13

 用事を済ませてくるから、少し待っていろ。
 只ならぬ気配を背負い、冷淡な声で告げたルシフは家を出て行った。ぐすぐすと泣いて酷い事になっているだろう顔を洗い、紅茶の染みた服を交換する等して、経過する事三十分。
 出て行った時は真っ白だった猫が、真っ茶色に染まって帰ってきた時の衝撃といったらない。
 玄関に漂う豊潤な珈琲の香りから、彼が紅茶以上に頑固な飲料を被ってきた事は直ぐに察したけれど、一体どういった流れでそうなるのか。上半身だけとはいえ濃い茶色に染められた姿は、いつかの野良猫の少年を思い出した。の疑問は尽きなかったけれど、被ってきた珈琲を落とす方が先だったので、一先ずはルシフを浴室へ突き飛ばす。

 湯を浴びたルシフは、普段のシュッとした佇まいに三割増しのふっくら感を伴って現れた。聞けば、珈琲――しかもティーカップサイズではなく大きめのグラスサイズ――五杯も浴びてきたらしい。それも、自分の手によって。何故、と一層仰天したけれど、ルシフの綺麗な純白が戻って良かったと思う。

「……仕事は?」

 小さく尋ねたへ、ルシフは苦笑いを浮かべた。

「此処に来るって時点で、休みを取った。同僚の誰も、反対するどころか叩き出してくれたな。まあ明日以降、その分働きゃ良い」

 ここ最近は凄まじく不機嫌であった事は自覚している。空気を氷点下にまで凍てつかせていたので、恐らくはそれを回復させる為に叩きだしたと思われる。とは、ルシフは言わず心の中に押し留めた。
 そっか、うん、そっか。は少しだけ指先を遊ばせながら、ふかふかの白猫を見上げる。ルシフも何処となく気まずそうにしてはいたが、言いたい事はきっとどちらも同じだろうと感じ取る。
 ほんの僅かな沈黙を挟み、意を決してが口を開こうとした、その時。

「……まあ、腹割って話そうか」

 ルシフから、そう告げられた。呟くような声は耳に残る静けさを帯びており、はハッと目を開く。

「……そうだね、うん、腹割って話そうか」

 真っ直ぐと見上げるの瞳を、ルシフも逸らさなかった。
 誤魔化してきた、或いはされてきたところを、ようやく交わす事になるのだと。互いに思い、勇気にも似た感情を手のひらに握りしめた。


 陽の当たるソファーへ腰掛け、高さの異なる肩を並べる。正面に向かい合っても良かったが、きっとこの位置の方が率直に話し合えるだろう。温かい光の差す部屋に、微かな緊張が混ざり込む。
 そういえば、改めてきちんと向き合うのは、久しい事かもしれない。一番最初、この家にやってきたばかりの時以来だろうか。

「――――ルーアと会ってきた」

 の真横で、ルシフのすらりと長い脚が組まれる。

「とりあえず、もう俺に構ってくる事はないだろうな。勿論、あんたにも」

 は相槌を打って聞きながら、その次を待った。ルシフが言いたいのは、きっと其処ではない。

「……その帰りに、シズさんに聞いた。全部に……ぶちまけた、と」

 ルシフの語尾は、段々と弱くなってゆく。終盤は言葉ではなく、ほとんど息遣いだった。
 膝の上に置いた両手を、はきゅっと握る。シズの言葉を再び思い出し、頬は朱に染められる。
 その様子を横目に見て、ルシフは己の顔を手のひらでゆるりと覆った。途端、ルシフの喉からは唸り声がせり上がる。人間のそれではなく、ウニャウニャと愚図る猫の鳴声そのもの。は驚いて、肩を跳ねさせる。
 ルシフも、そういう反応をするのか。
 笑い顔や驚き、怒りなど、彼の感情をも見てきたけれど、羞恥する様は初めて目撃したかもしれない。ルシフは顔を覆ったまま動かなくなったが、それとは真逆に、長い尻尾は悶絶するように跳ね回っている。先ほどから、柔らかい先端がぱしぱしとの腰や足を叩いているくらいだ。

