10
外から差し込む暖かな陽気に反し、部屋の中の空気はひたりと氷を押し付けられたように硬直した。壁に掛けた時計の針を刻む音が鮮明に聞こえるほどに、沈黙は研ぎ澄まされ覆っていた。「――――」
背中を曲げて頭を下げた姿勢のままでいるに、正面からルシフの声が落とされる。初めて聞くその声音に、心臓が跳ねた。勿論、恐怖する意味で。
「これは、どういうつもりだ」
温かい感情を落とした、無機質な響き。冷ややかな怒りが沸々としており、の背中に冷たい汗が滲む。
怒る理由は、何となく想像つく。何故だか知らないが、ルシフはがメイドとして振る舞う事を殊更に嫌っていた。特に、ルシフ様と呼ぶと、一気に機嫌が悪くなる。
そうであっても、もう。決意を手のひらの中で握りしめ、は口を開く。
「今後は改めて、ルシフ様にお仕えする次第です。なんなりと、ご命令下さい」
「止めろ」
「その為に私は、こうしてお側に」
「――――止めろ!」
痛みにも近い張り詰めた静寂が、一気に弾けた。声を荒げる事の無かったルシフの叫びは、硝子を叩きつけたような衝撃を後に響かせた。
は息を飲み込み、下げた背中を揺らす。ルシフは大きく息を吐き出すと、に顔を起こすよう言った。
「顔を上げて」
「けれど」
「良いから。上げろ」
有無を言わさぬ強い口調だった。は曲げた背を起こし、顔を上げる。目の前に立っていたのは、が想像していた以上に恐ろしい――――冷え切った憤怒を浮かべる、白猫であった。不愉快そうに揺らす細いしなやかなひげの向こう、鼻面にしわを寄せ口元をひくつかせ、険呑な眼光を放つその姿。美しい白猫であるのに、牙を剥く獅子を彷彿とさせた。
獣の姿を持つ種族ゆえの、人間とは異なる形で露わになる怒り。が驚いて声を失ったのは、其処まで怒り狂うルシフの姿を見た事なんて、無かったからかもしれない。そして現在、そうさせているのはきっと、間違いなくである。
どうして。真っ先にはそんな事を思った。
ルシフは、長い溜め息を吐き出した。
「……楽しそうに何をしているかと思えば、こんな事。、あんたは俺をよほど馬鹿にしたいらしい」
ルシフは自嘲めいた声で言いながら、ストールを外す。そしてそれを、へ突き返した。
「そういう意味で俺に渡すのなら、受け取れない」
突き出された青いストールを、は困惑の面持ちで見下ろす。声には出せず、どうしてとは視線でルシフに問い質す。彼は、険呑な眼光を容赦なくに浴びせた。
「当たり前だろう。これを俺に渡して、買われた身に徹するつもりなら、必要ない。最初に言わなかったか、俺はそんなつもりであんたを買ったわけじゃないんだ」
口を挟む猶予すら与えない口調は、聞いている方を委縮させるほどに冷たい。押し付けられたストールを、は呆然としたまま両の手のひらで受け止める。見上げたルシフの瞳は鈍く光り、普段感じる美しさは何処にいったのか。まるでを責めているようだった。
ふつりと、の中で何かが揺れ動いた。
馬鹿にしているかだって。一体、どちらが馬鹿にしていると。
は、憤りか、あるいは悲しみか、奥歯をきつく噛み締めた。ギリ、と口内で響く音を内側に響かせて、はストールを握り潰した。
「だったら私は何なの? ルシフに3000セスタで買われた人間以外に、此処に居る理由なんてあるの?」
ルシフは、一瞬言葉を詰まらせた。それは、と呟いた声の後、全てが続く事もなく飲み込まれる。ほら、言ってくれない。また曖昧にぼかして、きっと何もかも言ってくれないんでしょう。は、昂った感情のままにルシフを見上げる。
「私は雑草のままだけど、ルシフは違う。だったらもう、そう振る舞うしか私は」
私は――――その後、何て言おうとしたのだろうか。
途切れた言葉の余韻が、部屋に残る。再び訪れた沈黙は、格段に張り詰めていた。呼吸の音さえこぼしてはならないような、不自然な重い沈黙。
「……そんなに」
ぽつりと、ルシフの声がこぼれた。重い沈黙を、さらに煽りたてる低音だった。
「そんなに、買われた事の方が大事なのか。」
