08

「――――ルシフ、今日シズさんの所に行ってきても良いかな」

 夜会の翌日、今朝の朝食――身体に優しいリゾット――を食べ終わった後、はルシフに尋ねた。本を広げる彼は、不思議そうに「何故」とを見つめている。

「シズさんにはお世話になったし、お礼と報告をね。あ、それと、ちょっとしたご相談を」
「相談?」
「内緒。後で必ず、ルシフにも言うから」

 後片付けをしながら、振り返って笑う。ルシフは特に表情を変えず、「まあ良いよ」と了承してくれた。よし、とは力強く拳を握り、上機嫌にメイド服を翻し今朝の仕事を早めに片付ける。
 蜂蜜色の金髪をくっしゃくしゃにされながら、仕事に向かうルシフを見送った後、は私服に着替えた。白いシャツとロングスカートの、ごく一般的な装いだ。掻き混ぜられ毛先が跳ねまくる髪を手早く整えながら、ふと、は思った。そういえば、毎朝、何かの儀式のようにぐっしゃぐしゃに混ぜられるのも、あっちこっちに擦り寄られるのも、日常になっている。あったはずの困惑が消え、喜んで甘受するくらいには、当たり前のように受け入れている。
 は小さく笑い、其処に宿る温かさを振り払う。まずはシズさんへのお礼の品を用意しないと。簡単ではあるけれど、クッキーを焼いて、それを包んで鞄へ入れる。家の戸締りもしっかりと怠らず、それからは街の一角へと繰り出した。シズの店は、多くの店舗が並ぶ通りにあるので、場所はとても覚えやすい。



 訪れた店の扉を開けて入ると、親しみの持てる茶トラの猫獣人が早速出迎えた。ふくふくした笑みは、朝から気立ても良くて朗らかだ。まだ朝一であるので、店内には他の目立った客は無い。
 「おはよう、さん。いらっしゃい」にこやかなシズへ、も挨拶を返し、先日の礼をする。気にする事はないのにと言いながらも、の作ったクッキーを快く受け取ってくれた。ほっと安堵しつつ、はシズへ尋ねた。

「あの、シズさん。今日じゃなくても良いんですが、お暇な時間があればちょっとご相談があるんですけれど」
「相談?」

 丸くなった猫の瞳が瞬く。彼は少し考え込むと、一つ頷いて扉に掛けたカードを引っ繰り返した。恐らくは、開店から閉店に変えたのだと思われる。そんな朝から早速、とは慌てたがシズ本人があっけらかんと「猫のやる店ってのは大体自由だから気にしない」とケロリとし言って退ける。こういう所が、人と猫獣人の違いだろうか……は小さく苦笑いをこぼした。


 先日でもお世話になった店の奥の一室で、とシズは椅子に腰かけ向かい合った。「さて、それで俺に相談っていうのは」シズの問いかけに、は答えた。

「図々しい事だとは承知しているんですが、あの、シズさんのところでほんの少しだけ、お仕事をさせて貰えないでしょうか」
「仕事、とな」

 シズは妙に驚いた仕草をしてみせた。は小さく笑い続ける。これでもお裁縫仕事が得意であって、これまで下働きと針子仕事を渡り歩いてきた。ほんの少しの期間で良いから、何かさせて貰えないだろうか。先日も、あんなに綺麗な服を用意して貰って、クッキーだけではお礼になるなんて思っていないから。そう告げるの言葉を、シズは相槌を打ちながら聞いてくれた。そしてその後、改めて不思議そうに、へ尋ねる。