「…………知らないようだったから、好きなだけしてやれたのに。くっそ、何でよりにもよってシズさん……」

 恥ずかしい癖を、本人の預かり知らぬところで周囲に明かされたようなものだろう。だが、それもこれも状況をこじらせたルシフのせいに他ならない。
 嘘か真か、実は迷うところがあったのだけれど。は再び、ルシフを盗み見る。摩訶不思議な動きで尻尾をくねらせる白猫は、ウニャウニャと文句を言っている。その悶絶する様子から、後者であるのだともようやく飲み込んだ。気まずさの中の羞恥心が、さらに増す。

「……どうして」

 呟かれたの声が、部屋に響いた。ルシフは顔を覆う己の手をずらし、を見遣る。

「……言ってくれたら、良かったのに」

 特に、が市場に出品される原因ともなった、商家の件については。
 恨み話のつもりで、はルシフへヨーゼル家という名やその商家のあった街の名など、最初に明かしている。多少なり、商家の経営が上手くいかなくなれば良いなと思った事は否定しない。だがまさか、取り潰しになっていたとは。それも、ルシフが全く知らぬところで働いた事によって。シズが明かしてくれなければ、が知る事は恐らく無かった。
 商家の事も、これまでの事も、些細な事だったのだろうか。何故と、問いかけを連ねると、ルシフはあからさまに視線を逸らし、泳がせ始めた。いつもなら此処でも諦めていたけれど、腹を決めたはその視界に入ろうと身を乗り出す。上半身を捻り、余計に逃げようとする白猫の腕を掴んで制する。
 いつもは自分からぐりぐり引っついてきた癖に、私から近付いたらこれだよ!
 逃げるな~逃げるな~と念を送り続け、しばしソファーの上で無言の戦いを広げる事、数十秒。ルシフは観念したように、小さな声でようやく告げた。

「……言うつもりが、無かったわけじゃない。色々と話をするべきだとは、思っていたさ」

 ただ、言わなかったのは。
 ルシフの声は、不意に細く潜められる。


「……理由なんて、ない」


 はい?


「浮かれて、頭から抜け落ちてただけだ」


 ……はい?


 は、ルシフの腕を掴んだ体勢のまま、目を真ん丸に見開いた。先ほどまであった空気が、何処か彼方へ吹いて遠ざかるのを感じた。

「う、浮かれてたって……」

 幾度も疑問をぶつけるへ、ルシフの忍耐だか何かが振りきれたらしく、自棄になり声を張った。

「言葉の通りだ、浮かれてた! あんたを捕まえて隣に置いて、しばらく過ごしていたらそのまま頭から抜けていただけだ! ついでに言えば……ッ口にするのが恥ずかしかったから言わなかった!」

 平素は冷静さを纏い、並みの事では動じ無る事のなさそうなルシフが声を荒げている。それもまた珍しい事ではあったが、今のが気にするのは其処ではない。

 これまで、は悩んできた。本当に、真剣に悩んできた。
 再会を果たした過日の野良猫は、すっかり美しく垢ぬけた白猫へと成長し。どうして彼が己を拾い上げたのか分からず、だったらせめて買われてしまった今をどう振る舞えば正しいのかと考えた。そうして考えた結果の果てに、ルシフには牙を剥かれ、嫌われたのかと泣いた。
 獣人の感覚は今一つ理解出来ないにしろ、大層美しいオッドアイの白猫だとは常思う。その彼の温かさに寄り掛かる事が出来なかったのは、の意地っぱりな性質もあっただろう。
 だが。
 いざその本人が口にしたのは――――浮かれて忘れていた、口にするのが恥ずかしかった、である。


 私の、あの日々の、葛藤は。


 驚いて呆然とするの思考の空白へ、奥底から滲むがごとく、沸々と感情が込み上げる。ルシフの腕を掴む手のひらと指先に、女らしかぬ力が込められた。震える指先に呼応するかのように、吐き出された呟きは不穏極まりなく這った。

「……ちょっと、私、本当に悩んでたんだけど」
「……悪いとは思うけど、こっちも事実だからそれ以外に言いようが」
「買われたから、こうなったら家政婦でも何でもして、お金を返そうと」
「要らないと言ったのも、本当に要らなかった」

