02

 ――大都市から離れた辺境の地で、人攫いが起きる。
 取り立てて、珍しい事件ではない。だがそれは、自分の身に降りかからなければの話だ。


 一、二年ほど前のあの日、は人攫いに遭った。
 何も、悪い事なんてしていない。日常の一つであった薬草採りに出掛け、篭いっぱいに集め上機嫌に家へ戻るその帰りに、突如捕らえられてしまったのだ。

 一瞬の内の出来事だった。前触れもなく訪れた凶事に、抵抗らしい抵抗も出来ないまま、の両手両足には重たい枷がはめられた。

 そういった事も稀に起こるのだと耳にしても、自身の身に降りかかるなど誰も想像しない。我が身に起こる事で、初めて迂闊さを後悔し、どれほどの恐怖なのかを知るのだ。が正に、そうだったように。
 恐ろしい声でがなり立てる人攫い達に、乱暴に荷車へ放り投げられた時から、は人ではなく消耗品となった。粗末な調度品のようにぞんざいに扱われながら、長閑で愛しい故郷の地から、自らの意志とは関係なく連れ出されてしまった。




 ――人攫いに遭ったを待ち受けていたのは、惨憺たる日々だった。

 昼も夜も絶えず聞こえてくる音は、人攫いを請け負う下男の下卑た笑い声と、同じ境遇の子達の枯れ果てた泣き声ばかり。
 けれど泣き叫び、抵抗すれば、下男から容赦のない仕打ちを受けるため、いつからか泣き声すらも聞こえなくなった。
 いつの間にか、自身も泣き言の一つすら吐き出せなくなっていた。人形のように感情を殺し、汚れた荷車の中で蹲る。辺境の地の娘に、出来る事なんて何も無かったのだから。

 気まぐれに叩かれ、罵倒され、嘲笑されるのはまだマシだ。が耐えられなかったのは、人攫いの男達に、悪戯に身体を弄ばれる事だった。悪事に身を窶し、身なりも不潔に汚れた、二回りも年齢の離れた男が、や他の娘達に群がるのだ。商品の価値を維持するため、男達の汚らしい欲望によって純潔を奪われる事は無かったにしろ、高圧的に笑い、目の前で扱かれる剛直から吹き出す白濁に容赦なく汚された。何度も、何度も、何度も。
 あの吐き気を催すおぞましい生暖かさと臭い、年の離れた娘を弄ぶ醜悪な光景だけは、閉ざしたの心を繰り返し何度も抉った。

 ――故郷に帰りたい。故郷の人達に会いたい。

 壊れかけた心にあったのは、子どものような、淡い願いだけだった。


 長い時間――実際どれほどの時間が掛かっていたのか定かでない――、汚れた荷馬車で運ばれ、悪路を進み、最終的に劣悪な地下牢へ放り投げられた。
 ああ、いよいよ、ここで私も“終わる”んだな――そう思った時、の濁った瞳は、向かいにある牢を映した。

 鎖を幾重にも巻き付けた上に鍵を取り付けた、他よりも頑丈に閉じた鉄格子の奥に居たのは――鎖に繋がれた、傷ついた小さな子トカゲだった。


◆◇◆


 翌日、は町中を散策し、食料や道具の買い足しなどを行った。
 まだ故郷には遠く、いくつかの国を跨がなくてはならない。手持ちの路銀も少なくなってきたから、ここいらで稼いでおかないと。
 はその足で、町の冒険者組合へと乗り込んだ。


 土地が変わっても、組合というのは大体が賑やかだ。
 小さな町であっても、その印象は揺るがない。扉を開いてすぐ、威勢のいい笑い声がを出迎える。性別、年齢、様々な冒険者が集まっている。体格のいい冒険者と比べるとはあまりにも頼りないが、冒険者という生業に特別な資格は必要ない。人々の依頼を受けたり、魔物を倒したりして報酬を得るこの立場は、世間一般ではそれほど立派なものとされていない。有名になれるのは一握りの実力者だけ。あとは、その日暮らしの根無し草ばかりだ。
 だからこそ、のような人間でも、冒険者になれる。
 路銀稼ぎには、もっとも手っ取り早いのだ。

