12

 地を這う泥まみれの野良猫が、もう一度恋をした。
 ただ、それだけだった。




 シズの店の扉には、休業閉店のプレートが下がっていた。だが、扉から少し離れたところに立っても、店の中からは話し声――言い合いとも呼ぶ――が聞こえている。不愉快な甲高い騒がしさ、シズの声ではない。
 シズは猫だが、世間一般の猫感が妙に薄い人物だ。やはりそのまま放っておく事はせず、自分の側に一度避難させたらしい。家だろうが人前だろうがどちらでも構わなかったが、これ以上の醜聞が広まるのを防いでくれたのだろう。シズには感謝の意を示し、もう一方には取り繕うのを止めた怒りを向ける。どうせ鍵が掛かっているだろうからと店の裏口へと向かい、扉の取っ手へ手を重ねた。
 ルシフは裏口の扉を、蹴り破る勢いで開いた。
 強盗よりも派手に押し入り、そのまま躊躇い無く廊下をズカズカと進む。商品の並ぶフロアには人影はないので、其方へは向かわず廊下を曲がり、作業部屋へと更に押し入った。
 はたして其処には、店の主シズと、獣人に喧嘩を売りつけてくれた少女――ルーアが居た。
 自身がどういう顔をしているか自覚はしているが、見た途端に顔をひきつらせたシズを窺う限り、自覚以上の面構えをしているかもしれない。が、己の顔などどうでも良く、ルシフは気にせず口を開く。

「穏やかに戸を叩いても出てきては貰え無さそうだから、失礼ながら勝手に入らせて貰いましたよ。シズさん」

 努めて穏便に話したつもりだが、シズの顔は安堵せず引きつっている。

「いや、ルシフ、えーとだな、これは」
「猫の噂は地の果てまでも、てね。庇う気持ちも分かりますが、ちょっと話をさせて貰いますよ」

 要約すると、「話はもうバレてるから。邪魔しないで下さいね」である。全く友好的ではない冷笑を浮かべると、シズは仕方なさそうに息を吐き出し、数歩退いた。悪いねシズさん、ほとんど他人とはいえ親戚に属する貴方には申し訳ないとは思うけれど、今回ばかりは。
 ルシフは改めて礼をし、視線を戻す。細く華奢な少女はルシフを見るなりバツが悪そうに身動ぎをしたけれど、挑むような瞳は衰えていない。自信があるのだろうか、自分は害されないと。

「ごきげんよう、ルーア嬢」

 全くご機嫌でない声で告げれば、小さな肩が跳ねた。けれど、様々な人と会う機会が多いだろう豪商の孫らしく、怯えは見せない。あくまでも表面的には、だろうが。

「ルシフの方から会いに来てくれるなんて、久しぶりね。いつも私が会いに行ってるから」
「そうでしょうね、街に来たばかりの頃は貴方のお爺様にお伺いを立て、孫娘様の機嫌も取らなければなりませんでしたから」

 個人的な意味で会った事はないと明け透けに告げると、ルーアは一瞬驚いたように表情を変える。そんな風に物を言うのは、ルシフもこの時が初めてであったからだろう。ルーアは僅かに困惑した後、悔しそうに唇を噛んだ。
 随分と感情がボロボロ出る、商人として育てていない事がよく分かる。ルシフは冷ややかに、少女の頭を見下ろした。

「……さんに往来で声を荒げた事、言いに来たんでしょう?」

 不満げな声に、罪悪感はない。謝らないから、と呟くルーアへ、ルシフはふっと嗤う。

「勘違いされているようですが、別にそれについて私は何も言いませんよ」
「えっ?」
本人も、往来でかいた恥は恥と思っていないようで、気にしていないですし」

 紅茶ぐらい何よ、そんなの気にする私と思ってるの、とは店に来る前のの言葉である。妙なところで剛毅な彼女は気にした風もなく、むしろ些末な事とばかりに己の胸へしがみついていた。涙と共に溢れる感情を湛える、泣いたかんばせ。不意打ちの行動に驚くと同時に、反則的に可愛かった。
 いや、それはさておき。