 わなわなと震えるへ返されるルシフの言葉は、にべも無く淡々としている。

「わ、私のあの悩んでた日々は、なに、その二つで、片づけられちゃうわけ……?」

 ルシフの目が、気まずそうに逸れる。其処でついに――――膨れ上がったの感情が爆発する。
 ソファーの片隅に追いやられていたクッションを一つ掴むと、両手で振り上げた。

「あ、あ、アホかァァァァーーー!!」

 そして振り上げられたクッションは、振り下ろされるのが常道である。
 何処へ。
 ルシフの顔面だ。

 目を見開く白猫の顔に、クッションが迫り来る。反射的に庇おうと腕が上がり、肩が引かれたけれど、それ以上にの投球は俊敏であった。楽々とその防御を飛び越えて懐に入ると、容赦なく叩きつける。

 これまでの仕事で培われた目利きを最大限に活用し、身の回りの調度品には少しばかりルシフも自信がある。クッション一つ取っても、触り心地から使い心地まで妥協せず、ソファーで寝る時には快眠を約束してくれる品を選んだ。だがそのクッションが今は、主人の顔面を殴打する鈍器になっている。ぼふぼふ、なんて優しい擬音は其処にない。
 その柔軟性ゆえに、痛みや怪我を生み出す事はないと言っても。
 連打するの速度に、正直、心の底から驚いたルシフである。

「3000セスタなんて大金で買われたら、悩むってもんでしょ! 何でそうしたのかもされたのかも分からないし、だったら私はその身分をきちんと果たそうって考えるしかないじゃない!」

 クッションを上下にかざすの勢いに押され、ルシフの身体がずるりと傾く。ソファーの上に倒れ込んだルシフの上へ、はすかさず身を乗り出して座り、ばっすんばっすんとクッションを振る。

「それなのに、そうしたらこないだ、あんな怖くなって……どうしたら良いんだってすんごく悩んでたってのに! そしたら……!」

 倒れ込んだルシフから伸びる、白く大きな手がクッションを掴む。地味に呼吸が辛かったルシフは、クッションを押しのけて大きく息を吐き出した。

「そんな、理由だったとか……! 私のあの葛藤は、何?!」

 ルシフはオッドアイを鋭く光らせると、のし掛かっているを見上げる。にとっては《そんな理由》だとしても、ルシフにとっては些細なものではない。放った声は意図せず大きく響いた。

「こないだの事は悪かったと言ってるだろう! 大体、最初から妙に悩んでいるあんたに全部言ったところで混乱するだけだ、時間を置いた方が良いと思った俺に向かってクッションを叩きつけるな!」
「はあああ!? そのおかげでルシフの頭からはすっぽ抜けて結局こうなってるんですけど!? クッションぐらい黙って受け止めなさいよ!」

 クッションを間に挟んで、言葉の応酬が飛び交う。かたや怒り心頭でクッションという名の武器を振りかぶろうとする人間の女、かたや同様の感情を浮かべ防ごうとする獣人の男。常ならば結果は考えるまでもなく後者に軍配が上がるはずだが、忍耐の振り切れた前者による火事場の何とかによって、思わぬ拮抗を生み出している。
 譲らぬ両者に挟まれたクッションは押し潰され、自慢の柔らかな造形は瞬く間に跡形もなく歪んでいた。

 しばらくそうして言い合っていた二人であるけれど、次第に気勢は落ちてゆき、双方ともに肩で呼吸をする現在である。ゼーゼー、と音を激しく立てて空気を取り込む喉からは、言葉はない。押し問答を受けて伸びきったクッションが、ついにはルシフの仰向けになった胸へと落ちる。

「……聞きたくたって、聞けるはずなかった」

 無駄に言い合って疲れたの喉から、呟きが落とされる。
 ソファーに倒れた格好のまま、ルシフは天井を見上げるように視線を上げた。腹に跨がっているは、金髪を少し乱していた。陽の光が乱反射し、蜂蜜色の鮮やかな金色が赤みを帯びた頬へ掛かっている。その眩しさに、ルシフは見惚れた。

「何度も聞こうとしたけど、駄目だった。買われたのが私だって、直ぐに思い出すから」

 落ちたクッションへと、両手を乗せる。その向こうにあるルシフの胸を掴むように、力のない指先を握り込む。
 重くはない、けれど心の柔らかな部分を掠める、不思議な切なさが与えられる。