 同業者達の間をすり抜けながら、町人の困りごとなどを集めた依頼掲示板を見上げる。大きな魔物討伐だとか隊商の護衛任務だとかには目もくれず、薬草集めと四本牙の猪狩りという、ありふれた依頼書を選び取った。
 誰にでも挑戦できるけれど、危険は冒したくないし、派手な事は望んでいない。これくらいが、ちょうどいいのだ。

「あの、この二つをお願いします」

 受付カウンターへと持っていくと、組合職員の女性はにこやかな微笑みを浮かべた。

「はい、拝見しますね。薬草集めと……あら、四本牙の猪狩りですか。体長が成人男性二、三人に匹敵する大きさですが、大丈夫でしょうか」
「はい、問題ありません。狩りが得意な相棒がいるんです」
「そうですか。でも、けして無理はしてはいけませんよ」
「はい!」

 手続きを済ませると、はすぐに冒険者組合を飛び出し、宿へと戻った。買い足した道具を部屋に置いた後、弓矢を背負い準備をし、獣舎へと駆け込む。

「ラース! 依頼を取ってきたよ!」

 区切られた部屋の一角から、緑色の鱗の竜が顔を伸ばす。

「外に行こっか!」

 つまらなそうにしていたラースの瞳が、途端に喜びで輝くのが分かった。
 意外にも感情豊かな竜の表情を、はにこにこと笑って見つめたが、喜び勇むあまりに放たれた咆哮は獣舎を震わせた。恐慌する馬達のいななきが一斉に響き、は慌ててラースを連れ出した。





 町の外へ出て早速、四本牙の猪狩りに臨む。
 成人男性よりも大きいという、四本牙の猪。この辺りでは珍しくはない魔物で、生活を支える資源らしい。通常は複数人で挑むか、あるいは罠などを入念に仕掛けて捕まえるらしいのだが――ラースにかかれば、小細工など必要なくあっという間だ。

 が薬草を集めているその間に、一頭、また一頭と猪が積み重なっていく。

 頼りになるどころではない、とんでもない頼もしさである。

 路銀も手に入るし、依頼ついでに大食らいなラースの食事と運動も済む。こういった狩りの依頼は、一石二鳥だ。

 四本牙の猪が五頭ほど積み重なったところで、ラースは満足したらしく、の側で休み始めた。ちょうどの方も十分な量の薬草が集まったため、休憩がてら、寝そべったラースの腹部に深くもたれ掛かる。
 呼吸に合わせゆっくり上下する振動が、背中から温かく伝わってくる。瞼を下ろせば、ふわりとそよ風が過ぎ去り、心地好い自然の音がを包む。自然と、口元が緩んだ。

 もともと野草集めの知識と技術は、故郷で培われていた。旅をする身となってからは、弓矢と狩猟の技術を学んだ。大きな獲物は失敗する事が多いけれど、小さな生き物くらいならば罠を使って捕まえる事も出来るようになった。
 平凡な辺境の娘だったが、我ながら逞しくなった。
 逞しく、なれたと思う。あのおぞましい地獄を抜け出し、こうして、のんびり風を感じられるようになったのだから――。

「本当、良かったなあ……。あんなところから、自由になれて」

 ね、とが呟けば、同意するようにラースが鳴き声をこぼした。

 なんて事のない、ありふれた日常を取り戻すため――あの地獄から、這い上がった。
 私も、こいつも、あれほど必死に生へ齧り付いた事は、無かったに違いない。


◆◇◆


 人攫いに遭ったは、最後は不衛生な地下牢へと放り込まれた。
 何処からか雫の滴る音色が聞こえる、暗い沈黙と冷えた空気によって支配されているその空間は、正に“終わり”。終着点として、相応しい様相だった。

 ああ、これでもう終わりかな――そんな風に漠然とした死を思い浮かべていた時、のいる牢の真向かいに、同じように捕らえられた住人がいる事に気付いた。

 それは、人間ではなく、まだ小さな子どものトカゲであった。

 前足は小さく、後ろ足はそれよりも少し大きい、珍しい二足歩行のトカゲ。薄暗いせいで鱗の色までは分からないが、姿形からして恐らくは魔物だろう。身動ぎすらままならないほど、小さな足に鎖を繋がれている。
 密猟に遭ったのだという事は、濁った思考でも考えついた。
 人も生き物も関係なく、同じ地下牢か。売り物でしかないのだから、仕方ない。