ぞくりと、の背筋が戦慄いた。口の中で籠らせ告げたルシフの声は、這うように低く、唸り声も混ざっている。猫の頭と肉体を持つ姿に相応しい、獣の声。の脚が、凍りついた。オッドアイに宿る獰猛さが、先ほどよりもずっと増している。今すぐにでも崩れ落ちる、危うい均衡で保たれる理性が見える。
靴を履いているにも関わらず、音を立てずにルシフの足の爪先が踏み込んだ。近付くと同時に伸びた白い手が、の腕を掴み引っ張り寄せた。咄嗟の事で、は動く事もなく手首を捕えられ、前につんのめりながら空いた距離を自ずから詰める。
外見は繊細な白い手であるのに、その強さときたら。鈍く走る痛みが、手首から広がってゆく。
「……だったら、俺もそうする」
ルシフは、の腕をさらに引っ張り、踵を返し歩き出す。その力に抗えるはずもなく、は彼に連れられ足を進ませるしかない。
まるで、別人のよう。氷みたい。
困惑と不安が綯い交ぜに、の思考を支配してゆく。ルシフは、部屋のソファーの側で足を止めると、を其処に放った。どう、と柔らかいソファーに倒れ込んだは、まさかと肩を震わせた。そして其処に、ルシフの長い脚が膝をつき、長身が覆い被さった時、尋ねるまでもなくは理解した。
ルシフ。混乱に震える呟きと共に、両腕を伸ばす。の両の手のひらをすり抜けたルシフの片手は、その手首を二つともひとまとめにし、全身をソファーへ押し倒した。蜂蜜色の金髪が広がった頭の上に、両の手首が縫い付けられる。
大きな手のひらと言っても、ほんの、片手であるのに。ただひとまとめにされて、押し付けられただけで、の腕は動かない。重い枷をはめ込まれたように、の腕の自由がほんの一瞬の間に無くなっていた。
「あんたが、俺と、この家に慣れるまで待つつもりだったんだが、そうか。よっぽどこっちの扱いの方が良いのか」
……え?
は一瞬疑問を抱く。一体彼は、何を言っているのだろう。慣れるまで、待つ? 何を待つと?
けれどその疑問が、の口を出る事は無かった。
「そういう扱いを望むのなら……俺もそうする。遠慮はしない」
覆い被さった白猫が、へと影を落とす。光の当たらないその顔は、優雅な猫ではなくて。
いつか見た野良猫以上に、獰猛な獣だった。或いは、初めて見た――――。
仰向けになって押さえ付けられたの首に、ルシフの手が重なった。両の手首を捕えても、何の苦もなく動く白猫のそれは優雅な造形だが、今は無遠慮な獣の手にしか感じられない。長い指が襟を掴み、力任せに引っ張る。は慌てて身を捩ったが、頭上に縫いつけられた手首が突然痛みを訴えた。鋭い何かが、薄い皮膚を突き破ってしまいそうな、感覚。何が刺さっているのか見ようとしても、見えるものではないけれど、この痛みは何なのかとは混乱する。
ビリッ。不意に、嫌な音が聞こえた。
視線を下げれば、造作もなく衣服を引き剥がす白い手があった。ブツリ、ブツリ。急いではいない、けれど容赦なくボタンを飛ばす長い指の先には、爪が見えた。細く鋭い、鉤爪のような形をしたそれ。普段は隠れていたのだろうルシフの爪が、はっきりと目視出来た。そういえば、鋭く伸びた爪なんて、初めて見たような気がする。
が茶色い目を見開いている間に、胸部から衣服の圧迫感が消え、ついに外気に触れる。胸を掠める涼しい空気が、を震え上がらせた。動かしても、捩っても、ルシフはびくともしない。今もの両足はばたついているのに、効いている気が全くしない。下手したらそこいらの女よりも、ずっとすらりとした肉体なのに、外見に似つかわしくない力強さ。
間違いなく彼は獣人――獣だ。
「ルシ、ルシフ」
震えるの声は、ルシフの三角の耳にも届いているだろう。けれど彼は、露わになった胸部を見下ろし、オッドアイを獰猛に輝かせた。温かみなんて無い、冷たい光だった。
「……あの市場に出品された時点で」
沈黙していたルシフが、ようやく呟いた。けれどその声は、を安心させない。
「俺に買われようが別の奴に買われようが、こういう扱いをされていただろうな」
鋭い爪が伸びたまま、白い手が剥き出しの胸に重なった。手の一つすら、人間とは違う造りをしている。指先と手のひらには肉球があり、表面には柔らかい毛。素肌とはまるで違う感触に包まれ、ぞくりとすると同時に羞恥を感じた。
「あんたは、俺ではなく、最初500セスタで競り落とそうとしたあの男にこうされるのも、納得しているのか。買われたというだけで」
