11

 その日、ルシフは家を出たっきり戻って来なかった。
 あんな事――と言っても原因はのようなものだが――になってしまったのだから、仕方ないと思う。けれどその翌日も、その翌日も、はルシフの姿を見る事は無かった。
 恐らくはきっと戻っては来ているのだろうけれど、顔を合わせる事は無く、微かな気配にだけルシフの存在を見い出した。

 ぼうっとしていると余計に気が重くなりそうだから、掃除などは忘れずに行っている。けれど、余計に心の喪失感が増えて、気分が晴れる事はおろか紛れる事さえ無かった。
 本当に、文字通りの一人きり。
 最初の頃のそれよりも、ずっとを深く追い詰めるようだった。モノトーンを基調に静かな青を添えた内装も、上質な家具や調度品も、何故か使った形跡のない厨房も、陽の当たる窓辺とソファーも、全てにとっては《他人のもの》であったはずなのに。いつの間にか経過していた一ヶ月の間で、他人のもので無くなっていたらしい。慣れたというよりはきっと、ルシフの居る場所にこそ心を向けていたのだろう。
 そのルシフは、今何を思っているだろうか。牙を剥いて、爪を出して、オッドアイを焦がして激昂した白猫は、はたして。知りたいような、知りたくないような、曖昧な境地。が恐れているのはきっと、最初から其処なのだろう。

(自分でしでかしといて、この言い草)

 相手の事を知りもしないで、勝手に盛り上がって。本当、馬鹿みたい。は己の口元を手のひらで覆った。

 あの商家の当主に押し倒された時も、市場に売り飛ばされた時も、顔も知らぬ誰かに競り落とされそうになった時も。は、決して泣く事はなかった。意地でも泣いてやるものかと、気丈に振る舞っていた。それこそ、ここ十年来、涙の一滴さえ落としていない。
 けれど、今は。今だけは。
 本当は寂しくて独りは嫌なのだと、隠れて泣く事しか出来なかったいつかの少女の影が、の横顔に落ちた。



 めそめそしてもしていても仕方ないので、は気分転換に街の通りへと出向いた。賑やかな空気がの心を明るくさせてくれれば良かったけれど、とぼとぼと歩む足取りは重いままである。
 はあ、と溜め息をこぼすの背に声が掛けられたのは、それから直ぐの事であった。

さんじゃないか。こんにちは」

 足を止めて振り返ると、瞳を三日月のように細めて笑う茶トラの猫獣人が佇んでいた。親しみを抱かせるふくふくした猫の顔を陽が照らし、の心が僅かながら浮上する。

「シズ、さん」
「少しだけ久しぶりかな。こないだは店を手伝って貰ってありがとう」

 は首を振り、こちらこそと礼をした。シズは苦笑いの音をこぼし、の頭を見下ろした。

「計画は上手くいったかな、と聞こうと思ったんだが……あまり尋ねない方が良さそうだ」

 の酷い表情を見て、何かしらあった事はシズも察したらしい。よりもずっと年上の男性の声は、気遣わしげに響いた。

「ルシフもやけに……いや過去最高に荒んでいたし、二人とも大丈夫かい」

 は、思わず顔を上げる。ルシフに会ったんですか、なんてが尋ねるのは妙な話であるけれど、口をつき出てしまった。シズは曖昧に言葉を濁しつつも少し考え込むと、不意に両手をぽんと打ち、空気を変えるように明るく告げた。

さん、ちょっと其処までお茶しに行こう」

 三日月のように目を細めた茶トラの猫は、の返事を聞かずに連行していった。そのマイペースさが、今はとても、有り難く感じた。




「――――俺とルシフの付き合いは、わりと長くてね」

 通りを臨む喫茶店の、表に作られた席。冷たい飲み物が二つ届けられた後、シズはそう切りだして語り始めた。

「同じ猫の獣人同士って事もあるんだろうな。俺は他の奴よりもルシフの近いところに居る自信がある。だから、あいつの普段の評判もよーく耳に入るってものだ」

 あの若さで地面からのし上がってきた、期待の商人。けれど私生活では、親しい者であっても近寄る事を決して許さない、冷ややかな美しい白猫。
 人間から見たらどうか分からないが、同じ猫から見ると非常に完成された、所謂美形に属する青年であるとはシズの言葉である。確かにあの佇まいは美猫のそれであるとも思うが、それはさておき。

