02(18禁)

 ――ふと、暗闇から意識が浮上し、ゆっくりと瞼が持ち上がった。
 いつもならば朝までぐっすりと眠っているなのだが、珍しく今夜は目が覚めてしまった。

 らしくもなく、不安などに囚われているせいだろうか。

 は寝返りをし、瞼を下ろした――が、ある事に気付き、すぐさまぱっと両目を開いた。
 隣に、シリルの姿が無い。
 寝る時には必ず隣にある、兎獣人のさらさらふわふわの白い毛皮は何処にもなく、空洞になっていた。トイレにでも行っているのだろうと思ったのだけれど、手を伸ばしてみると、微かな温もりしか伝わらなかった。
 つまり、少なくはない時間、ベッドから抜け出しているという事だ。
 はぼんやりとしながらも、身体を起こし、扉へと視線を向ける。微かだが、光が漏れていた。

 リネンの上に無造作に広がっていたシャツ――シリルのものだった――を掴み、裸の上半身に羽織る。ベッドから立ち上がり、扉を静かに押し開けた。



 誰もが寝静まった真夜中は、独特の静けさに満ちている。外の世界にも音は無く、暮らし慣れたこの家の中も同様だ。
 けれど今夜は、少し違う。忍ぶような微かな明かりが灯り、うっすらと真夜中を照らしているのだ。
 寝室へ微かに届いた光は、どうやら洗面所の方からだった。そうする必要はないのに、は何故か物音を立てないよう注意し、光のもとへ誘われていった。

 途中までは、物音が一切ないように思っていたのだが、近付くにつれ段々と、小さく音が聞こえてきた。息づかいというのだろうか。くぐもって、湿ったような音だ。
 洗面所の扉は、僅かに開いている。はその隙間へ顔を寄せ、その向こうを覗き込んだ。

「シリル……? 居るの……?」

 呼吸を隠すような小さな声音で尋ねたが――すぐに、喉の奥へと引っ込んだ。

 小さな明かりを灯した洗面所には、見慣れた白兎の獣人の細やかな後ろ姿があった。
 けれど彼は、両手を下半身へ伸ばし、自身を慰めていたのだ。
 白い手で、立ち上がったものを包み、何度も上下に扱いている。兎という種の特徴だろう、彼は普段から物音には敏感で、よく長い耳をぴくぴくと跳ねさせ周囲を聴覚で感じ取っているが、今はの存在に気付かないほど夢中になっている。

「う、あ……ッ、あ……ッ」

 こぼれそうになった声を、はぐっと堪えた。
 私の事を、思い浮かべながら、している。
 背中がぞくっと震え、頬に熱が集まる。恥じらい、あるいは好奇心で、奇妙なむず痒さが身体中を駆け巡った。
 シリルの頭の中で、私はどのような痴態が想像されているのだろう。
 は手のひらで口元を覆いながら、震えそうになる吐息を潜め、扉の隙間からじいっと見つめた。盗み見るようなこの行為は、けして良いとは言えない。けれど、秘密を目の当たりにした緊張感と、見ていたいというはしたない願望。そして、悪い事だと知りながらする甘く複雑な後ろめたさは、立ち去るという選択肢を容易く消した。

「ん、あ、あ……ッは……ッ」

 男の人の、上擦った、湿った声。穏やかなシリルも、こんな風に声を漏らすのか。ドキドキしながら関心を抱いたが、すぐに別の考えが横切った。

 こんな声を、これまでベッドの上で、聞いた事があっただろうか。

 シリルに触れられたが恥ずかしい声を出す事はあっても、彼がそんな風になってくれた事は……――。

 無我夢中に、硬く張り詰めた半身を扱き快楽を追いかける様に、ドキドキした。
 ドキドキして、目を逸らせなくて――何故、一人でそんな事をするのだろうと、疑問はすぐに怒りへと変貌した。


 そんな事しなくても! ここに新妻が! いるだろうが!
 何なのよ、そんなに色気が足りなかったか! お眼鏡にかなう外見じゃなくて、悪かったわね!