「……嫌われたと、思っていた」

 ルシフは呟き、潰されたクッションを掴む。それをそっと下へ落とすと、の手は宙に浮かんだ。

「……どんな理由をつけたって、あんたの意思なしに買ったのは事実だから、何と思われているのかも分からなかった。だから、せめて落ち着くまで待とうと」

 もっとも冷静だったのは最初だけで、の居る日々に浮かれあっさりとすべき事を忘れたのだから、結局どうしようもない。言葉を伝える前に、匂いつけや尻尾を巻き付ける等の求愛行動に移行し、余計に口にするタイミングを逃した。
 改めて思い浮かべても、阿呆すぎて情けない。恥じるように、ルシフのオッドアイが揺れる。けれど、それを見下ろすは、ふっと吐息をこぼした。ルシフの白い三角の耳へと落とされたそれは、笑うような柔らかさを孕んでいた。

「……私も馬鹿だけど、ルシフも馬鹿だね」

 泳いでいた猫の眼差しが、へと定まる。

「――――嫌だったら今頃、無理矢理にでも逃げ出してるから」

 は、泣き笑いを浮かべるように、くしゃりと綻ぶ瞳に滲む光を湛えていた。鮮やかな金髪が柔く掛かり、一層その表情が照らされているように見える。
 一瞬の間に瞠目した猫の眼は、を真っ直ぐと見上げる。その時、横たわるルシフと乗り上げて跨るの間、宙をさまようの手へ、獣のそれが伸びた。ぎこちなく握ろうとする白い獣の指先を、の方からしっかと手繰り寄せれば、そっと指先が折り曲げられ柔らかい毛皮で包まれる。何かを確かめるように、何度もの指先をなぞる。細い爪先から、関節、指の股へ、流れる動きはくすっぐたくも官能的な。は、恥ずかしそうに笑って、逃げず、好きなようにさせた。
 緩やかな速度で、青と黄色の猫の双眸が細められる。その胸中の感嘆が吐息になって、ルシフの口からこぼれた。嗚呼、と呟かれる声は、まるで喜びを告げるようである。
 ふと、包み込んだの手を、ルシフは己の口元へと導いた。細やかなひげの向こう、犬とは異なる鼻梁の先端への指先を押しつける。
 途端、ルシフは上体を起こした。
 細身の外見に反し、腹筋だけで軽々と持ち上げれる様に驚いたが、それ以上に狼狽えたのは、目と鼻の先にルシフの存在が近づいた事である。
 クッションを叩きつける内には、ルシフの腹部へ跨がるような格好へと図らずもなってしまった。彼が寝ころんでいたからまだ良かったが、それが起きあがったらどうなるかと言えば、まるで彼の股座に向かい合って座っているかのような。
 ずり落ちたお尻はルシフの太股の上で落ち着いたけれど、あったはずの距離を唐突に詰められてはさすがに狼狽を露わにする。腹と腹、胸と胸、重なるほどの至近距離の先で、美貌の白猫のかんばせが寄せられる。意味もなく声を漏らし身を捩ったを、ルシフは片腕を素早く腰に回して引き寄せる。空白らしいものなどないのに、力強く巻き込まれ、の体温が上昇する。長い足に跨がったの細いそれは、微かに震えた。

「ルシ、フ」

 繋がった手の指先が、白猫に食まれる。牙を立てず、乳飲み子のように吸われる感触。細やかなひげの向こうから掛かる息遣いも、妙にくすぐったい。

「……こうされても、嫌ではない?」

 普段よりもずっと低い声から、彼の持つ色気を嗅ぎ取る。しどろもどろに声をまごつかせる間に、さらに追い打ちのごとく、腰を抱く腕が背筋をなぞった。飛び跳ねたを、ルシフは息が掛かる距離から離れずに見つめている。恐らくきっと赤く染まっているだろう頬に、視線がちりちりと焼き付く。
 な、なんか、ちょっと、急に。
 突然に放たれる、だだ漏れの色気に、は激しく動揺した。こんなルシフ、見た事はない。この一ヶ月でも、全く。

?」

 泳ぐ意識を掴み寄せて向き直らせるような、強引な低音。決して乱暴ではないが、温かい優しさが蝕まれてゆく。重なった腹と胸に、払えない熱が灯る。くらりと目眩がしたのは、果たして。