「……そんなルシフの行動が、一ヶ月くらい前から引っくり返るみたいに変わった時は驚いたもんだ」

 シズの目が、をしっかりと見つめた。

「良く言えば仕事人、悪く言えばずぼらなルシフが、マメに家に帰るようになった上に毎日上機嫌。一体あれは誰だって騒がれるくらいに、ルシフはここ最近噂話の種だった。色んな話が飛び交ったもんだよ。だけど、さんを紹介された時、直ぐに分かった」

 己の懐へ他人を入れようなどと決してしなかったあのルシフが、見知らぬ人間の少女を真横に置いている。誰にも触れなかった白猫の手のひらは、少女の腰を優しげに引き寄せている。
 その光景に酷く驚きながら、考えるまでもなく理解させられたものだ。どうやらここ最近のルシフの変化の根源は、この少女であるらしい、と。
 シズは小さく笑った。目の前に座るその少女――は、困惑の面持ちを宿している。

「……だけど、結構疑問ではあったんだ。ルシフの上機嫌とは正反対に、さんは……そうだな、温度差があったから」

 シズは言葉をぼかしたようだったが、の心情を的確に言い当てたような気もした。俯き加減だった肩がぴくりと震える。
 シズは一度冷たい飲み物で喉を潤すと、両腕を机の上に乗せに向き直る。がちらりと窺えば、ふくふくした毛質の茶トラが目を細めて笑っていた。年上だからだろうか、温かい安心感が彼から感じられ、緊張が抜けてゆく。意味も無く、は泣きそうになってしまう。

「どうだろう、お兄さんに話してみないかい?」

 誰にも言わないよ、勿論ルシフにも。
 シズのその優しい低音に、の心は一気に緩み瓦解した。最初の出会いから、現在までの経緯を全て、中身をぶちまけるように話し始めていた。そんなを、シズは止めず割り込まず、静かに最後まで聞いていた。


 そしてが全て話し終わった後、少しの沈黙を挟み。

「――――そうか、ルシフに、そうか」

 昔の友人でもあり恩人でもあるとはいえ、3000セスタという大金で競り落とされた事実。哀れむでもなく、軽蔑をするでもなく、シズは頷いていた。まるで腑に落ちたような、そんな仕草だった。

「そりゃ君とルシフの間に温度差も出るわけだ。納得した」

 シズは静かな声で告げると、一口飲み物を含む。それに習って、も喉を潤した。勢いのままに話し続けた喉に、その冷たさが心地よく伝う。

「あんまり、驚かないんですね」

 誰かに言えば心象を悪くするだろう衝撃的な告白であると、は思っているのだけれど、意外にもシズはそれほど動揺していない。まるで、以前から既に見聞きしていたように、ゆったりと構えている。
 の言葉を受け、シズは小さく笑う。「あれに纏わる噂話が飛び交っていたからな」告げた声は、年上らしい静けさが含まれている。

「その中には、ルシフがそういう良くない市場に出掛けた、なんて話題もあったような無かったような」
「そう、なんですか……」
「信憑性は置いといて、猫の噂話は地の果てにまで響くってね。君からすれば、あんまり嬉しくはないだろうけれど……ああ、大丈夫、猫の噂話は消えるのも早い」

 けれど、そういう色んな噂の中心に居たのが君だったらしい。シズはしきりに頷いている。
 温かな陽射しに反し、の心は陽気に緩む事はない。グラスを傾け、中の氷を揺らしてカラリと鳴らす。

「……私は」

 ぽつりと、は呟いた。

「誰に買われ、その後どうなっていたのか分からなかった事を思えば、あの場でルシフに買われて良かったと、それは本当に思ってます」

 けれど。消えず有り続けるのが、その《買われた》という事実である。

「出来ればルシフと、こういう形で再会したくありませんでした」

 そういう風に振る舞う方法しか思いつかなかったし、それを口にする勇気は無かった。結局、無理に通したら喜ばせたかったはずのルシフも、己の想いも、傷つけてしまっているのだからどうしようもない。
 どうすれば良かったんでしょう、なんてシズに尋ねても、彼を困らせるだけである。彼は苦笑いをこぼし「それは俺にも分からないなあ」と返した。そうだと思う、これはとルシフの事であるのだから、シズに問い解決する事はない。しょんぼりとの頭は下がった。