 はじっと、小さく身じろぐだけの子トカゲを、眺めていた。その行動に意味などなかったが、この薄暗く劣悪な牢獄で過ごしているその間、真向かいに捕らわれた子トカゲは、何か正気を保つための縁(よすが)となっていた。
 なにせ子トカゲでありながら、地下牢を見張る男達にけして懐こうとはせず、それどころか少しでも近づこうものならば指を噛み千切ろうとまでしていた。小さな身体とは裏腹に、とんでもない気性の激しさと、気位の高さを持っているらしい。
 当然、ならず者達からの不興を一際多く買い、地下牢には仕置きを受ける子トカゲの鳴き声が毎日のように響いた。
 それでもなお、あの大きな爬虫類の瞳に、諦めはなかった。けして屈服しようとしない野生の本能に、は勇気付けられた心地がしたのだ。

「……ねえ、君」

 ズリ、ズリ、と重い枷を引き摺り、錆びた鉄格子にしがみつく。子トカゲは微かに反応し、を見つめた。

「君は、諦めないね。こんなところに入れられて、そんな風に鎖を掛けられても、まだ、諦めてないんだね」

 子トカゲは、反応しない。言葉など通じていないから、当たり前だ。
 だからは、勝手に続ける。淀んだ胸の奥に潜んでいた感情を、声に乗せ、枯れた喉から何度も吐き出した。

「知りもしない人に攫われて、気まぐれに弄ばれて、今度は売られて犯される」


「絶対に、嫌。そんな事は嫌なの。死にたいくらいに嫌で、嫌で、どうしようもない」


「――でも、死ねない。こんなところで死ぬより、少しでも故郷に近付きたい」


「帰りたい、帰りたい。あの場所に帰りたい」


「――絶対に、逃げ出してやる。あいつら、出し抜いてやるんだから」


 自らへ言い聞かせるように、絶え間なく溢れる言葉は、忘れていた何かを思い出させた。
 その瞬間、はもう一度、死に物狂いで生き延びてみせようと、決意したのだ。



 徐々に弱り果てていく身体を、己の意思だけで持ちこたえさせる日々が続き。
 好機が訪れたのは、それから少し経ってからだった。
 地下牢へ入れられた別の生き物が、ついにこの現状に激昂し、牙を剥いた。自らの命と引き換えに一矢報いる、苛烈な抵抗を最期に選んだのだ。
 鎖を巻き、鍵を取り付けているとはいえ、見た目からして粗雑な造りをした牢だ。獣に対してはその強度を発揮せず、瞬く間に檻は壊された。
 最初こそ、口汚く罵倒しながら応戦していた男達も、手負いの獣が繰り出す一撃には太刀打ちなど出来ず、呆気なく悲鳴へと変わった。
 我先にと逃げ出す男達の後ろを、牢から脱出した魔物が追いかけ、通路を走り抜ける。身体を擦らせながら進んでいくため、が居る牢の鉄格子も簡単にひしゃげた。弱りきった腕ではどうにも出来なかった扉が、ついに外れたのだ。

 こんな好機は、二度も訪れないだろう。

 は僅かながらに残っていた気力の限りを尽くし、枷をはめたまま牢から這い出る。立ち並ぶ牢を横目に見ながら、壁伝いに通路の先へと進んでいくと――その先もまた、地獄であった。
 牢から逃げ出した魔物達に、彼らを捕らえただろう男達が呆気ないほど容易く吹き飛ばされ、引きずり回されている。その中には、を悪戯に叩き、欲望の捌け口として弄んだ男もいた。
 閉じ込められた恨みを晴らすようなその暴虐ぶりを、恐ろしく思いながらも、男達に対する同情は全く湧かない。むしろ、ざまあみろと、思ったくらいだ。

 悲鳴が絶えない喧騒の中、は鍵を探し出し、片っ端から枷の鍵穴に試した。両手、両足を戒めていた重みがついに外れたが、声を上げ喜びたくなる衝動を必死に抑え、ありったけの鍵を持ち地下牢へ戻った。