 シリルの手の動きが早まり、息づかいも激しく溢れる。上擦った声と共に、いよいよ昂りが最高潮へと到達しようとした――正にその瞬間に、は両手を突き出し扉を開け放った。
 バアン! と、それはそれは勢いよく。

「ッうあ?!」

 夢中になっていたシリルも、さすがに吃驚し、動きを止めた。
 白兎の長い耳がビーンッと真っ直ぐ立ち、現実に引き戻された顔は素っ頓狂そのもの。驚き過ぎて身動ぎ一つ出来ていないその様子は、兎の可愛らしさ全開だ。

 ――だが、今回ばかりは、はそれに絆されない。

「シリル……」

 自身でも驚くほど、不気味な静けさに満ちた声がこぼれ落ちた。
 ビクン、とシリルの耳が再び跳ねる。

「え、あ、……? な、なんで……あ、いやあの、これは」

 しどろもどろになり、懸命に言葉を探っている。だが、それを待ってあげるほど、は大人ではなかった。

「シリル~~~~……!」

 ご近所へ迷惑にならない範囲で、普段よりも数十倍声を尖らせながら、猛然と洗面所へ踏み入れる。
 シリルは驚いた恰好のまま動かなかったので、これ幸いとばかりには彼の前に立った。

「満足、出来なかったのね……」
「え、あの」
「絶倫と有名な兎の獣人だもの……そんな気はしていたわよ。ええ、それなりに長い付き合いだもの……私に色気が足りなくて満足させられていないって、予想もしていたわよ……したくなかったけど」
「ぜつり、え? 満足? ?」

 でもね。
 でもねえ!

「言ってくれても良かったじゃない……! 女のプライドがボロッボロよ!」
「え、ええ?! な、何の話……」

 なんかもう、目頭が熱くなってきた。悲しいというより、やるせなさと、こんな風に隠れて自己処理をさせてしまった至らなさのせいだ。

「わ、私だって」
……?」
「私だって、色々……き、聞いてきたんだから!」

 キッと両目を吊り上げ、シリルの手をぐいっと上へ持ち上げる。両手が離れた事で、硬く張り詰めている獣棒が所在なさげにビンッと跳ねた。下着だけを履いた下半身だったために、剥き出しの太ももをそれが直に叩いた。その湿った熱さに驚きながらも、意を決し、シリルの足下へ両膝をつく。

「えッ?! ……?!」
「お、大きな声出さないでよ……ご近所さんに、迷惑でしょ」
「ご、ごめ……いや、そうじゃなくて」

 ちらりと見上げると、狼狽を露わにする白兎の頭があった。黒いつぶらな瞳が、泳ぎに泳いでいる。普段は何を考えているのか分からないと言われがちな“無”の表情だが、今はそれが嘘のように明確に判別出来る。
 もっとも、慌てているのは、の方でもあるが。

「わ、私が……するから……」
「え、え、……ッ」
「だ、大丈夫……私だって、ちゃんと、出来る……は、はずだから……」

 シリルの顔も、下半身で聳えるものも、視線をキョロキョロさせるばかりでまともに見れないけれど、してあげたいという感情だけは勢いづいている。

「嫌だって、言わないでよ……さすがに、傷付くから……」
「い、言わない、言わないけど……でも……」

 激しく狼狽える彼の声にはそれ以上答えず、は目の前で立ち上がっているものへいよいよ視線を合わせた。
 少しクリーム色がかった下腹部の毛並みの中から、伸張し、天井を向く肉の棒。
 獣人だからか、その姿形も獣のそれに近く、長細い印象を受ける。色味も、くすんだ肌色ではなく、鮮やかなピンクがかった色をしている。それが、目と鼻の先で反り返り、ビクビクと小刻みに震えていた。
 白兎のふんわりした容貌を裏切るような、生々しさと、力強さ。間近で対面してしまった男性器の有様は、人間や獣人の種族関係なく、女にとって未知のものだった。嫌悪は抱かないが、ただ、少しだけ怯みそうになる。
 ついでに、周囲に居た大人の女性達から教わったアレコレは、この数秒間でほとんど吹き飛んでしまった。

……」

 食い入るように見つめるの耳に、シリルのか細い声が届く。
 いけない、ここは度胸を見せる場面。
 胸の内で意気込むと、緊張で固まってしまった身体を動かす。心許なそうに跳ねる獣棒へ、そうっと両手を伸ばし、指先を這わせた。

