06

 茶トラの猫獣人の男性、シズの店を出た時、既に時刻は正午を回っていた。
 シズの持つ親しみ易いユーモアさは猫特有のマイペースさもあって、いつの間にやら中々楽しい時間であったとは思う。年上に対するものとは思えない砕け過ぎたルシフの猫パンチと、慣れたようにかわしながらなお構い倒すシズの絵面が、一番愉快であった。
 不思議なリズムがあるんだよなあ、猫って。
 妙に実感しながら、とルシフは店を去った。「楽しみに待ってろよー」と、明るく手を振るシズに見送られ、二人の足は通りを進む。

 時刻が正午辺りという事もあり、街は行き交う人々で活気づいている。元々、異種族達――勿論、人間もこれに含まれる――が偏りなく暮らす街という事もあって、確かにの視界を通り過ぎてゆく人々は様々な種族が居るように思う。しかし、とルシフの奇妙な関係を築く人々は……きっといないだろう。或いは、いたとしてもごく少数だろう。そんな事を片隅でほんの少し思いつつ、は改めて街の風景を見渡していた。
 そういえば、こうしてまじまじと街の中を見る事が、此処に来てから無かったような気がする。見事に引きこもりね、と内心笑いつつ、賑わう空気を吸い込んだ。

「なんか小腹も空いたなー。食い物でも買いに行くか」

 告げたルシフに従って、は彼の隣を歩んだ。通りに立ち並ぶ店の一つで、包んで貰ったミートパイと飲み物を購入し、街中にあるという広場へと足を運ぶ。ルシフはあまり人の行き交う真ん中で食べるのは好きではないのか、広場の外側に佇んでいる樹木の下にまで移動した。
 地面は芝生が覆っている。足を伸ばして座ったルシフの隣へ、もスカートを丁寧に撫でつけふんわりと広げて座る。

「大きな広場だね。人もたくさんだし」
「昼時はな。ほら」

 ルシフより小袋から差し出された飲み物と包みのミートパイを、は受け取って膝に置く。店の人は簡易ナプキンも入れてくれたらしく、それも広げておいた。

「あ、手洗ってないな」
「汚いなー」

 と笑いながら、互いに気にせずそのままミートパイの包みを開く。貴族令嬢じゃないんだからと、は全く気にもしない。出来たてらしく、ミートパイは温かくほかほか、生地もサクサクしている。それにかぶり付いて、サクリと音を立てながら頬張った。

「んッ美味ひい!」
「だろ、あそこの店の美味いんだよ」

 ぺろり、と口の周りを一舐めし、ルシフは二口目をかじる。外見は洗練された美しい白猫でも、そうやってガッと大きく口を開け牙を剥き出す仕草はいかにも獣っぽい。も大きく口を開けて続いて咀嚼し、ミートパイを味わった。
 昼過ぎの広場には、親子連れや、寛いでいる人々が各々自由に過ごす、憩いの場の風景が広がっている。楽しそうな笑い声を響かせるその空気は、とルシフの座る場所には無いけれど、物静かな穏やかさは非常に心地良かった。背後に佇む樹木は新緑色の葉を茂らせ、そよ風に合わせ細やかな枝を揺らしている。頭上から響く音色は、耳にも優しくとても清々しかった。
 丁度、頭上の葉の茂みから陽の光が注ぎ、暖かい陽だまりが出来ている事も要因だろう。言葉にし難い心地よさは、の心を落ち着かせる。ミートパイと飲み物を全て平らげ、ゆったりと芝生に座るは、自然と呟いていた。

「そう言えばね、まじまじと街を見たのは、初めてだったかも」

 陽だまりの光が、広がったスカートを照らす。

「ルシフは、この街に来て長いの?」

 木陰の白猫の頭が、へと向いた。陽だまりの光が当たり、殊更に純白を感じる。その毛が全く見えないほどに汚れていた野良猫の姿と、どれほど違っていてもやはり同じ面影がある。

「……そうだな、それなりに長いかな。正確な日数は覚えていないけど、少なくとも五、六年以上は経っているはずだ」
「そっか。そういえば、ルシフって今は何歳だっけ」
「二十一」
「私は今十八歳だし……やっぱり年近かったね。という事は、商人になってからは? 長い?」

 質問を浴びせるへ、ルシフは不可解そうオッドアイを瞬かせた。「そんな風に聞くのは、初めてだな」呟いた彼の声は、珍しく驚いたような響きが含まれている。確かに、がこうして改めて尋ねたのは、初めての事かもしれない。自身も己の自然さに、少し可笑しくなった。

