07

 茶トラの猫獣人――シズの店へやって来たを待ち構えていたのは。
 やたら良い笑顔のシズと、化粧箱を開いて掲げる店の従業員らしい女性であった。

「え、えっと、これは……」
「せっかく晴れ着を着るんだから、どうせなら思い切り仕立てあげてみないか? というわけで、奥へご案内ー」
「え、ちょっと、それは」

 の困惑など軽く流され、半ば強引に店の奥へと連れ込まれる。縋るようにルシフを見れば、彼は何も言わずに手を振っている。悪戯っぽく煌めくオッドアイが、全てを語っていた。文句を言わずに行ってこい、と。
 え、えー……。の口から漏れる悲鳴は、全てフェードアウトしていった。


 が扉の向こうに消えた後、シズはルシフへと視線をやった。珍しく楽しそうな様子を隠さない白猫に、シズも釣られて笑う。

「随分楽しそうじゃないか、ルシフ。お前にとって、あのお嬢さんはよっぽど大切なものらしいな」

 冗談めいた言葉に、ルシフは肩を竦めるだけで何も言わなかった。だが、否定もしなかった。

「……身内の夜会とはいえ、其処に連れ出すとは。何かお前の並々ならぬ本気を感じて、お兄さんちょっと怖いぞ」
「さあて、ね」
「お前の最近の変化を騒がす奴らを黙らす為か、それともお嬢さんを見せびらかす為か。まあそれで黙れば良いけど……一人、納得しない奴が確実にいると思うぞ。気をつけろよ」

 シズの忠告に、ルシフは溜め息をつきながらも頷いた。
 そんな二人のやり取りが交わされる間――――は遠い目の人形になりながら着飾られていた。



 ――――誰だ、これ。
 全ての作業が終わった後にが思った事は、その一言であった。姿見に映し出された己を見て、は呆然とする。背後では店の従業員が両手を叩いて褒めそやしているが、きっとの元の素材ではなく、彼女らの腕の力が大きいだろう。それは、分かっているけれど。初めて見た己の姿は、とても、信じられないものだった。
 そして同時に、恥ずかしさも抱いていた。

「これはもう、お連れの人も喜びますよー! さあさあ、参りましょう!」
「あ、あの、こ、心の準備が」

 何に対しての心の準備かは、本人も分からない。ただ何故か、無性に逃げ出したい気分に駆られていた。もっともその気分も、さあさあと背中を押す従業員に負け、呆気なく部屋から出されてしまう。

「おっ待ちわびたよー……ッおお?!」

 真っ先に聞こえたのは、茶トラの猫獣人、シズの驚いた声だった。びくり、との細い肩が飛び跳ねる。知らず下がった視線は床を見下ろして、その場で身動ぎする。

「こりゃたまげた、お兄さん感動……あだっ!」
「退いてくれるか、おっさん」
「辛辣だな?!」

 の正面へと、近づいてくる気配。床しか見えない視界の片隅に、革靴の爪先が映り込んだ。それを視線で伝い上がりながら顔を上げた時、はびっくりして目を丸く見開かせた。
 ジャケットとスラックスの上下どちらとも、青みを帯びた黒地で仕立てた洋服に身を包んだ白猫が立っていた。真夜中の空の色を彷彿とさせる、ほとんど黒であるけれど上品な青も香る色が、純白の毛並みの猫を引き立てている。礼服ほどの重々しさはなく、かといって私服にはない洗練されたものがあり。野暮ったさのない垢抜けたラインを持つ衣服は、すらりとした長身と肉体の造形を持つ彼にぴったりだ。針仕事をする者としては衣服の造りも注視してしまうけれど、何よりも、完璧に着こなすルシフに驚きだ。
 対して、私ときたら。
 は、視線をさまよわせる。正面のルシフはの頭の天辺から爪先まで見つめている。何かの罰を受けている気分だ。