「あ……お、思ってたより、熱い」

 ガチガチに緊張した指先に、意外な熱さが伝わってくる。その温度を確かめるように、ゆるりと指を滑らせれば、途端にシリルの身体が飛び跳ねた。

「ふ、く……ッ」
「あ、びくって、した……何だろう、想像してたのより、ずっと……」

 硬くて、大きい。手のひらに、ずしっとした質量が感じられる。
 至近距離で、まじまじと見た事は無かった。男の人はこんな風になるのかと、人体の神秘に関心すら込み上げてきた。

「……ねえ、わざと、言ってる?」
「え? な、何が?」
「何って、その……ッく」

 硬い幹へ添えた指先を、するり、するり、と滑らせる。それから、恐る恐る手のひらを重ね、包むようにし全体を上下に扱く。
 の頭上で、吐息を噛む音が何度も聞こえてくる。白兎とはいえ獣人の男性、人間の女などよりもずっと逞しく頑丈なのに、それがびくびくと震え、溢れそうになる声を必死に我慢している。その様子が、妙に可愛くて、殊更にドキドキして、の両頬は熱く染まった。

「あ……気持ち、いい……?」

 上下に動かし、撫で擦る手は止めず、シリルを窺う。彼は壁に背を預け、口元に手の甲を押しつけている。つぶらな瞳は、困惑するようにあちらこちらを見ていたが、やがて観念したようにを見下ろすと、こくりと頷いた。

 頷いた! 気持ち良いんだ!

「良かったあ……」

 なにせ初めてのため、教わった事をいざ実際にしようとしても、加減が全く分からない。気持ち良いと、言って貰えるだけで安堵するし、嬉しくなる。まあそれと同じくらい、恥ずかしいが。
 シリルも、いつもベッドの上でに気持ち良いかと尋ねてきていた。こういう気持ちなのかもしれないと、片隅で思い浮かべた。

「あ、あの、どうして欲しいかとか、言ってね。ち、ちゃんと、頑張るから」

 大丈夫、私は出来る新妻! と意気込んで見上げれば――シリルは顔を覆い、唸り声を上げていた。

「もお~~~……ッ」
「シリル?」
「何でそんな、いっつもいっつも、可愛い事……ッ」

 もごもごと、何か文句を呟いている。よく聞こえないから、そのふかふかな手を退かしてくれないだろうか。

「あの、さ……」
「うん」
「もうちょっと、は、早く動かしてくれても良いから……」
「う、うん」

 シリルに乞われるまま、はその通りにする。優しく撫で擦る速度を少し早め、手のひらを軽快に上下させる。

「えっと、確か、先っぽの方も……」

 恐る恐る、指先を先端に向かわせ、ネジを取るように撫で擦ってみる。
 途端に、の頭上で「ッく、う」と声を噛むような音が聞こえ、慌てて顔を起こした。

「え、ご、ごめんッ痛かった……?」
「ち、違う、から……ッあ、続けて」

 息づかいが荒くなり、声音からも余裕が薄れていく。手の中の熱い剛直の震えは、次第に大きくなり、それに連動するようにシリルの腰は小刻みに揺れ出す。

 頭上から落ちてくるくぐもった吐息と、躊躇いがちに強請る仕草は――何故だか、少し、可愛らしく感じた。

 ぎこちないながらも、は懸命に両手で慈しむ。鮮やかな色の先端から、透明な先走りが溢れ、とろりと伝い落ちた。酷く熱い、粘着いた質感が、指先に絡まる。頭の中も、ぼうっと熱っぽくなり……気付けばは、ひくひくと口を開け呼吸する先端に、唇を寄せていた。

「うあッ?! ……?!」

 ちらりと見上げながら、音を立て口付けをする。そのまま口内へ、おずおずと招き入れてみた。

(けっこう、口の中、いっぱいになる……)

 歯を当てないよう注意し、舌先を這わせ、ゆっくり頭を上下に動かす。必死に繰り返す鼻呼吸の音が、露骨に響いてしまっているような気がして恥ずかしい。だが、嫌悪感は、不思議と無い。舌先に乗る粘着いた質感も、生々しい温度も、微かな匂いも、シリルのものと思えば平気だったし、もっとしてあげようとも思えた。
 このやり方が正しいのかどうかすら分からず、には不安しかなかったが、シリルを想いながら懸命に吸った。