「だけど……話を聞く限り、さんが悪いとは思わないけどなあ。俺は」
「えっ?」

 予想外な擁護の言葉に、は直ぐ様頭を起こした。茶トラの猫は、目を細めたまま「だってそうだろう」と口を尖らせる。

「今の話を聞いてて、ルシフは大体何にも話してないんだってのが目に浮かんできたよ。それなのにさんがしょんぼりするっていうのも可笑しな話だ。多分一番の原因はルシフにあるような気がするよ、お兄さんは」

 シズはそう告げた後、少しの間考え込む。そして、よし、と一つ頷いた。

「アドバイスはあげられないけど……面白い話を聞かせてあげよう。どうせルシフは言おうとしないからな、俺がこの際、全部暴露してやる」

 面白い、話? 不思議そうに見つめるの前で、シズは悪戯っぽく笑った。

「ルシフっていう猫は、基本的に他人に心を寄せないし寄せ付けなくってなあ――――」

 人間から見ればあの雄は、毛皮を纏った獣頭というだけでどれも同じように見えるだろうけれど、獣人という種族の価値観においては、ルシフという白猫は非常に整った容姿をした雄だった。従って、同種族の雌の多くが彼に擦り寄るのは、往々に見られるものの一つでもあった。が、そのルシフときたら、言葉こそは柔らかいが棘に満ちた声でばっさりと一刀両断。商売の仕事の関係上でなければ話す事も近付く事も許されず、おかげで彼の身辺に異性の影はなく、あるとすれば線引きをされてもめげずに近付こうとする人物くらい。
 そういう少々難のある性格をしながらも、仕事に関してはやり手で抜け目なく、街では期待の商人とされていた。

 そんな、白猫の側に。
 あれだけ寄せ付けなかったはずの異性が、ある日ぽんと現れた。

 多くの者に衝撃を与えたのは、言うまでもない。無論その中に、シズも含まれている。
 一体どういう事かと殊更に騒いでいたのは、彼を取り込みたいと思う者達であった。感情薄く冷ややかな美貌の白猫が、ある日を境に急に機嫌良く過ごすようになり、おまけにそれまで有って無いような存在であった自宅に律儀に毎日帰るようになった。職場と自宅の区別のつかない、ずぼらなあの猫が、だ。薄っすらと漂う何者かの気配を、来る日も来る日も彼らは問い質そうとした。その都度、冷徹に冷めたオッドアイに一蹴され、知る事は無かったけれど。
 日に日に増すそんな声がさすがに鬱陶しくなったのか、ある日ルシフは不機嫌な声で告げた。今度ある夜会でその答えを教えてやろう。その代わり、今後一切俺の私生活には口を出すな、と。身内だけだったはずの夜会に、余所の商人までも食い付いたのは言うまでもない。
 そしてその通りに、好奇の集まる夜会へ彼は連れてきた。蜂蜜色の金髪とミントグリーンのイブニングドレスが日向のように眩しい、人間の少女を。
 あの冷徹な白猫が甲斐甲斐しくエスコートし、寄ろうとする者は全て目で威嚇。おまけに普段の棘のある仮面は何処に行ったのか、その少女の前だけでは感情豊かに楽しそうにしていた。しかも、多くの者達の目に触れるところで、少女の足に尻尾を巻きつけて。

 それだけで、多くの者は黙る他なく。特に、同じ獣人の種族達は、何を言うでもなく理解したと云う。
 あのルシフという白猫にとって、あの少女はよほど――――。

「……夜会の最中のは、勿論人伝いで聞いた事だけども。あの時――ドレスを用意してくれと頼まれた時、実は凄くびっくりしていたわけよ」

 シズは悪戯な笑みを深めた。

「ああいう集まりは、仕事で無ければ極力出たがらないような面倒くさがりだっていうのに、その子が居るってだけで俄然気合いが入ってた。一体どうしてだと、俺も尋ねた事が実はあった」

 その時、何て答えたと思う? 細められた眼差しと共に掛けられたシズの問いかけに、は何も言えないでいた。

「あの子が喜んでくれたら嬉しい――――だとさ」

 グラスの中の氷が、カラリ、と揺れた。の思考が、一瞬白く染まった気がした。

「後は……ああそうだ、さん、前に不思議がってただろう? 氷の商人とか匂い付けとかって何だって」

 は緩慢に頷いた。結局ルシフはそれらの意味等を、決して明かそうとしなかった。そんなに言いたくない事なのだろうかと思って、も深く尋ねる事はしないでいた。シズは一度、思い出し笑いをするようにぷっと口元を緩めた後、話し始めた。