「に……似合わないのは分かってるから、笑って良いよ」

 は、小さく呟く。恥ずかしさだか情けなさだかで、顔が熱くなる。孤児院育ちのが唯一持って自慢だった蜂蜜色の鮮やかな金髪は、今は丁度片耳の後ろで丁寧に丸く束ねられているので、頬に差す赤みを隠してくれるものがない。
 ルシフがわざわざ発注してくれた洋服は、ミントグリーンのイブニングドレスだった。艶やかな光沢を帯びた鮮やかな緑色は眩しく、の細い身体をらしくもなく爽やかに覆う。足首が見える程度のスカート丈は良いとして、鎖骨と肩周りがばっさりと剥き出し、おまけに胸元もちょっと谷間が見えがちなのが、一番の問題点である。ストールを羽織ってはいるけれど、白の半透明など何の防御にもなっていない。
 当然であるが、こんなに綺麗なドレスなんて、見る事はあっても着た事などない。着こなす自信が全くなく、は消えたい心境であった。
 せっかく用意してくれたものだけど、似合わないのなんてが一番知ってる。

「や、やっぱりこんなの隣に居たら駄目だって。今から不参加にしない?」

 恥ずかしさ紛れに、は早くで告げた。けれどその声に被せるように、ルシフが言葉を放った。

「……そうだな、夜会に行きたくなくなってきた」

 びく、とは肩を震わす。そうだろう、そう思うのも仕方ない。自覚しているけれど、は予想外にも落胆を覚え、思いの外しょんぼりとしてしまい顔を伏せる。
 けれど。

「――――何でその格好を、他の連中に見せなきゃならないんだ」

 次いで聞こえた言葉に、再び顔を跳ね上げて起こす。額を覆って項垂れる白猫の姿を、睫毛を瞬かせて見上げる。

「やっぱり行くの止めようかな……」
「おい、自分で言い出しといてそれか」
「何か猛烈に行きたくなくなった。ああ、くそ、何か腹立たしい」

 にやつくシズの姿が、ルシフの背面に見える。は数歩、ルシフへ歩み寄ると、そうっと彼の腕を引っ張る。額を覆っていた白猫の瞳が、を捉えた。

「へ、変じゃない?」
「……」
「ルシフ……?」

 無言の圧力を含んだ白猫の顔は、言い難い感情を沸々とさせていた。が、持ち上げた手の指をくいくいと動かし、何やらを呼びつける。もう半歩ほどが近づいたところで、ルシフは頭を下げ耳元に口を近づけた。細いしなやかなひげにくすぐられた首を竦めると、その耳に。

「――――むかつくぐらいに、似合ってる」

 吐息の混じる囁きが、妙に大人びた低音を秘め、熱く這った。
 突然の不意打ちに、背筋が震え上がる。の顔を染める朱色が首にまで下がり、慌てて退いた。見上げるほどにすらりと長身なルシフは、嫌に真剣にを見つめていたけれど、一度瞬きをすると其処には涼しげな光が戻った。普段のよく知る彼だ。

「……なんてね。悪くないよ、雑草のわりに」

 はしばらく驚いて声を失っていたが、いつもの調子の声が掛かると、次第に気分も落ち着いてきた。
 緊張を解く為に、冗談を言ったのだろう。なんだもう、やる事大きいんだから。
 そう思ったは、深呼吸して息を整えると、苦笑い混じりにルシフの胸をとんっと叩いてお返しをする。

「ありがと。そう言って貰えるなら……少し、自信が出た気がする」

 本当に、ほんのちょっぴりではあった。けれど、お世辞でも何でも、綺麗な白猫に言って貰えるのなら。少しは雑草も野花辺りにはなれるだろうかと、は笑む。ただやっぱり、慣れない格好はむず痒い。半透明のストールを胸の前で手繰り寄せ、手のひらに握り込む。スースーとする胸元はあんまり変わらない。
 ルシフは、しばしそうしてを無言で見下ろした後、思い出したように振り返った。

「シズさん、ともかく、感謝します」
「いいやー? 中々面白いもん見せて貰ったから、安いものだ」

 意味ありげに笑う茶トラの猫を一睨みした後、再びルシフはへと向き直る。

「さて、準備は整ったし、行くとしようか」
「う、うん」

 此処まで来たらもう、後は……なるようにしかならないだろう。心の中でぐっと拳を握り、はシズへ改めて礼をした。茶トラの彼はふくふくした笑みを浮かべ「楽しんでおいで」と見送ってくれた。頷いてみたものの、楽しめるかどうかは分からない。