「い、嫌じゃ……」

 ぱたり、と三角の白い耳が跳ねる。

「嫌じゃ、ないよ……」

 が何とか震える声を絞り出し、その一言をようやく呟くと。
 目の前の白猫に、明確な微笑が浮かんだ。
 三日月のように細められた双眸が蕩け、上機嫌に震えるひげの先、口角には笑み。猫そのものな頭部であるのに、平素は中々読めぬ表情がこの時ばかりはも手に取るように解した。蜜がこぼれ落ちてきそうなオッドアイに、の目眩と赤みが増し、心臓がきゅっと震えた。

 普段は、何考えてるのか、分からないくせに。
 こういう時ばっかり、ずるい。

 向き合い抱えられた身体がさらに寄せられ、きつく抱きすくめられる。繋がれた手は下ろされ、その僅かな距離を埋めるように白猫のかんばせが近付く。真新しい石鹸の匂いと共に、音がすり寄った。ゴロゴロと鳴る、上機嫌な喉の音色。額を擦り寄せ、首筋に埋まる白猫を、は少しだけ笑った。下ろした手は、そっとルシフの腕へと添えられる。

「……何というか、は意地っ張りだな」

 親に甘えて守られる齢から、既に奉公に出されて働いて、その親が病で亡くなってからは世間に身一つで放り投げられ。幸運にも孤児院に拾って貰ったが、全て一人でして生きていかなければならないのだと、ほとんど義務付けられた環境で成長してきた。精神はきっと、思う以上に強靭で、強かだろう。
 だが、その下にあるのはきっと、誰よりも脆い危うさ。甘える事を良しとせずにあったとしても、本当はきっと寂しがりで、心を素直に開けないほどに意地っ張りだ。いつかの少女が、そうであったように。
 ルシフが理解出来るのは、ルシフ自身も未だそうであるからだ。

「……ルシフに、言われたくない」

 泣き笑いに似たの声に、ルシフは「そうだな」と笑う。同じ穴を持つ存在であるから、ルシフはにだけ本心を明かせるという事も。

「……あのさ」

 ゴロゴロと喉を鳴らしたまま、ルシフはの耳元で呟く。

「ついでだから、一つ言っておきたい事があるんだけど、良いか」

 は少しだけ鼻を啜り、頷いた。腹を割って話すと明言したのだから、この際後腐れなく話そうじゃないか。がそう告げると、ルシフは緩慢に下げた頭を起こし。

「じゃあ、ちょっと着いてきてくれるか」

 そう一言置いて、場を移し変えた。




 手を引かれて移動した先は、何故かルシフの私室だった。
 これまで彼の部屋に入った事は無かったが、踏み入れた今、思わず感心した。
 みっしりと本が詰まった書棚と物を整理する棚が、壁の一部を埋めている。窓辺には、書き物の途中にあるらしい紙が広げられた天板の大きな机が、どんと一際存在感を放って構えている。もののおまけのように、ベッドやクローゼットは、かなり端っこに追いやられていた。自分だけの寛げる空間というより、完全に自分専用の仕事場である。
 の部屋と間取りは同じであるものの、その用途と調度品が異なるだけで、受ける印象がこうも変わるとは。それより、大量の本にこっそりと驚いた。集められたその数々から、ルシフの尋常でない努力を垣間見た気がする。

 ルシフは棚の片隅から慎重に何かを持ち上げ、へ差し出した。意匠をこらした、小さな木箱。それをおもむろに開くと、中に納められていたものが現れる。
 造りも縫い目も雑な、いかにも子どもが作った安物どころの話でないハンカチーフ。古ぼけて、ますますその粗雑さを煽っている。


 ……って、それ、まさか。


「ッいやァァァァー! 何で持ってるのォォォォー!!」

 あまりの羞恥心に顔が真っ赤に染め上げられるのと、ほぼ同時には絶叫を上げた。
 ただでさえ二人しか家人のいない邸宅は、静かそのものである。その大音量の雄叫びは、階を飛び越え隅から隅まで響き渡った。