「何か、他にも理由があるんだよね」

 は一呼吸を置き、それからシズへと告げた。

「……ルシフと、昔、約束してたんです」

 の脳裏に、在りし日の少女と野良猫の少年が浮かび上がる。取りとめのない、児戯のような思い出の約束。

「ルシフに似合うものを、作ってあげるって。まあ、多分きっと、ルシフ本人はもう覚えていないと思うのですが」

 それで良いと、は思う。

「自分の自己満足ですけれど、それをしたら、たぶんすっきりすると思うんです」
「すっきり?」
「そう、すっきりするんです」

 多分きっと、あの約束を果たせば、私は。は、ぎゅっと膝の上で両手を握りしめる。

「勿論、きちんとお仕事させて頂きます。私に出来る事があったら、させて下さい!」

 は椅子に腰かけた体勢で、頭を下げた。動きに合わせて、金髪が流れ落ちる。
 その仕草を見下ろし、シズはゆるりと口を開いた。

「……さんとルシフは、友達だと聞いたけれど」

 シズの声は、窺うように潜められた。

「何だろう、もっと別の何かがあるような感じがするなあ」

 ドキリと反応するに、きっと気付いているだろう。けれどシズは何も言わず、「分かった」とだけ呟いた。

「まあ、ともかくさんの言葉は分かった。ちょっと考えてみるから、明日また来てくれるかい?」
「あ、ありがとうございます!」

 は、再度頭を下げた。その日はそれで一先ず帰り、翌日を待つ事にする。


 夕暮れを迎えた頃、ルシフが帰宅する。彼が身なりを部屋着に変えて人心地ついた時、その件を伝えた。当然であるが、あまり芳しい表情はされなかった。確かに勝手が過ぎる事は、も重々承知している。これっきりだという事を念押しして、ようやく彼は渋々頷いた。その時、ルシフは最初の時のように、意外とがっしりしている身体にを引き寄せ「此処から離れるな」と告げた。
 年若い齢に反して涼しく響くその声音は、以前にも増しての胸と耳に染みる。じわりと全て回りきる前に、は両手を握りしめて耐え、ルシフの胸を押して離れた。

「分かってるよ、大丈夫」

 ――――私は、貴方に買われた身。全部、“これっきり”だから。

 前から分かっていた事であるのに。いつからだろう、その事実がこれほど痛みを伴うなんて。
 突き刺さるものを紛らわす為、殊更には明るく振る舞っていた。


◆◇◆


 翌日、は再びシズの店を訪れる。
 簡潔的に言えば、シズの答えは「良いよ」であった。
 何であれルシフにプレゼントしようというの考えに賛成し、服作りはさすがに頷き難いが下準備の作業ならば、との言葉であった。また、現金ではなくの欲しい布地が報酬となり、もちろんがそれに異を唱える事などない。シズの心意気に厚く感謝し、それから数日間のみ、お手伝いさんというポジションを得た。
 下準備の作業とはいえ、は決して妥協しない。後にシズが「何かあの時のさんは燃え盛ってたね」としみじみ呟くほどに、数日間のみのお手伝いさんの枠に留まらない働きっぷりを披露した。元々こういった仕事を長らく生業としていただったので、いきいきしていたのも要因だろう。特に、一番の趣味で得意だった刺繍は、シズの目にも留まるほどだった。元からあるデザインを見ながらちくちくと縫い繕う作業が、一番輝いていたかもしれない。

 急に何かを思い立ったように行動し始めたを、ルシフも当初は不思議がるというか、大分訝しげに見守っていた。だが、きちんと戻ってきて家政婦の仕事も忘れないへ、文句を言う事もなくわりと自由にさせてくれていた。
 買われた身で、本当に過ぎた環境だと思う。




 数日間、シズの店のお手伝いを、倍以上の働きで無事にやり遂げたは、約束の布地を分けて頂く事になった。有り難く受け取ったは改めてシズへ礼をし、足早に家へ戻って早速作業に移る。
 ルシフはもう仕事に出ているので、ドタドタと慌ただしく二階へ上がっても毛を逆立てる者はいない。
 自室に入るなり、は机の上に布地と裁縫道具を置いた。広げた布地は、厚みは薄く長い、そして淡く透き通った青い滑らかな質感を宿す。ルシフは綺麗な白猫だから、どのような色を宛がっても似合うだろうけれど、やはり彼といったらこの色だろう。透き通る空の色よりも濃い、爽やかな青。優雅で涼やかな彼には、一番この色が似合うはずだ。

 シズの店でお手伝いをする間に、は既に決めていた。
 約束は、ストールを作ってあげよう。猫の毛質はふわふわしているから、首に巻いてもちくちくして邪魔しない生地で、彼に似合う色を添えて、と。