 店を出たとルシフの頭上には、いつの間にか太陽がひっそりと沈み藍色に染まりつつある、静かな空が広がっていた。


◆◇◆


 到着した会場となる建物を前にして、は感心の溜め息をついた。
 夜を迎え藍色に染まる空を背にし、日中の賑やかさが薄れた静寂の中に佇む建物は、街ではよく催し事の場に選ばれるというホール付きの飲食店らしい。華美さは無いが、夜に浮かび上がる落ち着いた色合いの佇まいは品があり、少なくとも下町のそれとは全く異なるだろう。
 服装の暗黙のルールがあるわけだから、夜会の会場だってそうだろうとは思っていた。最悪、豪邸みたいな店であっても良いように小さな心臓は覚悟を決めていたが、品があるけれど親しみも持てる外観にほっと安堵していた。

「……言っただろう、身内大多数と余所の商人の親睦会だって」

 見透かしたように、ルシフが呟いた。金と青のオッドアイを煌めかせる仕草から、まるで悪戯が成功したような笑みが感じられる。もう、とはルシフの腕を叩いて、呼気と共に緊張を吐き出した。
 でも。
 建物の前には、夜会の参加者だろうか、綺麗な装いをした人々が入り口から建物の中へと吸い込まれてゆく。途方もない場違い感が、今度は押し寄せてくる。いや本当、何でルシフは私を此処に連れて来ようと思ったのだろうか。



 こつりと、ルシフの鼻先が額の横を小突いた。手ではなく鼻というのが、妙に獣らしさを感じる。

「あんたは、俺の隣に居て、素直に楽しんでいればそれだけで良い」

 普段と同じ、周囲に翻弄されないだろう涼しげな声で言った。そして、曖昧に頷くへと、ルシフは肘を折り曲げた片腕を差し出した。はその腕とルシフの白猫の頭を、交互に見比べる。はて、これは一体。しばらく考えたであったけれど、その意味を察し「あっ」と小さく声を漏らした。恐る恐る、は躊躇いがちになりながら差し出された腕へと手を伸ばす。夜空に似た上品な青を織り交ぜる、黒い洋服に包まれた白猫のしなやかな長い腕。其処にそっと手を回し入れて指先を恐々と添えると、の頭上でルシフが満足げに息を吐き出した。「それで良し」と揚々と頷く白猫は、笑みを浮かべていた。
 ルシフの足が、踏み出す。腕に手を回したも、それに合わせて歩を進める。雑音を立てずにゆっくりと歩む猫の速度は、の歩幅に丁度良く、不思議な心地よさを感じた。他の人々に混じりながら建物へ踏み入れ、入り口で参加者票に記入してホールに向かうその間ずっと、の隣に並ぶ白猫は優雅そのものだった。
 くすみ一つない白い短毛の、美しい猫。先端を立てて上向く尻尾は、ゆらゆらと宙をなぞり、オッドアイは毅然と前を見る。
 ……やっぱり、ずるい。
 はどうしようもない悪態をつきながら、ルシフの腕を掴む。外見はしなやかさを纏った猫であるけれど、意外にも腕は硬く、また横に並ぶ身長は大きく、胸部だって男性的な厚みがある。あの日の薄汚れた少年は居ないのに、そんな風に優しく視線を緩めたり喉を鳴らしたり、本当にずるい。



 とルシフがホールへ入り、一通りに参加している人々へと挨拶をして回ったその後、改めて主催者であるという人間の男性――ルシフ曰く、商会のボス――から挨拶の言葉があった。
 ホールには立食形式で楽しめるよう料理が並べられ、「存分に飲んで食って喋って楽しもう」という実に砕けた挨拶のもと、かくして夜会が始まる事となった。
 笑い声の聞こえる広いホールの中を、ざっと眺め見る。参加している人数は、およそ二十人前後だろうか。半分が商会とその関係者で、残りは彼らの連れや友人、別の商人などであるそうな。さすがは種族間の交流が中立にある街だ、顔ぶれもとても個性的な夜会になっている。
 うーん、まあ、確かに緊張する必要は無かったかもしれない。並ぶ料理や飲み物は美味しいし、参加する人々の衣服を見て針子魂が燃えるし。当初はルシフの挨拶回りでガッチガチに緊張するばかりだったも、幾らか時間が過ぎればこの空間に慣れつつあった。様々な職場を渡り歩いてきた恩恵だろうか、今ばかりはそれに感謝する。