「そ、そんな、そんな事……あうッ」
ぐ、とルシフの手のひらが窄まる。爪の先端が埋まりながら握り込まれた片胸は、形を変えて収まっている。痛覚を感じ取り、の細やかな眉が歪む。
「一緒だろう。何が違う」
痛い、痛いよルシフ。上手く言葉が、まとまらない。震える唇からこぼれる声は全て不明瞭で、ルシフには届かない。
ソファーに膝をついたルシフの足が、ぐっと距離を詰める。捲り上がっているスカートから伸びたの足が開かれるように持ち上げられ、しなやかなルシフの腰に膝が当たった。
泣きたくなりながら、は必死に身を捩る。けれどその分、手首を捕える手は力を増した。それだけでは、呆気なくねじ伏せられてしまう。
「止めよう、止めようよ、ルシフ」
は、みっともなく懇願する。けれど返ってきたのは、怒りを滲ませたフーッと唸る鳴声と、脅すように見せつけられた剥き出された牙と爪であった。
あらゆる自由を奪われて暴かれる、の肉体の上。影を帯びた白猫が、獰猛に見下ろす。空と花の色を宿す綺麗なオッドアイも、今は焼け焦げた猛獣の炯眼にしか見えない。其処に映るはきっと、何の脅威にもならない獲物に等しいだろう。
ルシフのそんな声も、そんな姿も、見た事はなかった。人間とは異なるがゆえの、真っ向からぶつけられる獰猛さに、は身体を竦め震える。
望んだのは、自身。小さい頃の約束を果たしこれっきりにして、買われた身である事を忘れないよう徹する。そう望んだのは、間違いなく、であった。
けれど。
露わになった胸と腹を、押しあてられた爪の先端がサリサリとなぞり、肌を嬲る。優しさなどなく、ルシフの手が初めて恐ろしく感じた。どんなに外見は綺麗な白猫でも、しなやかでほっそりとした肉体でも、雄の獣人――獣なのだと。何故だか今になって、ようやく思い出した気がする。曖昧な夢心地にあったのは、やはり私の方だったのだろうか。は滲む視界の中に、獰猛な猫を映し出す。
下りてきた白猫の顔が、唸り声を放ちながらの首筋へと近付く。剥き出しになった鋭利な牙が向かう先は、何処か。考えるまでもなく、はきつく瞼を閉じた。これが買い主の側に居るという事なのなら、私は、甘受するべきなのだ。吹きかけられた息遣いの熱さに震えながら、訪れるだろう痛みを待ち構えた。
「――――こんな風にして、あんたを側に置きたかったわけじゃない」
混乱に陥った思考が、不意に鮮明に凪いだ。
の耳に聞こえたルシフの声は、打って変わり、静けさに染まっていた。感情を落とした冷徹な低音ではなく、落胆と悲哀を含んだ掠れた声。
覆い被さっていた獰猛さが、消失したのをは感じる。きつく閉じていた瞼を、はそろりと開いた。まなじりに溜まっていた雫の向こう、互いの息遣いが触れあうほどの距離にルシフが居た。牙を剥き出し唸り声を露わにした獰猛な獣は、火を消したように悲しそうに見つめていた。焼き切れそうだったオッドアイにも理性が戻り、三角の耳としなやかなひげが力なく垂れ下がっている。
攻撃的な接触が止み、は胸を上下させて呼吸を落ち着かせる。今、彼は何と言った。ルシフの呟いた言葉の意味が飲み込めず、ただ脳内で繰り返し響く。
ふと、綺麗に整った白猫の顔が動き、の顔の横へと下がった。ハッとなって息を詰めたけれど、首筋に感じたのは牙の痛みではなく。
ザリザリとした舌による、ぎこちない慰撫だった。
痛みに身構えていたは、思いもよらぬ舌先の動きに盛大に跳ねる。猫の舌は、人間と違いヤスリのような表面をしていて、面積も少なく肉感も薄いらしい。浮かび上がる首筋をなぞる感触は、不思議なものだった。けれど、獣らしい造りをした舌の動きは、全く暴力的ではなく、不快感どころか。
「ル、ルシフ……あッ」
握り込むような強さで片胸を掴んだ手のひらが、力を抜く。歪められた輪郭が元の柔らかい丸い形に戻り、それを白い指先がなぞった。くすぐられる感覚に肌が粟立ち、驚いてこぼれた声を噛む。不意に変わる仕草に、別の困惑が浮上した。
の頭の天辺でひとまとめにされていた手首も、拘束を解かれ自由になる。長い間ソファーに縫いつけられていたわけではないのに、痛いほどの圧迫感が無くなると手首には軽やかさが戻って来た。