 の心は、かつてあっただろうかというほどに、楽しく弾んでいた。初めて針を持ち、粗末だけれどハンカチーフを一人で完成させた、あの時以上かもしれない。その理由は、が自覚している。
 針仕事の楽しさ以上に――――ルシフへ作ってあげられる事が嬉しいのだ。
 それから毎日、少しずつ、作業を進ませるは、満たされていた。これが終わる時には、一つの決意も果たす事になるが故の、幸福であるかもしれない。


◆◇◆


 現在、は齢十八で、ルシフは齢二十一。僅か三年だけの違いと言えど、男女と種族の違いによる差異はとても大きく、が力で勝てる事など確実に無い。
 その昔の、孤児院で暮らしていた幼い頃も、そうだった。
 人と獣の性を持つ獣人は、人間と違い早熟し、二次性徴が現れ肉体が完成すると大人と見なされるという。従って、幼い内からその身体能力の高さは顕著に現れ、例え子どもでもやっぱり人間と獣人は力では勝てない。
 が一生懸命に走っても、ルシフは風のように速い。木々の間をすり抜け、障害物を軽やかに飛び越え、先を先をと疾走する野良猫。翻る尻尾にすら、の手は掠りもしないで、宙を薙ぐばかり。どんなに頑張っても追いつく事はなくて、それがとても悔しかった事をは覚えている。

「――――わッ?!」

 しまいには、の方が転んで強制的に追いかけっこは終了である。べしゃり、と顔から泥に突っ込んで呻くと、痛みが押し寄せてきて涙が滲む。

「あーあ、また派手に転んで」

 蹲るの前に、ひらりとルシフが立つ。埃だか、泥だか、判断つかない汚れを纏って実に野良猫らしい風貌の少年。転んだも大概は汚れた恰好をしていたが、笑われたような気がしてまた一層は泣きそうになった。

「ころんでなんかない!」
「どう見たって転んだでしょ、それ。ほら、立てる?」

 伸ばされた手は、やっぱり汚い。けれどはそれを躊躇う事なく掴んで、ぐっと身体を起こして立ち上がろうとする。が、転んで擦り剥いた膝小僧の痛みに、直ぐにぺたりと座り込んだ。

「痛いの?」
「いたくない!」
「痛いんじゃないか」
「い、いたく、ないもん……」

 痛くないなんていうと、余計に痛みを感じるものだ。大きな茶色の瞳に溜まる涙が、ぽろぽろと地面に落ちる。
 ぐずり始めるに、ルシフはこういう時だけはお兄さんみたいに笑って、「しょうがないなあ」としゃがむ。やっぱり汚い背中を向けると、ほら、とを呼ぶ。

「運んでやるから乗りな」
「やだ!」
「あれー良いのかー? お昼ご飯、誰かに取られるかもしれないぞー?」

 意地悪な口調で告げるルシフに、は唸った。けれど、お昼ご飯の心配には勝てないので、濡れた頬を擦り、ひょこひょこと足を跳ねさせルシフの背中に張り付く。汚れた外見の通りにごわごわする首にしがみつくと、ルシフはの両足を抱えて立ち上がり、あの風のような速さで走った。
 先ほどまで泣いていたのはだったのに、あっという間に笑顔が咲く。すごいすごいとはしゃぐを、ルシフは笑いながらしっかりと背負っていた。年が近いわりに、彼の腕はあの頃から既に力強くて、少女よりもずっと立派な背中だったと思う。
 あの汚い背中におぶって貰うのが、は言わなかったがとても嬉しかったのだ。
 貧しい家に生まれ、幼い頃から奉公に出されろくに家族の思い出のないまま別れた彼女にとって、少年は兄のような存在でもあった。


 ――――そんな、幼い頃の、ただの思い出を。
 は、ルシフへの約束であるストールを作る間、ずうっと思い出した。あんな事があった、あの時はああで、そういえばそんな事も。一つ思い出しては一つ思い出す、こんな時ばかり果てもなく回帰する過日の記憶は、心の中で崩される事なくうず高く積まれてゆく。
 ゆっくり、少しずつ完成に近付くストールには、の指先で丁寧に糸が縫い込まれてゆく。薄汚い野良猫と綺麗に垢抜けた白猫への――――感謝と憧憬が。