 それはそれとして、だ。
 現在、には別の困り事が浮上していた。

「へえ、あのルシフの、ねえ」
「氷の商人の、ねえ」

 種族問わず様々な人から、意味ありげな言葉と視線を賜って大注目を浴びているのだが、何故だろうか。
 最初は、こんな綺麗な白猫の横にちょっと花がついた程度の雑草が並んで悪目立ちしているのかとも思ったのだけれど、何やらそうではなく。女を連れたルシフ、という点が夜会の話題を総取りしているらしかった。
 代わる代わるやってくる人々は皆、不思議そうに、或いは興味深そうにし、「どういったご関係で」と直接突っ込んでくる人も居た。だが、ルシフはそういう人を前にするとにこやかに、けれど有無を言わさぬ雰囲気で。

「私の、古くからの友人です」

 の腰を引き寄せ、尻尾を足に巻き付け、意味ありげな仕草と共に宣言した。
 まあ、3000セスタで買われた友人なんて言えないし、妥当だろうとも思う。心象を悪くしたくはないので、もその通りに従って頷いている。
 人々は神妙な面持ちになり、あまり納得していない様子も稀に見せたけれど、それ以上尋ねてこなかった。特に、ルシフと同じ獣人の種族の者は、その途端に何かを悟ったような表情をしていた。

「匂いつけか……派手にやるな」

 だから匂いつけとか、氷の商人とか、何なのだろう。

「ルシ――――むぐぅ」

 首筋をゴキッと鳴らされたあげくのたらこ唇の刑には処されなかったものの、代わりに料理を突っ込まれた。
 ……シズさんに聞けば、教えてくれるだろうか。



「――――ルシフ!」

 立食形式の催しを楽しむホールに、明るく弾んだ少女の声が響いた。
 振り返るルシフと同じように、もその仕草に習って背後を見やる。足早に近付いてくるヒールの音と共に飛び込んだ姿は、その明るい声のよく似合う淡いピンクのワンピースドレスを揺らす人間の少女だった。まだ幼さを感じさせる顔立ちで、十八歳のよりも年下である事は窺える。十五歳、或いはもう少し下だろうか。あら可愛い子、とが思って眺めていると、その子は。
 そのまま、ルシフの片腕に飛びついて頬を寄せた。

「今日は来ていたのね! 良かった!」
「……ルーア嬢」
「もう、ルーアで良いのに」

 ぷくりと頬を膨らませ、ルーアと呼ばれた少女はルシフを見上げた。幼げなかんばせを彩る無邪気な微笑みは、彼にのみ注がれている。ルシフしか見えていませんと、言わんばかりだ。少女の勢いに、何となくはぽかんとした。飛びつかれたルシフは、穏便に――それこその唇をたらこにした雑な仕草をせず――少女の抱きつきを解いて、その腕を引っ込める。

「大勢の前で、誤解を招きかねない行動はなさらないようにと常に言っておりますのに」
「ルシフになら良いの! 私、気にしないもの」

 やんわりと応対するルシフに、正直は驚く。あの野良猫が、此処まで紳士に対応するとは。そういう振る舞いが出来るくせに、そのわりには私には雑なような……。がぽかんと見つめているその時、ようやく少女の瞳がを捉えた。

「えっ? ルシフ、その人は……」
「ああ、ご挨拶が遅れまして。こちらは私の友人の

 ルシフは笑みを浮かべに腕を伸ばし、その腰を引き寄せた。

、こちらは世話になった人の、孫娘のルーア嬢。街に来てから、商会へのツテを用意してくれた人で」

 は頷きながら言葉をしっかりと覚え、ルーアへ挨拶をする。彼女はいやに驚いた顔をしていたが、むっつりと唇を引き結んでを睨んできた。

「それより、ルーア嬢。今日はおひとりで? それとも、ご家族とでしょうか。どちらにしても、きちんと参加されている方々へご挨拶をしましたか?」
「えっと、それは……えへへ」
「ルーア嬢、貴方はかつて大商人とまで言われたお爺様の孫娘。そんな貴方ならば、何をすべきか分かりますよね」