戒めを解いたの細い手首を、ルシフはそのままの胸の前へと持ってゆく。その動作に、先ほどの馬鹿みたいな力や、獰猛さは無かった。ただ、懇願するように、首筋から離れた白猫の口が手首に重なった。呆然とその動作を追いかけたの視界に、己の手首に刻まれた痕を見つけた。赤く残る指の形と、みみず腫れの痕跡。鋭い何かで引っ掻かれたような。ああ、これはルシフの、爪の痕なのかとぼんやり見上げた。
何をするでもなく、ただ口元を寄せて重ね合わせた白猫は、息を吐き出した。己の愚かしさを唾棄するように、苦い声も混ぜて。
「……悪かった」
ルシフは掠れた声で呟くと、表情を歪めた。白猫の顔は、普段涼やかに澄ましているのに、から見ても分かりやすいほど苦しそうにする。何故、彼がそのような表情をするのか、分からなかった。
ルシフはの手首を開放すると、己で引き裂いた衣服を手早く直し、露わになっているの上半身を隠す。それから無理矢理引き剥がすように身体を退け、ソファーから立ち上がった。下りていた影がの目の前から無くなり、場違いな暖かい陽が注ぐ。
「……頭を冷やそう。俺も、も」
それでも、俺は――――。ルシフは何かを言いかけ、けれど告げる事を恥じるようにそれを飲み込むと、背を向けた。ほっそりとした腰の下から伸びる優雅な尻尾は、彼の心情を表すように力なく揺れていた。
ルシフが部屋を去ってから、は緩慢に身体を起こす。ソファーに広げられ乱れた蜂蜜色の金髪はそのままに、破かれた衣服を胸の前を掻き合わせ、のろりとソファーに腰掛ける。
部屋の中は、相変わらず静かである。いや、それ以上に、歪な沈黙で支配されている。窓辺に注ぐ陽の光の暖かさが、遥か遠くにあるようだった。
……間違っていただろうか、私が決意した事は。
薄ぼんやりとしながら、は項垂れた。
3000セスタで買われた身は、相応の振る舞いをしているべきだ。その考えは、ルシフに買われこの家に連れて来られたあの日から、どうしても消えなずの心に有り続けた。過去は互いに泥まみれで遊んだ仲であったけれど、今はもう地を這う者はだけで、野良猫はあんなに綺麗な白猫へと成長したのだ。あの夜会の日、そうであったように、ルシフの立つ場所との立つ場所は、もう。
そう思って、だから。
――――あんたが俺と、この家に慣れるまで待つつもりだった
――――こんな風にして、あんたを側に置きたかったわけじゃない
今も繰り返されているルシフの言葉の、その意味が分からなかった。ならどんなつもりで置いていたのだろう、なんて。それこそ、が責めようというのは筋違いだった。本心を言えていないのは、の方であるのだから。
ソファーに腰掛けて宙を見ていたであるが、ふと視界の片隅に映ったものを認め、腰を上げた。歩を進め、床に落ちたそれの側でしゃがみ、拾い上げる。
我ながら上手く作りあげた、青いストール。
間違った事は、きっと言っていない。の決意も、きっと間違ってはいない。
だけれど、ルシフがあんな顔をして、あんなに怒るなんて、思っていなかった。
ストールからごみを払い、胸に掻き抱く。ぺたりと膝を床につき、その場に座り込むと、小さく背を折り曲げた。
せり上がる嗚咽は、必死に口の中で留め、噛み締める。けれどきつく瞑った双眸からは、涙が出ていた。泣くまいと、声は出すまいとするほどに、余計に涙の粒は大きくなって滑り落ちてゆく。
昔の約束でけじめをつけて、今の契約を果たす、なんて。本心から思ってなかったくせに、よくも。そんな覚悟が出来ていたら、今こうして情けなく泣いていないはずだ。
が恐れ、望んでいたのは、最初から全部――――ルシフの側に、出来るものなら爪先を並べていたかったという、児戯のような想いだけだった。
「ルシフ……」
結局、は意気地なし、或いは、意地っ張りなのだろう。
文字にすれば楽だけど、告げるだけの勇気はない。そうして残るのは、3000セスタで買われた重みだけだった。
でも、本当は。
私だって、こんな風じゃなくて。
もっと別の形で、側に居たかった――――。
行き場の無くなった感情が、の噛み締めた嗚咽にじわりと染み出た。