「女の争いにあれこれ口出ししませんよ。余計に話がこじれると相場が決まっています。私が此処に来たのは、私個人に売りつけられた喧嘩を買う為です」

 ルーアは素っ頓狂に目を丸くした。見守るシズはというと、ただでさえ引きつっている顔をさらに引きつらせる。その表情を片隅に認めつつ、ルシフは持参してきた袋を近くの机へ置く。

「喧嘩って、何の事……」

 袋から物を取り出す作業の傍らで、ルーアに言葉を返す。

「シズさんが遠戚に居るのだから、獣人の性質くらい知っていますでしょう。あれほど周囲に分かりやすく牽制していた私に対する、十分過ぎる挑発だ」
「私は別に、そんなつもり」
「そうでしょうか? 分かっているのでしょう、獣人の匂いつけと、尻尾の意味くらい」

 その二つを告げた途端、ルーアの眼差しに怒りの類が滲む。それを浴びせられるルシフは、何一つとして慌てる事なく冷静に分析した。これはただの子どもの癇癪だろう、自分の思い通りに行かない八つ当たりに近い、と。

「……どうして、さんなの?」

 ルシフは瞳を細めた。

「私が、私の方が、ずっと長いじゃない。今のルシフを知っているのは、私の方だわ。なのに突然、横から……!」

 突然、か。ルシフは大きく音を立て溜め息をつく。
 何も、突然の事ではなかった。《周囲に見せなかった》だけで、ルシフはこれまでずっと――――。

「今の私とは、仰る意味が分かりかねます。今も昔もさして変わらず、意地汚い野良猫ですよ」
「ッそんな事ない! ルシフは綺麗な白猫で、今は……!」
「――――いいや、知らない」

 きっぱりと、言い切った。あまりにも淀みなく否定された為か、ルーアの声が詰まる。

 青色と金色のオッドアイを持つ、純白の猫。その容姿が非常に見目の良いものであると、地面からのし上がる過程で自覚している。さらに言えば、人はその容姿によって心象の善し悪しを決めるという事も。だからルシフは、それを武器にした事もあるし、今も影響力のある元豪商の老人の孫娘にも相応の振る舞いをした。もっともそれはルシフに限った事ではなく、誰であってもそうするだろう。
 だが、本当に育ちの良い優雅な猫であったならば、此処まで狡猾な手段を取ろうとはしないだろう。一体何処が綺麗な猫か、ルシフは己を嗤った。
 例えそうであったとしても、ルシフを泥の中から這い上がらせてきたのは。


 ――――ルシフがのらねこなら、はざっそうになるもん!


 ふっと、ルシフは小さく笑った。ルーアへ向ける冷笑ではなく、陽だまりのような温かい笑みを。

「……ルーア嬢、貴方には申し訳ないと思っていますが、それとこれとはまた別問題です」

 袋の中の物を全て机に並べる。それは、此処に来る途中で買っておいた、冷たい珈琲だった。

「周囲に明らかな知らしめを行う獣人の牽制を、堂々と貴方は踏み越えて手を出した。夜会の時、に近付いた件は気付いていないふりをして差し上げましたが、そもそも一度目を許すほど本来獣人は甘くない」

 ルーアの細い肩が揺れる。まだ幼い少女らしく、実に頼りない細さが見える。人間であれば、可哀相だ、あまり強く言わないであげよう等と思うところなのかもしれないが、異種族である獣人には通じない。その血に人の理性も持つとはいえ、本性は獣だ。
 ルシフが冷徹に見下ろすと、その隅でシズが必死の形相で訴えているのが窺えた。恐らくあれは、落ち着け、滅多な事はしないでくれ、とでも言っているのだろう。容易に想像のつく顔だ。
 心配しなくても、わざわざ要らぬリスクを背負う気はない。
 例え所構わず八つ当たりをする少女であったとしても、未だ影響力のある豪商の孫娘。手を出せばルシフの方が評判を一気に落とす。何の為にこの地位を獲得したのか。回避すべきところは其処である。

 ――――だから、ルシフは珈琲を大量に買ってきた。

「……傷をつけるのは、あまりに簡単な話です。その為の、牙と爪だ。ですが、孫娘様に何かあったとなれば、世話になったお爺様を裏切る事になる」

 暗にお爺様への義理のみを果たすと含みながら、ルシフは机に並べた珈琲のカップを取り、蓋を外した。ついでに、袋から取り出した全てのカップも同様にし、中身が見えるようにしておく。何をするつもりなのかと、ルーアとシズの視線が困惑で揺れた。