 ルーアは舌を出して恥ずかしそうに笑うと、直ぐに去って行った。勿論には、睨みをもう一度寄越してくれた。

「知り合いの女の子なんだ」
「……この街に来た時、商会に口利きしてくれて働けるようになったのは、あの子の爺ちゃんのおかげでね。縁があるから度々顔も合わせる」

 ルシフは声を小さく潜めた。

「ただちょっとばかり、甘やかされた感じがある。昔からそれが変わらないな」
「でも凄く可愛い子だったね」

 それにルシフへ、凄く明確に好意を表していた。言いたい事を飲み込む、何処ぞの誰かと誰かとは、全く異なる天真爛漫な少女だと思う。まあ、最初からいきなり睨まれては、好きになれと言われた場合頷きにくいところがあるけれど。
 ルシフは感情薄く、肩を竦める。まるで、興味無いと言わんばかりだ。

「……あの子の遠戚に、猫の獣人が居てな。俺も同じ種族だから、何となく近しいものに感じているんだろう」

 ルシフは近くを通りかかったウェイターからグラスを取ると、へ手渡す。この話は終わりだと告げているようだった。ふうん、とも声を漏らしたが、さすがに心の中で思う言葉をそのまま口にするのは、野暮というものだろう。あの少女が見せる感情が、明らかに親近感だけではない、なんて。

(私が、それこそ……言えた事じゃない)

 はグラスに口を付け、甘いジュースと共に言葉を飲み下した。




 それからは、立食を楽しみ、またルシフの知人らしき人々とも会話をし、賑やかな時間を過ごした。下手な事を言って心象を悪くしないよう、言葉には特に注意を払っていた為に少々疲れたものの、当初の不安はだいぶ砕けて薄れていた。きっとルシフもそれを気に掛けているのだろう、の横をがっちりと押さえて必ず側に居てくれる。それはこの場違いな会場に立つにとって心強い存在だった。
 けれど忘れてはならない、これは単なる飲み食いの場ではない。同業者が集まる、情報交換会でもあるのだ。あんまり横に張り付いていたら、せっかくの仕事の話も出来ないだろう。
 そう思ったは、先にルシフへ「お仕事の話してきて良いよ」と告げた。彼は渋ったけれど、余計な事は言わないし直ぐ近くで休憩してるからと告げたに頷いた。直ぐに戻る、と言った時のルシフの横顔は、仕事時の顔だろうか、鋭く研ぎ澄まされた気配を宿していた。初めて見たかもしれないその姿を追いかけるように、はしなやかな背をしばし見つめていた。
 話し込むルシフの後ろで、は少しの疲労を吐息に乗せて吐き出す。思いっきり肩を伸ばしたいところだが、せっかくの綺麗な衣装でそれはない。ぐっと堪えながら、甘いものでも食べて落ち着いていようかといそいそと移動した。

「――――ねえ」

 そして、小皿に小さなケーキを二つ乗せたところで、背後から呼びかけられていた。ぱっとが振り返ると、其処には、先ほどの少女――ルーアが佇んでいた。華やかなピンクのワンピースドレスを揺らし、へと歩み寄る。

さん、だったわよね」
「え、あ、はい」

 は皿とフォークをそれぞれ両手に装備し握ったまま頷いた。「ふうん」と声を漏らしながら、ルーアはを上から下まで眺める。
 ルーアという少女は、全体的に華奢で、可憐な花が其処に咲いているような可愛らしさがあった。また、良いところのお嬢様という事を裏付けるように、可愛らしさの中にもしとやかな仕草がある。少なくとも、のように大の男の股間を蹴り上げる失態はしなさそうだ。
 ただ。
 を眺める視線は、何だろう、ねちっこい陰険さはないが「物凄く興味あります!」と物語っていた。

「ルシフのお友達って、本当?」
「はい。小さい頃、一緒に遊んでいました」

 これは嘘ではないので、自信を持って告げる。ルーアは可愛らしいかんばせを少しだけむくれさせた。少しだけ困りながらも、は当たり障りのない範囲で話しかける。

「ええっと、ルーアさんは、ルシフがこの街に来てからとてもお世話になった方の、孫娘さんだと」
「! そうよ、お爺ちゃんがね、来たばかりの頃のルシフを気に入って、今彼がいる商会に口利きしたの。お爺ちゃんは昔、この街で一番の商人だったから、人材を探すのだって得意なのよ」

