、分かってしまう。
 けれど、意地悪にも、尋ねてしまうのだ。

「ウル――シたいの?」
『……』

 彼は、押し黙った。
 けれど、残念ながらそれを隠蔽するのはもう叶わないだろう。

「……ウルの思念がね、こっちにもダダ漏れなんだよね」
『ッな、なに?!』

 ……彼に言った事は一度も無かったのだが、実は、そうなのである。普段は、きちんと言葉として伝わってくるのだが、自制出来ないほどの焦燥に駆られたり、あるいは熱狂し興奮状態に陥ると、感情の思念が波になって押し寄せてくるのだ。

 声を届ける回路とやらに過負荷なく繋げるのは、繊細な技術がいるらしいが。
 剥き出しの感情をそっくりそのまま、言葉に変換せず一方的に押しつける分には、調整の必要がなく容易いのだろう。
 物語でよくある“他人の心が分かる”という現象は、きっとこういう事なのかもしれない。

 そして今のウルは、子どものようにぐずりながら「シたいシたいシたいシたい……」と延々と欲望を垂れ流している。

 どうやらそれは、ウルにとって予期せぬ失態であったらしい。そんな初歩的な失敗をするとは、と恥ずかしそうに呟いた彼の丸い身体は、とろりと潰れてしまった。

 自覚していなかった失態らしいが、言わない方が良かったかもしれない。
 もしも注意深くなり、失敗する回数が減ってしまったら、もったいないと思うのだ。
 表情のない謎の毛玉スライムの心を、垣間見て、直接感じる事の出来る、貴重なやり取りなのだから。

 出来ればその辺りは、今後もうっかりしたままであって欲しい。ウルへの好意が深まったのも、グラニュートウ星人が可愛いと思ったのも、一緒に過ごしたいと思ったのも――全てそれのおかげだったのだ。

 は小さく笑みをこぼし、もう一度、ウルへ問いかけた。

「ウル、シたい?」

 長い沈黙の末、ウルは今にも消え失せそうな声で囁いた。

『……そんな事を、聞かないでくれ』
「だって、聞きたいから」

 見た目に反し、あまりにも穏やかで理知的な不定形生命体にも、肉欲があるのか。
 それを、脆弱の極みにある人間の私にも、向けてくれているのか。

 聞きたかったのは、ずっと、こちらの方だ。

「ウル」
『――は、存外、意地悪だな』

 意地悪な事を聞く、と彼は続けて呟いた。

『――好いた女性体は、欲しい。ありとあらゆる意味で、全て』

 まして今は、過食期。常から抱くその願望は、かつて地を這いつくばり無差別に捕喰し続けた始祖たちのように、知性も理性もない欲深い劣情へと塗り潰されてしまっているのに。

 次々と吐き出される言葉に、頭の中の、あるいは心臓の、大切な部分が甘く染められる。
 いいや、侵される。からも、正常な判断を奪うように。

 賢くて、力もあって、人知を超えた宇宙外生命体であるくせに――そこいらの生き物と変わらない、極めて分かりやすい欲望の衝動。

 ああ、なんでこうも、嬉しいものか。

『私は、こんな姿だ。まして触手など、絶対に嫌悪される。私が、そんな事を――』
「私は、シたい、よ?」

 びくり、と触手が震えた。
 思わずといった風に逃げ出そうとするそれを、はしっかりと掴んだ。

「ウルと出来る事は、全部。これは、本当」
『あ、ウ……ッ』
「最初に望んでくれたのは、ウルの方だったよね」

 半分潰れかかってでも耐えきろうとした、彼の最後の葛藤。そして、きっと未だ超えてはならない一線。

 ――それを、の方から、迷わず飛び越えた。

「ねえ、ウル。私に触手を伸ばした、あの時みたいに」
『あ、あぁ、アァア……ッ』
「――私の事、欲しがって」

 子どものように泣きぐずり溢れていた感情が、その瞬間、変わった。

 おびただしい量の真っ黒な触手が、の裸体へと押し寄せ、絡み付いた。



次話、18禁シーンになります。


2019.04.28