「仕方ないので――――これが私なりの《報復》として下さい」

 ルシフは、珈琲のカップを己の頭の天辺へ掲げた。

「お、おい、ルシフ」
「シズさん、床が汚れてしまったらすみません」

 ギョッと目を剥いた茶トラの猫と、その手前に佇む少女のかんばせに、まさかという予想が過ぎる。まあこの状況から、次に何をするのか考えるまでもないというものだろう。
 ルシフは瞳を見開かせる二人の先で、何の躊躇もなく手にしたカップ傾けると――――頭の天辺から、躊躇い無く珈琲を浴びた。
 途端、部屋に満ちてゆく豊潤な香りとは裏腹に、空気はもう二度ほど冷えて固まった気がする。

 ……ふむ、思ったよりもあんまり色がつかないな。

 衣服は吸い込んでゆくが、自前の白い毛は珈琲を弾く。一杯だけではやはり駄目だったらしいと、ルシフは自身を見下ろし冷静に考える。空のカップを置き、また別のそれを持ち上げた。
 弾けたように、ルーアが慌てて縋った。

「な、なに、何してるのルシフ!」
「何とは、これが私の思いついた方法ですが」
「だ、だからって……キャッ?!」

 さらに二杯目を被ったルシフを見て、ルーアは小さく悲鳴を上げ肩を竦める。シズに至っては、呆然とするばかりである。
 いきなり目の前で、自ら珈琲という色のついた水を頭から被る奇行を見せられれば、慌てるか呆然とするかの二択しかないだろう。それまであった緊張に凍える空気が、別のものにすり変わっていったが、ルシフは己の行動を止めようとはしない。
 三杯目、四杯目と、続けて珈琲を浴びる。珈琲の五杯目を浴びたところで、ついにルーアが小さな手を伸ばして止めに掛かる。その時には、ルシフの柔らかく白い毛皮は珈琲を吸い取り、首周りから上がその色に染め尽くされ、べしゃべしゃに濡れていた。
 ルシフは特に、何も感じなかった。あえて言えば、懐かしさだろうか。
 昔は、もっと酷かった。もっと薄汚く泥まみれで、おまけにきっと獣臭かった。あれを思えば珈琲なんて良い匂いだ、前衛的な香水とでも思えば別段苦にもならない。が、この行動は、存外にもルーアには効いているらしかった。

「止めて、止めてよ、綺麗な白い毛なのに、どうしてッ」

 混乱のあまり、涙声だった。よくよく見れば、可愛らしい瞳は涙が滲んでいる。
 それなりに長い付き合いである事は、ルシフも自覚している。この街で活動するようになってから、彼女の顔は事あるごと頻繁に見ていた。単純にお気に入りの猫だけでなく、浅からず想われている事にも気付いている。
 けれど残念ながら、今もルシフの胸中を占めるのは、ルーアの存在などではない。

「――――悪いな、お嬢ちゃん。俺は所詮野良猫だから、こういうやり方を平気で取るよ」

 彼女が真っ先に惚れたであろう白い毛を汚し、言葉を崩し、ある意味本性を見せて突き放す。彼女の中にあるだろう、街にいる間に創られた優雅な言葉遣いの白猫像を、この瞬間躊躇なく砕いて見せた。
 止めるように伸ばしてきた細い腕を、やんわりと払う。青ざめた少女のかんばせに浮かぶ感情は、何だろうか。興味は無いが、出来れば今後近付いて来なくなる類のものであれば好都合だ。

 何の問題があっただろう。孫娘様の汚点にはならず、爺様の地位を貶める事もない。ルシフの醜聞にはなるかもしれないが、商売の仕事を妨げるほどのものではない。

「言いふらしたければ好きなだけ言って回ると良い。どう叫ぼうと、この際俺は構わない」

 ただし。
 ルシフは珈琲で濡れた頭を下げると、ルーアの正面で呟いた。

「……あの子は――は、何があっても絶対に手放す気はない」

 あれの全ては、俺のものだ。出しゃばるなよ、小娘。

 人とは根本的に異なる、獣の獰猛な気配を剥き出しに曝す。
 長くは無いその言葉に、ありったけの激情を織り交ぜて告げたルシフの声は、牙を剥く獅子に近かった事だろう。
 正面から浴びせられたルーアの足元は震え、ぺたりと床に座り込む。それを感慨深くもなく見下ろした後、ルシフはシズへ向き直って改めて頭を下げる。