 ルーアは、表情がコロコロと変わる子だった。

「もう何年も前の事だから、お爺ちゃんも……私も、ルシフとは付き合いが長いの」

 ルーアの視線は、からルシフへと向いていた。しなやかな美しい白猫を見つめる瞳は、少女の憧憬だけでなく、もっと別のものも含んでいる事は明確だった。

「……さんは、今のルシフを知ってる? やり手の商人の話をした時、ルシフの名前が必ず出てくる事とか、どれだけ綺麗な白猫で有名なのか、どれくらい知ってる?」

 ピンク色のスカートと、髪の毛を翻し、ルーアはを見つめた。何処か挑むような、真っ直ぐとした瞳だった。
 は尋ねられた言葉に、直ぐに反応は出来なかった。

「そういうルシフを、私は、全部知ってる」

 ルーアはそれだけ言うと、軽く礼をしの側から離れていった。その言葉がきっと牽制であったのだろうと気付いたのは、華奢な背中が見えなくなってからであった。
 は、手に持った小さめのケーキを食べる気にもなれず、そっとテーブルに置く。壁際の窓の近くにまで移動し、其処で改めてその風景を眺め見た。装いの美しい人々と、華やかな明かりに浮かぶ、賑やかな笑い声。その中で時折聞こえる仕話題は、が入る事の出来ない世界だ。
 其処にルシフが、億劫もなく毅然と佇んでいる。
 当然ではないか、彼は街でも名のある商人であるらしいのだから。何度も苦汁を味わい、苦境を乗り越え、地べたから這い上がってあの場所にいる。同じ位置にあっただからこそ、どれほど大変な事か分かる。
 かつての薄汚い野良猫は、もう、何処にも。

(前から、知ってるじゃない)

 あの市場で、身一つで投げ出されたを拾い上げたのは、他ならぬルシフだ。薄暗く影を落としたステージの外で浮かび上がった、真っ白な猫が、を競り落とした。
 その理由を彼に尋ねても、決まって曖昧に誤魔化され、ただルシフが買ったという事実のみが残された。それなのに、の好きにさせたり、には過ぎたものを与えたりして、知りたくて仕方無い理由が増えてゆく。けれどきっと、の疑問は……さした問題ではないのだろう。

(前から、知っていたのに)

 今の互いの立場がどれほど違うのか、知っていたのに――――昔みたいに接し合える事が、あんまりにも嬉しすぎた。多分きっと、自覚する以上に、浅くない所で。
 ルーアの言葉は、浮かれていたの心を、元の位置へと呼び戻した。



「――――どうした、

 考えに耽っていたの頭上に、聞き慣れた静かな青年の声が響く。何時の間にやら、の隣にはルシフが佇んでいた。

「な、何でもない。ちょっと休憩してただけだから」

 巡っていた思考が嗅ぎ取られないよう、は笑みを繕う。話は終わったのかとルシフに問うと、一通りの話は聞いてきたという言葉が返ってくる。詳しい内容までは聞かないが、有意義なものであった事はその目を見れば分かるというものだ。

「もうしばらくしたら、この夜会も終わるだろうな」

 ルシフは時計を確認し呟く。そうか、もうそんなに時間が経過していたのか。ほんの少しだけ、の中には名残惜しさがあった。きっとそれは、終わる夜会に対してではない。

「楽しめたか?」

 見下ろしてくるルシフのオッドアイへ、は微笑んだ。ガチガチに緊張していた当初に比べれば、ずっと解れて柔らかな仕草だろう。

「……あのさ、ルシフ」
「ん?」
「――――ありがとうね」

 呟いたへと、ルシフの視線が今一度下りる。

「色々と用意してくれて、連れてきてくれて」
「……俺がそうしたかっただけだ」
「うん、そうなんだけど、でも、うん」

 ありがとうね。は、ゆっくりと呟いた。感謝の言葉を、そっと噛み締めるように。
 ルシフは視線を外し、やっぱり「楽しかったならそれで良い」と静かに応じていた。けれど、の足首には、柔らかい尻尾が巻き付いている。多分きっと、機嫌が良い証なのだろうと、は思っている。足首をさわさわと撫でる優雅な尻尾の感触を、小さく笑いながら受け入れる。


 ありがとう――――最後に、一番良い思い出が出来た。


 声には乗せず、心の中で告げた。
 再び差し出されたルシフの腕を、は自然に取り彼に連れられホールを歩く。
 ある一つの決意を抱いたは、それから夜会が終わるまで、じっと見つめていた。何の違和感もなく夜会に存在する、美しい白猫の姿を。


 多分きっと、こんな風にルシフの腕を取る事はもうない。