09

「――――最近、何か作業しているようだけど」

 ソファーに腰掛けたルシフは、を見上げて呟いた。カップを差し出した姿勢ののまま、は否定するでもなく「まあね」と頷いた。ルシフの前に一つ置き、己の前にも一つ置く。

「夜遅くまでしているみたいだけど、大丈夫か」
「つい熱中して。ルシフの用意してくれた裁縫道具、使いやすいからかな」

 は向かい側に座り、目頭を指で揉む。ちょっと目を酷使しすぎかもしれないが、日ごと完成に近付いているので、もうひと踏ん張りだ。

「……何をやろうとしているか、まだ教えてくれないのか」

 少し拗ねた声で、ルシフが呟く。カップから立ち昇る蒸気を目に当てながら、は笑って首を振る。

「まだ教えない」
「……そう」

 ルシフはぐいーっとカップの中身を飲み干すと、を指招きする。ちょいちょい、と揺れる白猫の人差し指を見ながら、はカップを手にルシフの側に移動する。彼はそれをおもむろに取りあげてテーブルへ置くと、を引っ張り己の膝の上に乗せた。軽々と、子どもを背後から抱っこするように。
 の背中にルシフの胸が触れ、蜂蜜色の髪が流れる頭の上にルシフの顎が乗る。まるで丁度良い高さの顎置き場か枕にされた気分だ。

「……俺からも」

 ごろごろと喉を鳴らしながら、ルシフが言った。

「あんたに言っておきたい事がある」
「私に?」
「ああ。でも」

 のお腹に宛がわれた大きな両手が、抱きすくめるようにくっと力を込めた。

「あんたが教えてくれた時に、俺からも言おう。それまでは、秘密だ」

 背後の白猫の顔には、上機嫌な笑みが浮かんでいるだろうか。想像するほどに、ルシフの声には柔らかさが含まれている。意地の悪さのにない温かい微笑は、の耳を心地よく撫で、こそばゆく響く。
 振り返り覗き見たかったが、止めた。夜会のあったあの日の晩に、決意したものが、揺れてしまう気がしたから。

 そう言えば。
 が市場に突き出されルシフに買われたあの日から、気付けば早一ヶ月近くになろうとしていた。
 一体どうなろうかと不安に苛まれ、覚悟したあの日から、まさかこのような温かな場所で過ごす事になろうとは。

 は恵まれていたのだ、最初から。
 そしてそれを掴んでいるだけの度胸が、こんな時に限って出てこなかった。
 意地っ張り。もしくは、意気地なし。は己をそう自嘲する。例えば、そう、あのルーアという少女のようであれば、或いは。


◆◇◆


 ストール製作に入って、さらに数日後。ようやく、念願の日が訪れた。

 夜、机に向かって黙々と針を通していたは、パチリと糸を切った。ランプが灯り、ゆらゆら仄明るく照らす部屋に、の溜め息が響く。安堵と歓喜を含んだ呼気は、長く長く吐き出された。
 出来た、と小さく息遣いで呟き、ストールを両手に持った。柔らかく波を作り、色の違う糸も幾つか使って丁寧に縫った、薄地のそれ。今はランプの橙色に染まっているが、日中は惜しみなく上品な青を見せてくれるだろう。
 もう一度確認してから完成であるけれど、ようやく形になり、は安堵する。作業に夢中になっていたその口元にも、綻ぶような微笑が浮かんだ。
 けれど。
 両手に持ったものが完成すると思うと、その笑みはすうっと引いてゆく。夜の静けさが再び訪れ、しんともの寂しい夜風がの心の中にも吹いた気がした。

「……これで、良いんだから」

 己で考え、決めた事なのだ。約束を果たしたら、そしたら、今度こそ。
 言い聞かせるように、は呟きをこぼす。糸屑を払い、青いストールを丁寧に机へ置いて、一先ずは就寝する。また明日最終確認をして、それで良かったらルシフへ渡そう。望んだ事が叶うのに、の心に喜びは無かった。



 最後の確認を済ませ無事に完成となった青いストールは、ルシフが家に居る時に渡す事にした。従って、実際に彼へお披露目するのは、さらに数日後の事だった。
 陽気の心地良い、昼下がり。一番陽が当たる窓辺で、本を開きゆったりと寛ぐルシフの姿を確認したは、自室から件のストールを持ち出す。ほとんど羽根のような軽さなのに、の手のひらにはずしりと胸にくる重みがあった。はそれを振り払って、後ろ手に隠しながら再びルシフの元へと近付く。
 「ルシフ」が呼ぶと、彼はごく自然に顔を上げた。黄色いお花とお空の色――――が昔にどう例えたオッドアイは、今は普段に増してとても輝いて見えた。