「すみませんでした、シズさん。お詫びにはなりませんが、余った珈琲は全部置いていきます」

 机の上には、全部浴びる気で開けておいた珈琲のカップが五つ並んでいる。

「……お、おう。お前さん、結構思い切った事をするな」

 呆然としているが、何処となく感心するような響きを乗せてシズは呟いた。
 ぶち切れた獣人がどれほど危険かは、同種族が最も知るところだろう。場合によっては相手の喉笛を噛み千切る事もあるので、それを思えば、どれほど穏便に済ませてやったか感謝されても良いくらいだ。
 ルシフは珈琲で濡れた耳を一度跳ねさせると、先ほどの獰猛さを引っ込めて笑ってみせる。けれど、情けなくも思う。本人が居ない場合には、こうも上手く出来るのに。どうしていざ本人が目の前に居ると、全く頭が働かず無能と化すのか。

 多分きっと、先ほどの言葉を言ってあげれば、あの子を泣かせずに済んだのだろう。

 獣人と人間は、文化も生き方も違う。知っているにも関わらず、二種族の差異を埋めてあげられなかった。やはりこういう変に意地と見栄を張るから、結局ルシフは野良猫のままなのだろう。
 苦く思うルシフの脳裏に、彼女の姿が浮かぶ。蜂蜜色の金髪と明るい茶色の瞳を輝かせる、陽だまりのような少女。粗末な恰好をして無邪気に笑う過去も、成熟する途中にある危うげな魅力を放つ現在も、その姿を思い浮かべるだけでルシフの心は解けてゆく。


 この数年間、いや十年間。
 本当は一度だって忘れず、探し続けていた事を、明かしても良いだろうか。


 、と声なく呟けば、甘い歓喜と飢餓感が、野良猫の喉の奥に混ざり絡まった。


◆◇◆


 ――――早い話が、要するに。
 ルシフは《最初》からの事しか考えていなかった。

 浅からず想ってくれていた恩人の孫娘に啖呵を切ったのも。
 出来れば行きたくもない夜会に参加したのも。
 全くの専門外だった裁縫道具を駆けずり回って揃えたのも。
 存在意義がわりと無かった自宅に、ひとまずは家政婦と納得させて置いたのも。
 さらに言ってしまえば――――あの市場で競り落としたのも、果ては商人になったのも、全て。
 の為であり、同時にルシフ自身の為であった。


 とある街の、開発途中とは名ばかりのスラムに生まれたルシフには、物心ついた時には既に親というものが無かった。猫という生物の性質だろう、己の境遇を不幸と思った事はなく、日々を苦に感じた事もそれほどなく、同じ年頃の仲間と一緒に遊びのらりくらりと過ごしていた。
 だが、人間と違い、獣人は早熟する。身を置く環境の厳しさも相まって、ルシフは世間一般の十歳にも満たない子どもの内から知っていた。自分はこの場所に染まり、抜け出す事などないだろう、と。
 それを裏付けるように、ルシフの身なりはますます汚れてゆく。自前の毛皮がその色だったと彼自身も思いこむほど、何時の間にやら野良猫に相応しい風貌になっていた。