 あんな風貌であるし元から目立つ存在ではあったが、特に名前が広まるきっかけになったのはとある出来事が起因しているらしい。
 とある地のとある街に、それなりに立派なさる商家があったそうな。けれど、その実態は商人の心得を失った栄華に縋るだけの評判の無い商家。後から聞けば、特にその当主は下半身に節度のない好色家として有名だったそうだ。そんな家が、たった数日の間に没落した。潰えた事に関して惜しむ声は全くと言って良いほど無かったが、そのきっかけとなる綻びを生み出したらしい人物には注目が向かった。直接的に表立って動いたわけではない、けれど見えないところから容赦なく埃を叩き出した手腕は、同業者達を震撼させたとか。
 そうして、その人物に付けられた渾名は、《氷の商人》。外見こそは優雅な冷ややかな白猫、ルシフその人の名である。

 語るシズの言葉が、遠くで聞こえる。とある地の商家。節操のない好色の当主。覚えの有り過ぎる単語に、はまさかと何度も反芻した。

(もしかして、あの商家?)

 下働きとして働き始めた初日、の毛色をハタ迷惑にも気に入って寝室に連れ込んだ、あの男。股間を渾身の力でけり上げた正当防衛によほど怒り心頭だったのか、市場にを突き出した、人でなし。
 ルシフの家に連れられ目覚めた初日。事細かくその経緯を告げた時、意味ありげに笑っていたルシフの仕草がふと思い起こされた。いや、確かに彼はあの時、同業者として付き合いたくないとは言っていたし、も恨みはあったから名前から所在地など出来得る限りの情報は伝えていた。けれど、まさか、彼はあの後。
 全く考えてもいなかった事実に、はさらに混乱した。だって、それではまるで。

「極めつけに、匂いつけと尻尾だ。並々ならぬ本気と独占欲が漂ってるよ、あいつの行動は」

 ぴくりと、の肩が跳ねる。本気と、独占欲? 不思議そうに見やるへ、「獣人特有の行動だから知らなくて当然だよ」とシズの笑みが向けられる。

「尻尾を絡めるのも、他人に自分の匂いを擦りつけるのも、全部――――」

 そう言いかけた、時だった。
 にこやかに語るシズの声が突然止まり、ふくふくした茶トラの猫の顔から笑みが消える。シズの視線はから外れ、代わりに通りへと向けられる。まるで敵か何かでも見つけたような変化に、もそれに釣られて視線を動かした。
 直ぐ隣に、華奢な少女が佇んでいた。可愛らしいかんばせに似合う、可愛らしい洋服を纏い、まるで花みたいな雰囲気。あの少女は、確か。

「ルーアか。何か用か」

 シズは、少女にそう声を掛けた。少しだけが驚いたのは、シズとあの少女――ルーアが知り合いであった事だった。
 彼女は、何処か不満そうに表情を歪めており、不機嫌さがありありと浮かんでいた。さらに言えば、その不機嫌な眼差しを一心に注ぐ相手は、どういうわけかであった。

「……こんにちは、先日はお世話になりました」
「あ、いえ……こちらこそ」

 はルーアへ向き直り、ぺこりと頭を下げる。とはいえ、友好的なものが薄いので、温かだった空気が冷めてゆくように感じる。

「で、何か用だったのか? ルーア」
「ルシフに会いに行った、その帰り。知っている顔があったから、つい立ち止まっただけよ」

 ルシフへ、会いに。ほんの僅かに、の心が揺れた。けれど、シズは肩を竦めルーアへ言った。驚きと、呆れの混ざった声だった。

「あの過去最高に荒んでるルシフに会いに行けるとか、さすがまあ、ルーアだな。遠戚とはいえ、身内の俺も恐れ入る」
「……」
「まあどうせ、早々に追い出されただろ。今のあいつは、多分誰も近づけないさ」

 え、遠戚? シズさん、そういう関係だったの。全く想像のつかなかった二人を、は交互に見比べた。そういえば夜会の時に、ルシフは確か「遠戚に猫の獣人が……」と言っていたような気がする。見事に血縁関係が顔や姿に現れていない。世間は狭いらしいが、それはさておき。
 衝撃事実が続いてぼんやりとするに、今もルーアから鋭い視線が浴びせられている。その目は恋敵を見るものだと、さすがのも分かる。