「不愉快だった?」
「いや、そういう訳ではないけど」

 ルシフは空になった飲み物の容器などを小袋に片付けると、両手を叩いてごみを払う。

「商人と名乗る事を許されてからの期間は、まあ短いだろうな。あの場所から此処に這い上がるまで、下積み時代の方が長い」

 涼しげな白猫の横顔だが、一言で済まないほどの苦境を乗り越えただろう事は、にも想像ついた。まして、二十一という年齢だ。

「……気付いていると思うけど、俺は孤児院のあった街の……スラムで生まれ育った獣人だ」

 語り始めたルシフの言葉に、は耳を傾ける。

「世間体では開発途中の区画だったが、名ばかりのスラム街で生まれ育った。気付いたら親なんてものは居なかったし、悲しいとか辛いとかそもそも分からんから別に困ってはなかった。あの薄汚れた毛が自前だと思いこむ程度には、まあ良い生活していたよ」

 ルシフは、冗談を混ぜて笑う。

「で、街の外れにあった孤児院は、俺達のような浮浪児には優しいからなー。たまに食い物をねだりに行ったりしてたんだが」

 ルシフの猫の目が、を不意に見た。

「孤児院の外で、めそめそ泣いてる女の子どもと会ってからは、遊びに通ったりしたかな」

 は苦笑し、吹く風に揺れた髪を撫でつけた。孤児院の外でめそめそ泣いていた子が、今も昔も唯一の自慢である透き通った蜂蜜色の髪が木漏れ日に光る。

「そう、やっぱり、スラムの子だったんだ」
「軽蔑するか?」
「何で? 私も孤児だもの。泥まみれだったのは、私も一緒だよ」

 そうか、と声を漏らしたルシフは、何処となく安堵した様子でもあった。動いた拍子に木漏れ日の光を浴びて、青と金のオッドアイが煌めく。お空の青とお花の色と、小さかったが覚えたオッドアイは、相変わらず綺麗だ。
 は少しの間笑みをこぼしたが、ふと、息を落ち着かせて告げた。

「……そんなルシフも、今や立派な商人さん。時間は流れるものだねえ」

 しみじみと、は思った。横に座るルシフから何か物申したそうな視線を感じたけれど、は微笑むだけに留まる。

「ルシフは、どうして商人になろうと思ったの?」

 そうして尋ねたの疑問に、ルシフはほんの少しの沈黙を挟んだ。返ってきた言葉は「さあね」と相変わらず曖昧にぼかしているけれど、呟く声は普段よりもずっと低く響いており。

「欲しいと思えるものを手に入れるにはどうするか考えた時、俺でも到達出来そうなのがそれしかなかったから、かな」

 そよ風の音や、揺れる木々の葉の音の中に、不思議な存在感を残すような、声音だった。
 そっか、とは呟いて、ルシフから視線を外し前を見る。

「大変だったでしょ? 商人になるなんて」
「楽ではなかった。血反吐を吐くような思いもした。けど俺は、おかげで」

 ルシフの言い掛けた言葉は、全て告げる前にそよ風に消えてゆく。
 おかげで。
 その後に続くはずだった、飲み込まれたルシフの言葉なんて、が分かるはずもない。ただルシフが、こうなるまでに大変な苦境を味わったという事と、白猫の優雅さが違和感ないほどに美しくなったという事だ。

「……あ」

 小さく声を漏らしたは、思わず吹き出した。ルシフの口の側に、パイ生地の破片がくっついていた。

「ふふ、ルシフ、ついてる」
「ん? 何処」

 ぺたりと口元を拭うが、残念ながら反対側だ。笑みを深め、は身を乗り出す。伸ばした腕が、木漏れ日の光に染まり、ルシフへと向かう。

「ここ、ほら」

 薄いピンクの鼻の横に、伸びた細いしなやかなひげ。それをすり抜けた指先は、ふわりと頬の毛を摘む。パイ生地の破片はそのまま地面へ落としたが、伸びた指は離れなかった。

「わ、ふわふわ!」

 人と同じほどの大きさと変わらない白猫の顔は、その顔を覆う短毛の通りにふわふわだった。そりゃあパイ生地もつくという訳である。柔らかな毛の感触に驚きながらも、その心地よさについ両手を出し顔をぱふっと挟んだ。

「ちょ、おい」
「昔触った時は、ごわごわ土まみれだったのに」

 ふかふか、ふかふか。手のひらで押したり緩めたりし、その感触を楽しむ。ていうかこれ、私の髪の毛よりさらさらふかふかしてない? ずっるい!
 ぐいぐいと距離を詰めて頬を包むに、ルシフはたじろぎうろたえる。涼しいオッドアイが珍しく泳ぎ、落ち着き無く三角の猫の耳が跳ねていた。は小さく笑いながら、ふっと、呟きをこぼす。