 けれど、ルシフのその将来を変えたのが、とある孤児院の外で泣いていた女の子だった。

 郊外の孤児院に限らず、そういった施設は大抵浮浪児に優しい。食うに困った時はか弱く振る舞っておこぼれに与る、それがルシフのやり方だった。その女の子に出会った時も、丁度そんな時である。
 建物の外の人目のつかなそうな壁際で、めそめそとうずくまり泣いている少女。雰囲気は鬱々しているのに、明るい金髪がとても眩しかった。スラムにはなかった色だった事もあるのだろうか。
 最初はきっと、興味か好奇心だったのだろう。自分とは違い、親の記憶があって、親が居なくなって悲しいと思える少女の心が、何となく面白かったのだ。もとから記憶もないと、そもそも親って何だろうなぐらいの感情しか持ち合わせていなかったから。一時の気まぐれで、少女と知り合い、名前を交わした。
 ただ他よりも早熟しているとはいえ、所詮は子ども。泣いている女の子を前にして笑い飛ばすのはいかがな対応であったのかと、大人になった現在でなら思うところである。
 しかし結果としては、その少女にとっては慰めになったのか、ルシフはその後たびたび会いに行く間で非常に懐かれた。よっしゃこれで遠慮なく食い物をねだれる、という存在ぐらいにしか考えていなかったはずなのだが。
 一時の気まぐれが、まさかその後のルシフを大きく変える事になるなんて、思ってもなかった。

 食い物をねだるがてらたまに会いに行っていただけなのに、いつの間にやらあの少女に会う事がルシフの目的に変わっていった。
 孤児院の他の子達から疎まれている事は分かっていたけれど、その少女はちっとも物怖じしなかった。酷い外見だったろうに、何故逃げなかったのか、実は今も謎である。
 ほんの数歳年下であるらしかったが、幼い内から奉公に出て毎日根を詰めて働いていた生活が祟ったのか、実年齢よりも外見は幼かったと思う。ただ妙なところで大人びていて、かと思えば妙に赤ん坊じみていて。そういうコロコロと表情を転がし、屈託なく笑って背後を追いかけてくる少女の存在は、悪いものではなかった。
 兄妹とはこういうものだろうかと、幾度も考えた。だが、何か違った。派手に転んでべそべそ泣いた時、薄汚い背に乗せ走ってやった時、ぽかぽかと温かい軽やかな存在は、妹というよりはもっと。もっと何か、本能的に守らなければと思うような、そんな存在に思えてならなかった。何故かは、知らない。左右で色の違う瞳を、お空とお花の色なんて例えて褒めそやした少女の笑顔に恥ずかしくなった理由も、全く。

 そんな風に、少女と会って、短い時間遊んで、そしてまた明日なんて日々がしばらく続いたのだが。
 見た目も小汚く野良猫そのものだったルシフが、現在の優雅な白猫へと変貌を遂げるきっかけとなったのは、あの出来事だろう。


「はじめてひとりでつくったんだよ、すごいでしょ! ルシフに、あげる!」

 いつもの正午過ぎ。少女は、初めて針を持ち教わりながらもハンカチーフを作ったと自慢げに報告した。えっへんと薄ぺらい未発達の胸を張り、得意げに差し出されたのは、不格好なハンカチーフ。下手したらスラムに落ちてる布よりも酷い仕上がりだったのに、初めて贈られた手作りの代物にルシフはうろたえた。
 ただの子どもの善意の、腹の足しにもならない贈り物。常ならばこんなものと笑っていただろうに、それが動揺するほどに嬉しくて、どうしようもなく温かかった。
 生まれて初めて、ルシフは喜びという感情を噛み締めた。
 猫の頭でなかったなら、きっと赤面した情けない表情を少女に見せていたに違いない。手渡された温かい喜びに対し、何と告げれば良いのか分からず、ただ握りしめていた。少女が初めて作った下手くそなハンカチーフを、決して地面に落とさないよう、大切に。

 間違いなく、あの時だ。
 地べたを這うだけの泥まみれの野良猫が、初めて他人を――あの金髪の少女を、欲しいと想ったのだ。

 あの瞬間、幼いながらその身に流れる獣の血が沸き立ち、泥に埋もれた本能を呼び起こし、ある意味では子どもそのものであったルシフを一端の《雄》に変えた。
 何の色気もなく細いばっかりの少女の足に、汚れた尻尾を巻き付ける。彼女はその意味など知らないから、くすぐったそうに笑い蜂蜜色の金髪を輝かせていた。
 ああ、この子が欲しい。陽だまりの似合うこの雌が欲しいと、野良猫の少年は渇望すると同時に決意する。いつか、真っ当な雄になって、この子を側に置こう、と。

 其処からは、無我夢中だった。スラムの仲間達からは人が変わったようだと笑われ、驚かれ、時に引かれたりしながら、ルシフは昼夜働き、知識を詰め込んだ。
 仕方ない、それが獣人という種族性らしいのだから。一度決めた雌以外には見向きもせず、その感情を真っ直ぐに向ける。少々、真っ直ぐ過ぎるとは思わないでもないが。