「……あんなルシフ、初めて見た」

 小さな唇をきゅっと噛んで、ルーアが呟いた。

「いつも優しかったのに、貴方が来てからルシフは変。ねえ、何を言ったの。何をしたの彼に」

 ルーアはへと数歩進み出た。まるで挑むように近付いてくる気配に、ほとんど反射的には椅子から立ち上がった。ルーア、と小さく呟いたシズも同様であったが、そのルーアはを真っ直ぐと見上げている。その瞳に、が答えてあげる事は出来ない。ただ困惑したじろいでいた。

「人が大勢通っているだろう。あんまり荒げるなよ」

 シズはゆったりと、ユーモアのある口調で宥めた。けれど、宥められたた余計に一層勢いを増し、に詰め寄る。

「だって、だってルシフ、この前の夜会の時なんて、見た事のないルシフだった。私がどれだけ頼んだってエスコート役をしてくれなかったのに、この人には」
「おいおい、急にどうしたよ。落ち着けって」
「だって! それなのにこの人、何にも分かってないように見える!」

 ルーアの叫びが、耳を打つ。通りを行き交う人々が何事かと、視線を達へ向け始めた。キッと鋭く光らせる瞳を正面に見ながら、はやはりぼんやりとしていた。

「少しだけ聞こえたけど、獣人の匂いつけとか尻尾とか、さん知らないんでしょ。知らないから、そんな風にしていられるんだわ」

 ルーアの瞳を見つめ、は気の抜けた声のまま、尋ね返してしまった。

「貴方は……知っているの?」

 その問いかけは、恋する少女――勿論推測であるけれど正解だろう――に対し、無意識とはいえ盛大に喧嘩を売り付けてしまったらしい。今以上の油を注がれ、ルーアの頬が赤く染まり歪む。

 ルーアは、細く小さな手を不意に机へ伸ばすと、ガシリと何かを掴む。隣のシズが、ギョッと目を剥いて真ん丸に瞳を見開いた。
 そして、次の瞬間。
 の顔面に、冷たい水が浴びせられた。パシャン、と弾けた水音が聞こえた。

「猫の獣人が匂いをつけるのも尻尾を巻きつけるのも、特別な相手だけ。馬鹿にしないでよ!」

 ぽたぽた、と雫が金髪を濡らし、肌を落ち、地面に滴る。唇の上に乗ったそれをおもむろに舐めると、それは丁度先ほど飲んでいた飲み物である。少し甘めの、冷たい紅茶。ああ、これはどうやら、考えるまでもないらしい。は己の身体を見下ろす。衣服が、飲み物の赤い色に染められてゆく。歪な水玉模様が、じわじわと広がっていた。
 恐らくきっと、以上に慌てたのはシズだったのだろう。突然始まる女のバトル(は一方的に喧嘩を押し付けられただけだが)を前にし、真っ先に手を出したルーアを取り押さえに掛かった。さらに叫び出しそうな小さな口を手のひらで覆うと、がしりと抱えて身動きを封じる。その俊敏さが、妙に獣人という種族を納得させた。
 あちゃあ、せっかくの洋服。それに、こんなに人の多い通りで。
 はそんな事を思いながら、ルーアを視界の片隅に見た。彼女はまだ怒っているようだが、はそれに対してやり返そうとは思わない。子どもの癇癪だ、ちょっと悪戯が過ぎた程度のものと思えば何て事はない。飲み物をぶっかけられた程度で吹き出す怒りも、持っていないつもりだ。
 ……と、いうよりは、今のがそれに構っていられない状況であった事が一番大きい。

 は、全く動けなかった。思考も、身体も、グラグラとしている。それまで在ったものが、根本的から揺れ動かされるような感覚がした。

 猫の獣人が、匂いをつけるのも、尻尾を巻きつけるのも。

 ルーアの言葉が、の脳内で巡る。聞き間違えだろうか、都合よく脳内変換してしまっただけだろうか。
 呆然としているに、シズが耳打ちした。腕の拘束から逃れようとするルーアを取り押さえたまま、彼は申し訳なさそうに呟いた。