「ん、む……ッふ……ッちゅ……」
「ちょ、ちょっと! それ、やば……ッあ、あ」

 シリルの身体が、激しく身動ぐ。の両肩を、彼のもこもこの手が掴んできたが、押し退けようとする力は感じられなかった。それどころか、もう我慢出来ないと言わんばかりに腰を押し付け、ゆらゆらと自ら揺すっている。
 どういう顔をしているのか、見てみたいが……口の中を一杯に満たす熱い剛直が乱暴に前後するため、息苦しさの方が強い。

「ん、ん! んーッ!」
「ご、ごめん、本当ごめん……ッでも、もう……ッ」

 ぶるぶると、激しく震える振動が、にも伝わってきた。余裕のない急いた動き、絶え間なく漏れる吐息、縋るように肩を強く掴む指先。達してしまいそうなのだと、苦しさの中で感じ取った。自らの口内を何度も出入りしている剛直へ、舌先をがむしゃらに絡め、頬を窄めようにし吸い上げる。

 それまでになく、シリルは全身を跳ねさせた。息を詰まらせ、低く呻くと、の口の中から引き抜く。それと同時に、先端から白い熱が迸り、の頬や唇、さらには胸元へと激しく飛び散った。

 ――飛沫を浴びた肌が、酷く熱い。全身が、ぞくぞくと震える。私が達したわけではないのに、シリルと同じくらい呼吸が乱れる。

 はしばらくの間惚けていたが、徐々に込み上げてきたのは、喜びだった。シリルに気持ちよくなってもらえた、上手く出来たのだという、少女のような喜び。白い飛沫が顔から伝い落ちているのも構わず、無邪気に微笑んでみせた。


 ――その時になって、ようやく、は気付いた。


「あ……まだ、ぴんって、上向いてる……」

 とろりと残滓が溢れながらも、萎える事無く、未だ活力に満ちる、シリルのそれ。
 の目の前で、堂々と、天井を向いていた。

「……はああああーーーー……」

 やがて聞こえてきたのは、大きな、とても大きな、シリルの溜め息だった。

「ああ、もう、こんなの、本当は見せるつもりじゃなかったのに」
「シリル……んぶッ」
「良いから、ちょっと、拭こう」

 シリルはその場にしゃがむと、掴み寄せたタオルをの顔へ押し当てる。頬や口周りだけでなく、髪の毛も拭っていった。そこまで飛び散ったのかと、奇妙な関心を覚えてしまう。
 けれど、彼から滲む空気は、とは違い強張ったままだ。無心になって、顔中を拭いている。

「お、怒ってる……? あの、良かれと思って」
「いや、すごく良かったんだけど……大丈夫、怒ってるわけじゃないよ」

 じゃあ、一体何なのだろう。
 床に座り、正面から向かい合う。シリルの目は泳ぎに泳ぎ、その声も非常に歯切れが悪い。

 ……ああ、そうか。

「……いきなり入って、ごめんね。そうだよね、そりゃあ、面白くないよね」

 理由が何であれ、一人で慰めている時に乱入されたのだ。男性からしたら、恥ずかしいやら、居心地が悪いやら、複雑な心境だろう。
 はようやく反省し、視線を俯かせた。満足させられないばかりか、デリカシーも欠如した女で、本当に申し訳ない。こういう勢い任せのところは、私の悪い部分だ。

「……どうぞ私の事は構わず、続けて下さい。大丈夫、怒らないし、朝まで起きないから……」
「待って待って待って!」

 立ち上がろうとしたを、シリルは慌てて止める。

「怒ってるわけじゃないし、出て行って欲しいわけでもないから」
「でも」
のせいじゃない。に悪いところなんて、少しも無いよ」

 シリルの手が、の手をそっと握った。優しく引き寄せられ、は再び床に腰を下ろし、彼の前に座った。
 呼吸を整えるように息を漏らした後、シリルは何処か観念したようにを見つめ。