 ……いやしかし、あの頃はルシフ本人も驚いた。
 街で働くにあたりこのいかにも薄汚い恰好は宜しくないと思い、初めてまともに身体を洗った時。自分のものでありながら、それはもう仰天した。
 スラムで生きてゆく中で積み重ねていた泥や土、埃等のありとあらゆる汚れの下から現れたのが、まさか一番自分に似合いそうもない純白の毛皮の――白猫だったとは。

 あまりに真逆を向く光景にしばらく笑い転げていたが、行き着く先はあの少女だった。気にも留めた事のなかった瞳を褒め称えてくれたあの子は、どう言ってくれるだろうか。願わくは同じように、綺麗だねと言ってくれたら嬉しい。外見だけは一気に垢抜けた白猫を眺めながら、そう思っていた。

 ……残念な事に、その姿を少女に見せる事は叶わなかったが。

 何の基盤もない底辺から這い上がるには、時間がどうしても必要だった。ルシフが人並みの学と一般的な信頼をもぎ取った時、肝心の少女は孤児院に居なかった。気付けば少年は、青年へと成長していたのだ。その少女も成長し、自分の道を進んでいた。

 気が狂れるような焦燥の中で、ルシフは認めた。自覚していた以上にあの少女――を求めていたらしいという事を。


◆◇◆


 あの飢餓に似た味を、忘れていなかった反動だろう。今度は決して目を離さず、何が何でもあの子を手放さずにいようと、ルシフは考えるより先にその爪を動かした。

 その、結果として。

(泣かせた。泣かせた上に、傷つけた)

 焦って何とか押し止めようとしたら、服を剥いた挙句に爪を立て牙を剥き、怯えさせた上に泣かせた。
 雄にあるまじき愚行、この野良猫、いや野獣め一度頭をかち割って死んでしまえ。
 わりと大真面目にルシフは自身を罵倒した。しかも、何が最も腹立たしいといえば、押し倒した拍子に垣間見た身体の細さや柔らかさなどの女らしい部分に、劣情を催した事だ。最低である、本当に死ねよこの野獣。
 口にも顔にもあまり出ていなかったが、ルシフの心ではこれまで、何度もその感情が爆発していた。ただ顔に出ていなかった、残念な事に。(いやその残念な心情が表に出なかった事に関しては幸運だろうが)

 嫌悪されても文句のつけようがない。何を言われようと、甘受するだけの覚悟はある。だが、それでもまだ、ルシフはを手放したくはないのだ。


 ――――結局、状況をこじらせた原因は全て。
 を前にすると培った力が全くの役立たずになる、ルシフのせいだったのだ。




「――――さん、泣きそうな顔してたぞ」

 去り際に、シズからそう切り出されだ。普段の和やかな彼にしては、厳しく抑揚のない声音だった。

「気持ちは分からんでもない。同じ獣人だ、人間とは頭も身体も造りが違う。けど、匂いつけをした相手なら絶対に悲しませんな。雄の風上におけん行為だぞ」

 ぐうの音も出ない正論である。分かっていると頷けば、それなら良いがとシズは肩を竦める。

「ああ、そうだ、それと――――全部言ったから」

 ぴたり、とルシフは足を止める。
 何かのついでに付け加えられたような、軽い調子の言葉。ルシフは意味が分からず、胡乱げに振り返る。シズは打って変わり、ふくふくした笑みを浮かべていた。

「どうせお前さん、意地でも張って言ってないんだろ? だから代わりに、俺が全部さんにぶちまけといたから」

 まあその結果、ルーアの癇癪が爆発したんだけどな。笑みを含んで告げられる言葉に、ルシフの思考が軋みながら停止した。

 全部、に、ぶちまけた、とは。

 どっと冷や汗が溢れ、心臓が音を立てて跳ね出すのを感じた。手のひらの肉球にも、じっとりと汗が滲む。

「な、なに、なにを……」
「全部ったら全部だ。匂いつけも、尻尾も、《氷の商人》も、ともかくぜーんぶ俺の知る限りを」

 得意げにピクピク揺れるあのひげを、今すぐに全部引っこ抜いてやりたい。
 彼に対する感謝と謝罪は、あっという間に空高く吹っ飛んだ。吹っ飛んだまま戻って来なかった。
 思わずルシフの白い指先からは爪が露わに伸び、衝動に駆られそうになっていたけれど、直ぐに鎮まる。同時に、此処にやってくる前のの言葉の理由を、ルシフは知ったのだ。