「すまない、わがまま娘がとんでもない事」
「いえ、これぐらいは、別に……」

 紅茶が伝う頬を手の甲で拭い、はシズを見上げた。

「あの、今のは……」

 ルーアが口にした言葉は、真だろうか、それとも嘘だろうか。縋るような境地で、はシズに尋ねた。彼は苦笑いを浮かべると、「本当はこんなドタバタした状況で、ルシフも明かされたくなかっただろうけど」と前置きし、小さく告げた。
 語られるシズの言葉を、は愕然と立ち尽くし、何とか耳に入れるしか出来なかった。

 人が行き交う往来をこれ以上騒がせてはならないだろうと、結局そのままはシズとルーアの二人と別れ、帰路についた。顔面から紅茶を掛けられた上に、折しも衣服は滲む紅茶がよく目立つ白。は特に何もしていないが、単純に歩くだけで視線を集めてしまっている。けれど、はそれを気にも留めていなかった。シズより語られたものはどれも衝撃的であったが、最後のそれは一際だった。

 獣人にとって、匂いつけとは。
 その中でも猫の獣人が取る、尻尾を巻き付ける行動は。

 薄ぼんやりと霞むの脳裏に、オッドアイの美しい白猫が浮かぶ。涼しげな面持ちで、尻尾をゆるりと立てる優雅な姿。さらさらした肌触りの、あの綺麗な長い尻尾は、これまで何度もの足に巻き付いていた。



 其処からは、の意識はほとんど無かった。いつの間にか移動していた街中の風景はなく、気が付いたら家に到着していて、ソファーに座っていた。着替える事もなくぶっかけられた紅茶をそのままに、全身から香りを放ちながら。
 放っておいたら、染みになっちゃう。紅茶でべたつく髪よりも服の心配をし、はのそりとソファーから立ち上がった。

 何の前触れもなく、玄関の扉が蹴り破られたのは、その時である。

 今まで聞いた事のないとんでもない音を響かせた玄関から、同じくらいとんでもない足音が響き近付いてくる。これほど乱暴な音を聞いた事が無かった、なんて他人事のように思うの前に、玄関を蹴り破ったであろう人物が現れた。
 仕事着に身を包んで、今日も今日とて絵になる美猫。けれど、珍しく息を切らして酷く慌てた様子を見せている。普段の涼しげな落ち着きは、何処へいったのだろうか。はぼんやりと、大股で近づいてくるルシフを見上げる。

 ……ルシフ?

 はたと、は瞳を瞬かせた。何故ルシフが此処に居るのだろう、仕事のはずでは。尋ねようとして口を開き掛けたところで、先にルシフの腕が伸びた。白い大きな手は、の丸い肩をしっかりと包み込み、自らの側へ引き寄せた。紅茶でべたつく金髪と頬、衣服を見下ろし、途端に不愉快そうに鼻を鳴らす。見上げるオッドアイには、不機嫌な翳り。けれどそれは、に対してではないようだ。

「……獣人に喧嘩を売るとは、いよいよ良い度胸をしてる。あの我がまま娘」

 荒っぽい言葉を吐き出しながら、反してルシフの白い指先はの頬を撫ぜた。さらさらの毛を纏う指先は長く、爪の鋭さもなく柔らかい。何処か呆然としながら、は幾日ぶりにルシフと言葉を交わす。

「……ルシフ、仕事は? どうして、家に」
「仲間から直ぐに俺のところに伝わった。でもそんな事は、今はどうでも良い」

 ルシフは言いながら、頭を垂れた。ぴんと立っている白い三角の耳が、らしくもなく下がっている。

「……俺が言う資格は、ないけど、他に何かされたか。紅茶を掛けられただけか」

 なぞる指先が、乾いてべたついた紅茶を拭い取ってゆく。汚れるよ、と小さく制したの指先までも、ざりざりとした舌で掠めていった。びくりと震えるに何を思ったのか、彼は悲しそうに暗く瞳を翳らせる。先日の件だろうか。悪かったと、吐き出した細い吐息が言葉なく告げた気がした。

「……俺の面倒な人付き合いに、これ以上あんたを巻き込むつもりはない。我がまま娘は、俺がどうにかしておく」

 ぼんやりとするへ、ルシフは言葉を重ねる。ぎこちなく、気遣わしげに、恐らくきっと本当に不器用に案じているだろうとはも分かった。
 けれど、今最もが気にしているのは、其処ではない。
 頬をなぞる指に、肩を包む手のひらに、見下ろす双眸に、は半ば呆然としていた。今、思う事ではないかもしれない。けれど、今になってようやく、気付いた。涼しげに落ち着いているはずの白猫の横顔が、心配そうに歪んでいる。何故、何に対して。過去最高速度で巡る思考が、の全身に不可解な熱を運んで、そして。
 ようやく、も気付いた。