「……こういう、身体なんだ」

 ぽつりぽつりと、語り始めた。自らの恥を打ち明けるように、小さな声色で。



 獣人という種族の、精力の強さは周知の事実だ。
 けれど、つがい――伴侶を得ると、その精力だけでなく、本能の部分も強まる。
 もっと言えば、獣人の始祖である、野で生きる獣たちのように振る舞いがちになる。
 兎の獣人は、蜜月とは関係なく夜の営みが非常に多い一族と、大々的に世間では知られている。恥ずかしい事に概ねその通りなのだが、そんな兎の獣人がつがいを得てしまうと、どのような状況に陥るか。

 ――精力の強さがさらに増強され、草食獣らしからぬ色狂いと化す。

 肉食の獣人のように鋭く危険な爪も牙も持たず、力関係では常に低い位置にありながら、子孫繁栄の優秀さと貪欲さだけは突出し、多くの獣人へ畏怖の念を与えている。

 兎獣人に生まれた場合、必ず付いて回る心象だが……正直、恥ずかしく思う者も少なくない。しかもそれがあながち間違いではないのだから、尚更タチが悪い。
 そう言ったシリルは、兎特有の長い耳をぺったりと下げ、項垂れてしまった。彼にとって、よほどの恥であるらしい。本人も、控えめな性質を有しているからだろう。しかし、明かされたとしては、既に聞かされてきた内容と大差無かったため、特に驚きは無かった。やはりそうだったのかと、いっそ安堵すら覚えたほどだ。

 しかし――。

「……だからって、毎晩一人でシていたなんて」

 の正面で、シリルは肩を小さく狭めた。
 結婚してからずっと隠していたというその秘密の方が、を大いに戸惑わせた。これまで脳天気に寝ていたが、その影で夫は必死に一人で欲望を抜いていたのだ。気付かれないよう、毎夜、こそこそと。
 何という事だ。どう反応していいか分からないが、とりあえずそれが異常事態である事は、うっすらと理解した。

「何でまた……」
は、身体が弱いだろ」

 長い耳を垂らしたまま、シリルはぎこちなく呟きをこぼす。

「大人になっても、季節の境目はすぐ体調崩して、風邪を引くし」
「シリル……」

 幼い頃の、身体の弱さ。何かにつけてはすぐに体調を崩し、倒れてきたの姿を、シリルは誰よりも見て知っている。
 を憂慮したがための行動だったらしい。
 嬉しくないわけがない。ありがたいと思う。


 ――けれど。けれどね。


 一体、いつの頃の話だと……!!


「そんな昔の事、いつまでも引っ張らないでよ!」
「そうは言っても、こないだも咳してたじゃないかッ」
「あんなの、ちょっと喉がイガイガしただけじゃない! すぐに治ったし!」

 数多の不調を味わってきたにとって、あれは病気の内には入らない。そもそも、大人になるにつれ病気にも強くなり、身体も丈夫になっていったのだ。幼少期の類い稀な病弱さは克服したと、自身で強く感じている。シリルが、心配し過ぎなだけだ。

「それは、分かってるよ。昔みたいに、豪雨の中飛び出して一週間寝込むような馬鹿な真似はしなくなったし」
「ちょっと」
「身体を強くする! なんて言っていきなり走り出して、一分も持たずぶっ倒れるような事も無くなったし」

 ……そんな事、しただろうか。さすがにそこまで馬鹿な事はしていない……と言い切りたかったが、強く否定出来ない幼少期は、の中に未だうっすらと残っている。
 そしてその被害を主に被ったのは、他ならぬ、シリルだろう。

「……分かってるよ。昔とは違うって。それでも、さ」

 シリルは、自身を戒めるように、肩をぎゅっと狭めた。

「やっぱり、好きな子に、無理はさせたくないじゃないか」

 ――ああ、まったく、もう。
 は、密やかに溜め息をこぼし、瞼を下ろした。

 昔から、シリルはそう。遊び回るような活発な性格ではなかったが、なんだかんだでの側に居て、何かあればすぐに家族のところにまで跳んでいってくれた。はた迷惑な事も随分としでかし、相当彼を煩わせたのに、けして鬱陶しがらずいつも優しく接してくれた。
 他の獣人の子どもは、彼を根暗と称したが、物静かな気質の中で温かく存在するあの優しさに、は救われてきた。負けん気だけは人一倍な、あの少女時代から、ずっと。