「少し前からやってたもの、ようやく終わったよ」

 腕を後ろにやったまま、は告げた。ルシフは開いた本を閉じ、机に放ると立ち上がった。「へえ、何してたのかようやく教えてくれる気になったのか」告げる声は、上機嫌だ。年若い青年の声に相応の、楽しそうな響きがある。は頷き、少しドキドキしつつも後ろ手に持っていたそれを差し出した。ルシフはそれを見下ろすと、途端に不思議そうに目を丸くし、何度も猫の瞳を瞬かせる。

「シズさんの店でね、お手伝いをさせて貰ったの。お金は受け取ってないよ、代わりにこの生地を分けて貰って」

 は広げて見せながら言った。薄地の、青いストール。ルシフの視線が、それに注がれる。

「ルシフに、作ってあげようって」
「……俺に?」

 普段はもっと涼しく澄ませているはずの白猫の表情が、声が、珍しく動転するように動いた。ああ、猫って意外と表情があるんだっけ。悪戯が成功したような気分にもなって、は気恥ずかしさの中で得意げに笑う。青いストールを持ち直し、背伸びをしながら正面のルシフへとそれを掛ける。ルシフが長身な背を屈めてくれたので、距離が詰まり整えやすい。

「……ルシフは、覚えてるかな」

 青いストールを丁寧に白い首へ巻きながら、は呟いた。

「昔、孤児院で暮らしていた頃、針仕事を教わってね。初めてハンカチを作ったんだ。あんまり思い出したくないくらい恥ずかしい出来だったと思うんだけど、あれをルシフへあげた事があって」

 直ぐ斜め上にある白猫の肩が、ぴくりと反応した。覚えているのか、否か、どちらの反応だろうか。気にはなりつつも、は独り言のように続ける。

「その時、約束してたんだ。今度はもっと特別なものを作ってよって言ったルシフに、作ってあげるって、私」

 そっとストールを撫でつけながら、は顔を起こし見上げた。思ったよりもずっと近いところにあった白猫の顔が、を凝視せんばかりに見つめている。

「ずっとその約束ね、覚えてたの」

 ルシフがどうであるか、は尋ねない。見開かれたオッドアイに微笑んで、少し距離を空けて彼の全体を眺め見る。ほら、とは声を柔らかくこぼした。

「やっぱり、ルシフは青が似合うね」

 身体も雰囲気もシュッとして優雅な白猫に添えられた青は、我ながら絶妙だとは思う。多分きっと何の色を合わせても、彼はそつなく身に着けるだろうけれど、とても似合っている。
 ルシフは、驚いたままの表情を浮かべている。己の首に緩く巻かれたストールと、その正面に立つを、何度も交互に見比べて、何処か信じられないような面持ちを宿している。そうしてしばらくの間、ルシフは黙りこくっていたけれど、しなやかな細いひげの向こうの口を不意に緩め、呟いた。ありがとうと響く彼の声には、喜び。
 約束を覚えていてくれたか、思い出したか、覚えていなくても喜んでくれたか。何にせよ、もルシフのその言葉を聞けて、嬉しかった。


 “これっきり”だと決めたにとっては、最後に貰えた過ぎた幸福だった。


 手のひらの重みが無くなり、の肩からも力が抜ける。浮かべた微笑も弱く薄れ、のかんばせを切なく彩った。は大きく息を吐き出し、再びルシフへと話しかける。

「――――ルシフ」

 ストールを見下ろしている白猫が、顔を起こした。の表情に気付き、オッドアイを細め訝る。

「ずっと、きちんと言いたかったの。私の事、大金を出してまで拾い上げてくれて……ありがとう」

 本当に感謝してる。感情を込めたのに、放った言葉の語尾は掠れ、とルシフの間で薄れ消えゆく。

「やっぱり私がルシフに出来る恩返しは、これしかないみたい」

 は、さらにルシフより数歩離れると。
 踵を揃え、丁寧に背筋を伸ばし、それを倒す。流れ落ちた蜂蜜色の髪が、顔の横を滑る。

「――――今まで、私ごときの我が侭を聞き届けて下さり、ありがとうございます」

 ぐっと、は指を握りしめる。

「これからは――――改めて、誠心誠意お仕えさせて頂きたく思います。ルシフ様」



 ルシフに連れて行かれたあの夜会で、は改めて実感し、そして決意したのだ。昔の約束を果たし、今の繋がりを果たそうと。温かい心地よさに、沈み込む前に全て。

 薄汚い野良猫は美しい白猫となり、底辺から這い上がり地位を得た。
 そんな彼に、3000セスタで買われたのは。それに見合った分の働きをすると誓ったのは。
 他ならぬだった――――それだけだ。