 が使用人として振る舞うと、どうして怒っていたのか。

 一緒に夜会に連れていって、あんなに喜んでいた理由は。

 大金で競り落としておきながら、あれほどの自由を許したのは。

 専門外のところの裁縫道具だけでなく、衣食住までも全て揃えてくれたのは。

 いや、そもそも。
 どうしてを、大金を出してまで買い、側に置いているのか。


「……?」

 今まで、ルシフが何を考えているのか分からなかった。だからこそ、はその意図を測りかね、せめて自分が出来る事はこの場所で買われた事実を全うするだけであると、期待などせずに思っていた。そうして頑なな心は余計にルシフの姿をぼかして、も明後日の方向へ向かって進んでいた。
 なのに。今は――――。
 ふと、違和感を感じ、は視線を下げた。長いスカートから現れているの足首に、巻き付くもの。長く優雅な白色がやんわりと絡まり、何処か弱々しく窺うような仕草で器用になぞっている。下手したらの髪よりもさらさらとした、柔い尻尾だ。
 を見下ろすルシフ自身は、何も言わない。以前ならば「もう」と思って困りながら受けていたけれど、今は違う。脳内で響くシズから耳打ちされた言葉が、本当であるのならば。ふわりと巻き付く尻尾を見下ろしたままのの顔へ、カアッと熱が集まった。

「どうした、。やっぱ何か……」

 染まる頬を隠すように、は口元を覆う。ぎゅっと引き結んだ唇まで熱く、知った途端感情が一気に騒ぎ始めた。身の内のざわつきに、自身もどう言えば良いのか分からず、意味も無く溢れる感情の奔流を必死に抑える。それでも、やっぱり思うのだ。
 は、赤く染まる伏せた顔を起こし、口元を覆っていた手を外す。驚いたように目を一瞬丸くしたルシフは、反射的だったのか、の丸い肩から手のひらを思わずといった風に離した。けれどそれを許さず、は無言のまま両手を伸ばした。今度はの細い指が、ルシフの服を掴んだ。獣人と比べればきっとその力は片手で振りほどけるものだろうけれど、逃げないようにと縋る手を、ルシフは困惑した様子で見下ろしている。
 猫の頭部を持つルシフに、人間のような明確な表情の変化は無い。相変わらず整った、美猫のそれだ。だけれどそれを見上げていたら、何故だろうか。抑え込んだ感情が、さらに溢れそうになる。堪えていた細やかな眉や、赤い頬が、くしゃりと歪んだ。
 滲む視界の先で、オッドアイ――あの時から変わらない、青い空と、黄色い花弁の色――が、驚いたように見開いている。

「……言ってくれなきゃ、分からない」

 ようやく呟いた言葉と共に、の瞳から涙が一滴伝い落ちた。



 ――――獣人は鼻が良い種族だから、匂いつけって言って、番や好いた相手に己の匂いを移して自分の物であると周囲に示す事がある


 ――――猫の獣人は他にも、尻尾を相手に巻き付けて愛情を告白する。よほどの相手じゃなきゃ絶対にしない行動だ


 ――――さん、俺から見てもルシフは今まで、結構な独占欲を見せていたと思うよ



 シズの耳打ちしたあの言葉が本当であるのなら、最初からルシフは、に叫んでいたのだろうか。
 を好いて求めているという事を、野良猫らしく、不器用にも。
 口では決して言わなかったその心を、他のところで雄弁に、ずっと示していたなんて。溢れ返る感情の奔流は、全く知らなかった己の恥じらいか、それとも同じくらいに意地っ張りで愚かな野良猫への怒りか。

 言ってくれなきゃ、分かるわけない。
 
 はルシフの胸にしがみつき、どうして、と嗚咽を漏らした。足首に巻き付いている尻尾は、困惑しているような動きをしているのに、決して離れない。優しく包まれる足首が、ふわふわと温かくて。それが余計に、訳も分からず流れる涙の勢いを煽った。



次話から、これまで出してこなかったルシフの本気(独占欲)が表面化します
(ようやくー!)