 長く閉じ込められていたその場所は、不気味なほどにしんと静まり返っている。瓦礫などが乱雑に散らばる通路を、慎重に進み、牢の前で立ち止まる。
 あの子トカゲが閉じ込められている牢だ。
 そこだけ他とは異なる頑丈さがあり、あの騒動の中でもほとんど壊れておらず、おまけに扉を閉じる錠前もやけに多い。
 どうしてここだけが特殊なのか、しかし今のではまったく注視する事などない。一心に見つめるのは、中にいる子トカゲだけである。

「君も、出たいでしょ。ここ、開けるから、全力で逃げよう」

 相変わらずの気性の激しさで、威嚇を止める素振りは無かったが、躊躇っている暇はない。握りしめた鍵の束を全て試し、扉に括り付けられた錠前を一つずつ解いてゆく。

 鎖を取り外し、ぐっと押せば――ついに、固く閉じられた扉が開いた。

 鉄格子を挟み視線を交わしてきた子トカゲのもとへ、は歩み寄る。ウーウーと唸り続けるその声には、獣にはない獰猛さがはっきりと宿っていたが、ゆっくりと距離を詰めた。

「噛まないで、ね。全部、外すから」

 小さな身体に巻かれた鎖の事を言っていると、理解したのだろうか。威嚇し続けていた子トカゲは、だんだんと静かになってゆく。鎖を取り外すその間、を噛もうとはしなかった。

「ここを出たら、君も、私も、全力で離れないと。こんなところでなんか、絶対に死にたくない」
「クウウ」
「ふふ、同意しているの?」

 長く閉じ込められ、気が狂(ふ)れたのかな。言葉なんて通じるはずがないのに。

 子トカゲを縛り付けた鎖は、どうにか全て外す事に成功した。はほっと安心し、ヨロヨロと立ち上がると、他の牢へと視線をやる。
 手を伸ばして救いを求める人も、声をあげて助けを求める人も、いない。立ち上がる気力もなく諦めたのか、それとも、既に力尽きているのか。きっと商品として連れ出された人もいただろうから……ここはもうとっくに、私しか残っていなかったのだろう。
 ぎゅっと手のひらを握りしめた後、鍵を放り投げた。

「……さ、自由だよ。早く、逃げよう、ね」

 だが、子トカゲは牢の中から出てこなかった。何度も立ち上がろうとしているが、一歩進むたびに倒れ込んでいる。気丈に振る舞いながら、本当はもう、歩く事もままならないのだろう。
 人攫い達に、最も反抗していた子だ。与えられる食事も、けして食べようとしなかったに違いない。
 そんな状態でありながら、気力のみで反抗していたとは、感心した。こんなに小さいナリで、大した気位の高さだ。

 ――だから、それをここで終わらせてしまうのは、いけないと思った。

「……ねえ、君。私が、一緒に連れて逃げてあげるよ」
「クウウ……」
「外に、出たいでしょ?」

 答えは、聞くまでもない。反骨精神に溢れた子トカゲの目には、外への渇望があるのだから。

「噛み付かないで、よ……んっ」

 動けない子トカゲを、痩せた腕で抱き上げる。小さな犬程度の大きさのトカゲは、意外にも大人しくに抱かれてくれた。
 弱った腕と足には、子トカゲの重みですらのし掛かるようだったが、最後の気力を振り絞り地下牢を脱出し、ついに外へと踏み出す。

 その時、と子トカゲを照らした、久方ぶりの太陽の暖かさは――とっくに枯れ果てたと思っていた涙を、再び溢れさせた。




 しかし、脱出する事に成功したとはいえ、その後も苦難は続いた。
 そもそもあの地下牢暮らしで、まともな食事などしていなかったのだから、歩き続ける体力などあるはずもなく、早々に行き倒れた。
 たまたま山菜取りにやって来た老夫婦が見つけてくれなければ、そのまま魔物などに食べられていただろう。

 後で知ったが、が捕らわれていた場所は、打ち捨てられて久しい、古びた洋館の廃墟だった。かつては貴族の別荘だったらしいから、地下牢が幾つもあったのだろう。やんごとなき方々の充実した設備は、後に無法者達の根城にされたようだ。