「なん、それ、いま、やだァァァァー!!」

 半狂乱になって跳びはねるの腕が、木箱を強奪しようと伸びる。が、ルシフは高々と木箱を持ち上げ、の手から回避させた。細身と言えど獣人の異性、と頭二つ分ほどは伸びた身長は、どれだけ跳ねようと爪先立ちになろうと手を届く事を許さない。
 な、なんて意地悪な……! はルシフの胸にしがみつき、ぶるぶると背を伸ばすが、指先が掠める事はない。
 ルシフと言えば、乱心するを見下ろし、飄々と観察している。

「自分で作ったものは、やっぱり覚えてるものなのかな。どうだ、十年近く前の自作品を見た感想は」
「ギャァー! 止めてッ今すぐに捨ててェー!」
「冗談、何で捨てなくちゃならない」

 遥か天辺に持ち上げられた木箱の中にあったのは、かつてが作ってあげたハンカチーフ――初めて一人で作りあげた、思い出の代物――であった。

 何でそんなもの大事に持ってるの?! てっきり、もう捨てたとばかり思っていたのに!

 本人でさえ、下手くそな代物だったろうなあと淡く記憶に残っている程度だった。だがまさか、時を経て実物を目の当たりにしようとは。全然懐かしくない、むしろ憤死したい。
 そもそもあれは、幼い頃の思い出へと綺麗に昇華しているものだろう。何でそんな、よりにもよって超初期の自作品が。羞恥のあまり、叫び散らしたい。いっそ殺してくれないだろうか。

「やだやだ捨てて、捨ててってば! いやーやだー!!」
「くっ……落ち着けって」

 ルシフと来たら、楽しそうに笑っている。落ち着けるものかと睨んだところで、効果のほどは期待できない。遥か天辺に掲げられた木箱は、未だ降りてはこないのだ。

「なん、何でそれを今……!」

 必死に指先を伸ばして木箱を取ろうとするは、恥ずかしさのあまり半泣きになっている。その様子を見下ろしてひとしきり爆笑した後、ルシフは不意に声音を潜め。

「――――ところでさ、。俺とあんたがあの市場で再会したのは、偶然だと思うか」

 静かにひっそりと、語り始めた。
 しがみつく白猫のかんばせから、悪戯っぽい笑みが無くなっている。色の違う双眸からは、真っ直ぐと眼差しがへと降り注いでいる。それに気付き、の羞恥で暴れ狂う思考が、その静けさに釣られるように落ち着いてゆく。
 は、爪先立ちを止め、踵を床へ落とす。そっとルシフの胸から離れようとしたが、それはぐるりと回ったルシフの片腕に阻止された。腰を抱く腕は、乱暴ではないが逃げ出す余地を作らない。

「旧友の為、気まぐれの為、わざわざあんな遠い場所にまで馬を走らせ、3000セスタも払ったと思うか」

 言葉の静けさに反し、を見下ろすオッドアイに、揺れるような熱の気配が宿る。驚いたように動かした瞳を、ふと下げてみると、ふくらはぎに柔らかい尻尾が巻き付いていた。

「……ずっと」

 腰を抱きすくめる片腕が、力を増す。

「ずっと、探していた。孤児院を出て独り立ちしたと、院長に聞いてから、ずっと」

 それはも初めて明かされる、ルシフのこれまでの足跡だった。



 ルシフが必死になって這い上がり、いつの間にやら薄汚い野良猫の少年から白猫の青年になった時。時間は思っていたよりもずっと過ぎ去り、孤児院を尋ねても肝心のは既に独り立ちした後だった。それも、もう何年も前の話である、と。聞かされた瞬間、ルシフは失神するかと思った。
 人にとっての求愛と獣人にとっての求愛は、重みが全くといって良いほど異なる。にとっての思い出の中の口約束は、ルシフにとってはそうでなかったのだ。
 何年も貪欲な彼女欲しさに学び働いたように、今度は彼女を見つける為に何年もその痕跡を辿る日々を送るようになる。街から街へ、土地から土地へ、合間を縫ってはその足跡を拾い上げて嗅ぎ取り、追いかけ探し求める日々。それほど必死になっていながら既知の人々に全く知られなかったのは、ルシフが上手く隠していたからだろうが――――僅か一時でも、あの少女を忘れた事など無かったのが本心だった。
 同じもの一つとしてない、穴を埋める欠片の喪失ともいうべきか。気が狂(ふ)れるようなあの日々を送り、仮面を作る事ばかりどんどん上手になってゆく。本音を言える存在は、衣料品店の同種族以外に無かったほどに。