 ――だから、もう、十分だ。

 兎の頭と、柔らかい純白の毛皮を纏うしなやかな身体の、可愛らしい兎の獣人。草食の獣の血を持ち力が弱いとされていようとも、獣人は獣人。屈強で、腕力に富み、本能を重んじる“獣”の種族なのだ。人間の、それも女からしてみれば、いつだって獣人は強く逞しい存在だ。

 だったら、そうすればいい。
 もっと思うがまま、打ち明け、行動し、したいようにすればいいのだ。

 獣人とは、本来、そういう種族だろう。

「……シリルの馬鹿」

 ぽつりと呟けば、シリルの肩がさらに小さくなった。

「なによ。おかげで私、満足させられないって、心配しちゃったじゃない」

 だって、と小さな声が聞こえる。居心地悪そうに揺れる彼の肩を見つめながら、はゆっくりと、正面からもたれ掛かった。

「合わせようとしなくて、いいよ」

 ぴく、と白兎の身体が跳ねる。

「シリルは、昔からそうだったから。たまには……ううん、これからは、私の事じゃなくて、自分の好きなようにしていいよ」
「……それは」
「いいから、好きなようにしてよ。私は、あんたのつがいになったんだから」

 僕だけの、になって欲しい――そう望んでくれたあの日から、ようやく、彼だけのつがいになれた。
 あの瞬間を待ちわび、喜んでいたのは、シリルだけではないのだ。


 もっと色っぽい言葉で伝えられたら良かったのに、結局、いつもの強気な言葉にしかならなかった。そんな自身を恨めしく思いながらも、はシリルの肩に額を押し付け、全身で懇願した。

 不意に訪れた沈黙に、不安で心臓が音を立てる。数秒の沈黙を、いやに長く感じながら待っていると――シリルから、深い溜め息がこぼれた。

「……の馬鹿。ずっと、我慢してきたのに」

 普段とは異なる、低い声だった。肌の上を這うような響きを感じ取りながらも、は怯まない。

「うん、今日で終わりだね」
「……意味、分かってないでしょ。僕は、そんな風に言われたら」
「いいんだってば!」

 湿っぽい言葉がまだ続きそうな気がして、は彼の首に抱きつく事で強引に止めた。

「私がいいって言ったんだから、いいの! もう、一人で我慢しなくて、いいから」

 こういう時のつがいでしょ、と長い耳へ吹き込めば。
 シリルの身体が、わなわなと震え始め。

「~~~~もう! の馬鹿!」

 シリルは、耐えられないとばかりに、叫んだ。

 その直後、彼は両腕を持ち上げると、の身体を掻き抱く。その力は予想外に強く、身動きが取れないほどだった。

「必死に、我慢してたのに、君って奴は……ッん」
「え、ひゃッ! く、くすぐった……ッ」

 白兎の顔が、の首筋に勢いよく埋まる。ふこふこと動く鼻先が押し込まれ、伸びた前歯がうなじに宛がわれる。まるで喉元に食らい付かれたような、いやに熱く激しい噛み付きだった。

「シ、シリル……ッ?」

 カリ、と兎の歯が肌をかじる。痛みを覚えるほどではない。だが、明確な歯の感触に、ぞくぞくと背骨が戦慄いた。
 何だろう、いつもと違う。これまでと、何かが、違う。

「兎の獣人の、タチの悪さ……ぜんっぜん、分かってない」

 嘲笑するように震えた声が、の鼓膜をなぞっていく。

「肝心なところ、教えなかった僕のせいだろうけど……もう、いいよ。好きなようにしていいなら、そうする」
「あ、あの……シリル……」

 どうにか頭を動かし、シリルの顔を見る。
 そして、はたまらず、息を飲み込んだ。

「誘ったのは、君の方なんだ……ッもう、耐えられないから……ッ」

 見た目こそ、可愛らしい白兎の顔だったのに――の視界にあるのは、肉食獣にも似た、飢えた凶悪な気配を撒き散らす獣だった。



2020.03.08