 老夫婦は、行き倒れたと子トカゲを、住居に迎えてくれた。衣服や食事を無償で与え、眠るたびに悪夢で飛び起きるを慰め寄り添う。子どもは遠方に居るから懐かしいと、二人は迷惑がる様子もなく、しばらくの間その家に置いてくれたのだ。何度泣いて、感謝したか、もう数え切れない。
 人間不信に陥っていたの心も、彼らの温もりに触れて解けていった。

 そうして、と子トカゲが人攫いの悪夢を乗り越えるまで、一年近くまで掛かった。
 その間、せめてもの恩返しに老夫婦の山菜採りや狩猟に同伴し、率先し手伝った。その傍らで狩りや罠、弓矢の技術を教えてくれたので、救われたのは結局の方であったが。

 傷ついてやせ細った子トカゲも、その頃にはすっかり元気になり、外を駆け回るようになったのだが……。

 まさか、二足歩行の種の竜の子どもとは、思いもよらなかった。

 竜といえば、誰もが知っている、絵本に出てくる背中に翼を持つ巨大な魔物だった。滅多に遭遇しない幼竜と邂逅を果たした事も驚きだが、翼を持たず地上を駆ける種がいるという事にも驚かされた。あの時の衝撃は、後にも先にも恐らく無いだろう。

 でも抱えられる程度の大きさだった子トカゲ――いや幼竜は、すくすくと成長し、たった半年余りで子馬ほどの大きさにまでなった。さらに数ヶ月を経ると、立派な駿馬と変わらないがっしりとした体躯へと至った。もう地下牢に捕えられていた、痩せっぽっちの子トカゲは何処にも見当たらない。密猟者だって返り討ちにする竜となった。

 こうも大きくなると食事の問題が浮上したものの、持って生まれた竜としての本能か、老夫婦の住居や畑などに近付く野獣を軽々と仕留め自力で賄うようになった。それ以来、竜は敷地の番人として君臨した。


 ある日、すっかり大きくなった竜を眺めていた老爺が「こいつの背に乗れたら便利だろうなあ」と呟いた。
 なるほどそれは名案だと、は彼の背に騎乗出来ないかと試みるようになった。何度も落とされそのたびに生傷を増やしていったか、逆に火がつき、ついには振り落とされないまでになった。
 自己流ではあるが、まさか絵本の竜騎士のような真似事をするとは、自身も夢にも思わなかったが――生まれて初めて乗った竜の背がとても心地良かった事を、鮮明に覚えている。


 老夫婦の元で傷を癒す一、二年のその間で、は凡庸な村娘なりに逞しくなった。狩りも罠も上手くなり、竜の背に跨るのもお手の物。人攫いに遭い、衰弱しきった少女の面影は、ついに消え去った。

 ――つまりそれは、故郷へ戻る時がやって来たという事だ。

 旅立ちの朝、見送ってくれた老夫婦は涙を流し、最後まで家族のように接してくれた。
 辛いことを乗り越え、故郷へ無事に帰るんだよ――しわだらけの顔を普段に増してくしゃくしゃにした二人に、も大泣きし、何度も感謝を告げた。餞別として譲ってくれた古い地図を強く握り締め、逞しく成長した竜と共に出発したのだ。


◆◇◆


 ――あの旅立ちを迎えた日から、あっという間に数か月と月日が経った。

 はラースと共に、今も故郷へ戻るための旅路を歩み続けている。
 餞別で貰った古めかしい地図は、多少の差異はあれどおおむね正しく、国をあと二つほど越えれば故郷だった。
 こうして地図上で見ると、そう遠くは無いのに。
 現実では、旅路の果てはまだ見えない。厳しく、険しい道のりが続くばかりだった。


「……よし、そろそろ町に戻ろうか。傷まない内に、この猪を持って行かないとね」

 ラースの腹に寄りかかっていた身体を起こし、立ち上がったその時だった。

「――すげえ、竜がいるぜ。珍しいな」

 四、五人ほどの男の集団が、とラースのもとへ近付いてきた。
 四十歳前後の、厳つく不精な顔つき。上背も伸び、体躯はがっしりとしている。身なりからして、恐らくは冒険者だろう。
 けれど、その外貌は忌まわしい人攫いを彷彿とさせ、は自然と身構えていた。寛いでいたラースも身を起こし、グルグルと不機嫌な声をこぼしている。