 ある日、ようやく最後の足跡を見つけた。恐らく最も近い日付だろう、彼女がいた勤め先で、大きな立派な商家で働く事になって喜んでいたという話を耳にする。
 ようやく、あの子に会える。
 その事実に、ルシフは幾久しく晴れやかな気分になり、歓喜に震えた。その新しい勤め先までは分からなかったが、大きな商家ともなれば探すのは容易いだろう。其処からは人海戦術の如く、口の堅い情報屋を雇って探したのだが。

 まさか、あの子と思しき存在が、さる商家から裏市場へ出品されたなんて、誰が想像しようか。

 何処の商家までは聞かず、ルシフはその市場の開かれるらしい洋館への紹介状を入手し、自らの足で踏み入れた。よりにもよって、同種族――彼女にとっては異種族――が集う会場だった事に、より一層の苦々しさを覚えたものだ。

 かくして其処で、ルシフは間一髪にも間に合い、再び少女を見つけた。
 あの日からすっかり成長し、細やかな肉体やより鮮やかな蜂蜜色の金髪をした無邪気な少女――を。



 偶然ではなく、必然だった。
 そう知ったの心境は、ただ驚くばかりだった。そういえば、ステージで視線がぶつかった時も、部屋で再会した時も、ルシフの慌てる様子は全く無かった事を思い出す。かねてよりあった疑問は、の奥へすとんと消えた。

「……人間と獣人は、見た目だけじゃなくて頭の造りも違う」

 過去の足跡を明かしたルシフの声は、僅かに強張っていた。

「多分きっと、あんたにとってはただの約束だったろうけど。俺にとっては、そうじゃなかった」

 言いながら下ろされた片腕の先、大きな手のひらには木箱が小さく収まっている。
 あの頃から大切に持っていたという、下手なハンカチーフ。
 幼い頃の淡い思い出としていたと違った事を、その木箱が全て物語っているようである。あの後から、ルシフはの前に現れなくなってしまったが、もうその時からずっと、スラムから抜け出すべく奮戦していたのだろうか。決して口には出さず、の為に、と。

「どうして、なんて聞くなよ。いきなり最初に言ったって、気持ち悪いだけだろう。ずっと探していた事だとか、その為に商人になった事だとか」

 やけに真っ直ぐと落ちるルシフの言葉に、気恥ずかしさがへと宿る。

「気持ち悪いって事はないけど……今、すごくびっくりしてる」

 そうだろ、とルシフは肩を竦めた。

「……だからせめて、あんたが慣れてくれるまでは、偶然でも良かった。良かったんだけど」

 見下ろすオッドアイを、呆れたように細める。

「あんたがあの口約束を覚えていて、わざわざストールを作ってくれて嬉しかったんだけど、まさかあんな風に落とされるとはな」
「あ、あれは、その」
「いや、そもそも俺が招いた事だから、それはもう良い」

 だから、まあ、つまり。ルシフは気を落ち着かせるように息を吐きだし、改めてを見つめた。手に持った大切な木箱は、手頃な棚の隙間へ慎重に置き、空いたもう一本の片腕をの腰に回す。二本の腕に抱きすくめられ、一瞬の瞳が揺れる。

「……一ヶ月前から欲しがっていた答えは、これで全部伝えた。

 あ、との声が小さく漏れる。青と金の二色をそれぞれ宿す瞳に、熱が帯びてゆくのが窺えた。

「商人が言う台詞じゃないけど、もう一回、機会をくれ」
「機会……?」
「最初からもう一回やり直す機会だ」

 白猫の柔らかい拘束が緩む。僅かながらに距離は生まれたが、その手はの腕をなぞり、細い指先を捕える。のふくらはぎに巻き付いた尻尾は、柔い先端をするりと動かした。
 思わず、の背がぞくりと震える。