「……すっかり、綺麗になっちゃって」

 ルシフは動きを止めると、泳ぐ視線をへ定めた。何を言っているんだと、呆れたオッドアイが物語っている。

「……雄に言う台詞ではないな」
「でも、そう思う」

 まじまじと眺めた白猫は、やはり美しい。細いしなやかなひげも、開いたオッドアイも、シュッとした輪郭を覆う柔らかな白毛も、ピンと立った三角の耳も。大体、私の髪の毛より手触り良いもの。するり、と頬をなぞるように指先を動かすと、の前でルシフのオッドアイが細められる。

「……人の我慢も知らないで」
「え?」

 ぱふぱふと顔を挟む事に夢中になってしまい、小さな呟きをうっかり聞き漏らした。何て言ったの、とは尋ねたが、ルシフは答えない。代わりに、細めた瞳がゆるりと瞬いて、顔を動かした。頬を包むの手のひらへと口元を移動させると、次の瞬間――――べろりと、舐め上げた。

「うひゃ?!」

 は反射的に、手のひらを引き剥がし腕を引っ込めた。驚くあまり目が真ん丸に見開かれ、唇を何度も開閉させる。何か、今すごくザリザリしたものが。素っ頓狂に座り込むの前で、ルシフは何食わぬ顔で鼻を鳴らす。何処かふてぶてしい態度であった。例えるならば、不満げな子どもような。

「な、何で急に機嫌悪くなるの?」
「さあね。その無い胸に聞いてみな」
「無いむ……し、失礼な、人並みにはある!」

 ……ん? これは、男に主張する事か? は己の胸に手を当てながら、首を傾げる。
 ルシフは呆れながら立ち上がると、ぱたぱたと土や草を払い落とす。「さて、帰るよ」は頷いて立ち上がり、同じようにスカートから土等を払い落とす。ついでにごみもきちんと拾い上げ、広場のごみ箱に捨てて行く。

「あ、そうだ、ルシフ」
「何」

 帰路につく途中、やっぱりは尋ねた。

「氷の商人とか、匂いつけとか、何のこ――――」

 ゴキンッと、の首筋から盛大に音が鳴った。
 結局あの単語の意味を、ルシフは語ってはくれなかった。決して。


◆◇◆


 さて、時間の経過はあっという間なもので、気付けば日は流れ。
 ルシフとの約束の日――――職場の夜会が開かれる日が、ついに訪れた。いや、訪れてしまった、とも言うべきか。
 この間、は作られる服の調整などで何度かシズの店へ向かったが、そのたびにこれからやってくる出来事の現実を味わい「どうなるんだろうなあ」と不安にさせられたものだ。だが、此処までくるともう腹に気合いが入るというか、諦めが達観の域に到達するというか。始まってしまえば後はもう終わるだけだという、淑女とはほど遠いところで落ち着いていた。
 しかしながら、まあ。

「本当に、本当にどうなっても知らないからね?!」

 言い訳がましく、何度もルシフへ言い募っていた。ルシフは聞いてるのか聞いていないのか定かでなく、返ってくる言葉は「はいはい分かった分かった」「別に気にしない」である。その気にしないが指すものは、恥をかく事か、それともを隣に置く事なのか……。ああ、本当にどうなるのか分からない。当日を迎えてから思っても、仕方のない事ではあるのだけれど。

「改めて言うけど、今日の夜会は夜の六時から始まる。主に俺の所属する商会の面子の親睦会で、あとは付き合いが特にある店の人達と余所の商人が少々参加する。普通に飲み食いして過ごすから、格式張ったものはない」
「う、うん」
「……顔が硬いな」

 硬くならないわけがない。恐らくはが自覚する以上に強ばった顔をしているだろうけれど、ルシフはオッドアイを瞬かせて対照的にゆったりと構えている。何の緊張もない様子から、度胸の違いを見せつけられた気がした。

「――――いいか、

 呼ばれて顔を上げると、の眼前に白い手が伸びてきた。何をされるかと思えば、白く長い指で頬をむぎゅっと挟まれていた。容赦なくたらこ唇にされ、「んぶう」という間抜けな声と共に空気が抜けてゆく。

「あんたは何かを身構える必要はない。ただ……俺の隣に、立っていれば良い」

 告げたルシフの涼やかな声は、普段よりも真剣みを帯びていただろうか。不安に揺れるの心に、すうっと溶けるように響いた。は己を奮い立たせて頷いたが、半分以上はかなり強がりでもある。
 透き通った蜂蜜色の金髪が揺れるのを見て、ルシフのオッドアイが細められる。頬を挟み込んだ白猫の指先が緩まり、頬となぞるように滑りながら、ゆっくりと離れた。その感触にぞわりと背が震える。

「じゃ、シズさんのところに行って、まずは身なりを変えて貰うとしようか」

 その後、とルシフは共に、茶トラの猫獣人――シズの店へと向かった。
 丁度時刻は、日が傾いて夕暮れを迎える頃。夜会という名の交流会が始まるまで、残り数時間である。