 ――――言ってくれなきゃ、分からない


 怒ったような、困ったような、の浮かべた赤い泣き顔の理由と、あの言葉は。
 ルシフは僅かによろめき、額を覆う。珈琲五杯を被ったので、頭部の毛皮は乾かずにべしゃべしゃのままであったが、構わず掻き混ぜる。それは怒りではなく、羞恥心に近い。
 目の前の茶トラの猫が言うように、そもそもの原因は変な意地を張ってきちんとその心を伝えて来なかったルシフ自身にある。なのだけれど。

「ま、今度こそ上手くやりな。色男」

 バシリと背中を叩いたシズへ、ルシフは高速猫パンチを繰り出して去った。

 通りの道をのんきに歩いていては時間が掛かるので、均等に立ち並ぶ建物の屋根と屋根を、ルシフは飛び越えて進んだ。獣人特有の身体能力――特に猫の身軽さを前にすれば造作もなく、早々に自宅へ帰還した。が、その速さに比例した風を浴びたおかげで、珈琲などすっかり乾いた気がする。
 屋根の天辺から飛び下り、遥か先の地面へと柔らかく降り立ったルシフは、玄関の扉を開ける。その音を聞き付けたように、直ぐ様ぱたぱたと足音がやって来た。

「ルシ――――」

 不意に視界を彩る、蜂蜜色の金髪。現れたその姿にほっと安堵するルシフと比べると、の反応は対照的だった。途中まで名を言いかけ、絶句する。行きは真っ白だった猫が、帰りは珈琲の匂いを振りまく茶色。見開いた目が、一体何をしてきたのかと分かりやすく絶叫していた。
 は一旦身を翻らせると、濡れたタオルを持ち再びルシフの前に立つ。ひやりと冷たい濡れタオルが、有無を言わさず顔に押し付けられ、ごしごしと拭い取られる。乾いたコーヒーは、さぞ難敵だろうに。一心不乱に拭くの手の仕草は、その心情を表すように落ち着きがなかった。本人も、風呂に入った方が早いと気付いたようだが、手を止めないでいる。
 「何をしに行ってきたら、こんな事に」呟くの声は、不安そうに揺れている。言わなきゃ分からないと泣き縋ったかんばせには、ルーアにかけられた紅茶も涙の跡も流され落ち着きが戻っているものの、まだ滲むものが茶色の瞳にある。そうさせたのは、間違いなくルシフだ。
 それなのに。
 爪先立ちになって身を近づけ、案じてくれる姿から香る匂いと、珈琲を吸った毛をなぞる細い指先の温かさ。目を細めてしまうほどに喜びを抱いてしまうのだから、本当にどうしようもない。

「――――

 口の中へ伝い落ちた珈琲の苦さに、喉の奥から広がる甘さ。その視線がルシフへと定まると、吐息を吐き出したくなる。
 あの市場で視線がぶつかった時も、そうだった。

「悪かった」

 ルシフの言葉を耳にし、は途端に不思議そうに首を傾げる。一度手を緩め、濡れタオルを下げる。何に対しての謝罪か、ルシフも定かでない。けれど、口にせずにはいられなかった。

「……俺はやっぱり、ただの野良猫だ」

 胸の前にあるの頭を、片手で引き寄せる。蜂蜜色に似た、鮮やかな金髪をそっと撫でて流し、露わになった白い額へ鼻先を擦らせる。その匂いと温もりは、今も昔もルシフをこんなにもみっともなく焦がす。



 過日の少女に、恋をしたように。暗澹(あんたん)としたホールで行われた市場で彼女を見つけた時、仮面の奥でくすぶったのは欲望だった。

 あの時、地を這う泥まみれの野良猫が、もう一度見初めたのだ。
 一度でも雑草なんて思った事はない、日向に咲く大輪の花のようだった、蜂蜜色の少女に。

 ただ、それだけだったのだ。