「……やり方と順番は間違えたけど、俺があんたを隣に置きたい気持ちに嘘偽りはない。昔も、今も」

 人間とは違う、この手を拒まないなら。

「家政婦としてではなく――――ただのとして、此処に居てくれないか」

 此処に。
 の手は引き寄せられ、いつかの時のようにルシフの胸に顔をぶつけた。

「此処、に?」
「ああ、此処に」
「いつまで……?」
「いつまでも。ずっと、此処に」

 は目を真ん丸に見開いて、幾度も口をぱくぱくと開閉させる。真っ赤に染まる頬は強張り、次第にぎゅっと何かを堪えるように唇を引き結ぶ。
 これは、果たしてどちらの反応だ。ルシフはを見下ろしながら、考えあぐねる。商人として、人の機敏を見逃さない術を身に着けてきた。が、に対してのみは驚くほど無能と化すルシフ、彼女が表情を顰める所以が全く分からないでいた。これは、どちらだ。絶望か、歓喜か。願わくは後者であって欲しいと思うけれど、仮に前者であれば今度こそ泣くしかない。
 「……?」窺うルシフの声は、打って変わり気弱に響く。持ち上げたの手を、指先で気まずげになぞり、その顔を覗き込む。そして、ぎょっとなった。の明るい茶色の瞳は、涙で滲んでいた。
 ルシフの心臓が、捻り潰されそうなほどに痛みを訴える。これは、どうやら前者の絶望のようだ。よし泣こう。

「……そ、そんなに……い、嫌だったか……」

 世を渡り歩き、生きた歳月以上に強かな精神を持つはずの野良猫も、この時ばかりは絶望に暮れる。悄然とした切ない影が、美猫の背景に被さる。の細いふくらはぎに巻き付けた尻尾が、どんどん力なく緩み落ちてゆく。

「……馬鹿」

 ぽすんと、ルシフの胸が叩かれる。痛みなどない、くすぐったいだけの拳が、弱く押しつけられた。俯き加減で傾いたの頭が、ルシフの胸の前で起こされる。揺れた金髪から現れたそのかんばせに。

「嫌だったら逃げてるって、さっき言ったじゃない」

 震える声に、震える頬に、震える瞳に、透明な涙と笑みを湛えていた。
 ――――笑み。
 信じられないものを目の前に見たように、ルシフは恐る恐るとの手を離し、代わりに頬をぎこちなく撫でる。くすぐったそうに微笑が深まり、涙が一滴伝う。
 ぞわり、とルシフの背が戦慄いた。歓喜と、それと。じわじわと込み上げる感情が全身を巡って、熱を灯す。誤魔化すようにを目一杯抱きすくめると、腕の中でくすくすと笑う振動が腕に伝わった。

「苦しいよ、ルシフ」
「うるさい、泣くな」

 ぎゅう、とルシフの腕の力が増す。苦しいほどの抱擁が、今は全く苦ではない。は泣き笑いを浮かべながら、白猫の背に手を添える。外見の繊細な細さに反し、やはり其処は男性的な逞しさがあった。
 の小さな手が、背中へ添えられる感触。すぐるようなの息遣いが胸に折り重なり、心臓を掴み揺らされる心地がする。顔にはきっと出ないけれど、ルシフの思考は溶け落ちるようだった。
 もルシフも、言葉で伝えるのが肝心なところで不器用な性格である。そして、それを埋めるように行動は思い切りがよく言葉以上に雄弁でもある。きつく抱擁を交わす通りに、互いが同じものを持っている事は明白であるけれど、今は。今だからこそ。

「……あんただけが欲しい。ずっと《此処》に居てくれ」

 改めて告げたルシフの言葉を、は泣き笑いで受け止めて。

「……馬鹿ッ喜んで!」

 もしっかりと声に乗せ、それに答えた。抱きすくめるルシフから、上機嫌な喉の音が再び奏でられた。
 はぐすりと鼻を啜り、涙を拭う。やだもう涙腺弱い、と己で笑っていると、不意に顎が持ち上げられた。喉をくすぐるような仕草を秘める、柔い白毛に包まれた優雅な長い指。
 は不思議そうに見上げたけれど、次の瞬間、息を詰める。オッドアイに焼けそうな熱を宿し、見下ろす白猫が顔を下げていた。
 その熱さは、あの時――――市場の客席とステージで交わした時に感じた、あの眼差しを思い出した。



次話、18禁シーンになります