「お前の竜か。凄いな」
「……どうも」
「おいおい、竜なんてもの滅多に見ないから、つい声を掛けちまっただけだ。そう構えんなよ」

 敵意は無いと示すように、先頭の男が両手を挙げた。けれど、その仕草は芝居がかったわざとらしさが強く滲み、が小娘だからと侮っている事は明白だった。

「何処で会ったんだ。こいつは確か、翼のない竜種で、ここいらには生息していないはずだが」
「……旅先で、出会ったの。旅の相棒だよ」
「へえ……」

 男達は、ラースに近付こうとしたが、途端にラースが威嚇の声を上げたため、それ以上踏み込む事は出来なかった。だか、一瞬怯んだ彼らの瞳は、ラースをじろじろと見つめている。観察しているにしては、不気味な熱が浮かんでいる。値踏みされているような気分だ。

「……もう良いですか。傷まない内に組合へ行って、依頼の完了報告をしたいんで」

 はそう言い放つと、ラースに四本牙の猪を背負わせ、手綱を引き足早に離れた。
 あまり良い雰囲気のしない集団だ。さっさと別れてしまうに限るが……不気味な視線は、とラースをいつまでも追いかけてきた。
 その舐めつけるような不快さに、の胸には不安が過ぎった。



 道行く人々に驚かれながら、組合へ向かい、報告と依頼完了の手続きを済ませた。
 受付担当の女性職員は、本当に猪を仕留め、おまけに数時間足らずで依頼を終えてしまった事に、驚きを隠さなかった。この近辺では誰もが知る魔物だが、身体の大きさもさる事ながら非常に気性が荒く、少人数では手こずる相手らしい。
 九割方ラースの活躍によるものなので、賛辞は謙虚に受け止めるだけにし、報酬を手にし組合を後にした。

「お待たせ、ラース。宿に帰ろ」
「グルルルル」

 獣とは異なる、重厚な喉の音が響き渡る。下げた頭を腹部へぐいぐいと押し付けられ、の足元がふらつく。立派な体格になったのに、甘えん坊は未だに健在だ。ラースに強請られ、まだ若く瑞々しい緑色の鱗を撫でれば、先ほどの不快感は溶けるように消えていった。
 陽が暮れ、夕食を取り始める頃には、あの男達の顔はの頭からすっかり無くなっていた。





 食事を終えたは、ラースの手入れ道具を抱え、宿屋の側に併設された獣舎へ向かった。
 きっとまたつまらなそうに丸まっているだろうから、寝るまでの間、構ってあげなければ。
 口元を緩ませ、意気揚々と駆けただったが、獣舎を視界に収めた時、違和感を抱いた。
 灯り一つ点いてない獣舎から、落ち着きなく騒ぐ動物達の鳴き声が聞こえる。ラースという竜がいるため他の動物達が萎縮してしまうのは仕方ないにしても、そのざわつきは日中には感じなかった。それに、暗くなった獣舎の物陰に、よく見ると、いやに大きな荷車がついている。しかもそこには、みすぼらしく錆びた檻のようなものまで乗っていた。

 他の、宿屋の客のものだろうか。それにしても、嫌な空気が――。


「――おい、急げ! さっさとしろ!」
「あのガキが居ない間に、さっさと貰っていくぞ!」


 暗い獣舎の中から、不意に聞こえた、男達の会話。
 の腕から、手入れ道具がこぼれ落ちた。それを蹴り飛ばしながら、獣舎の中へ飛び込む。

「ちょっと! 何をしてるの!」

 獣舎の奥に、こそこそと動く男達が見えた。しかも、彼らがいる場所は、ちょうどラースが休んでいる小部屋の正面だ。
 一体何を、と考えた時、男達の足元にあるものを見つける。

 ぐったりと横たわる、鱗に覆われた尻尾だ。

 その見慣れた形に、は悲鳴に近い声をこぼし、駆け寄った。

「止めて、触らないで! ラースに何をしたの!」

 しかし、伸ばしたの腕は、ラースに届く事はなく。
 暗がりにいた男が、その腕を掴み上げ、ぐいっと力任せに引っ張った。

(この人達、昼間の……――!)

 視認すると同時に、の口が塞がれる。
 そして、鳩尾に迸る、強烈な衝撃。
 の意識は、灯り一つない暗闇の中へ沈み込んだ。



2019.09.07