05
膝の上に乗せて広げた大きな衣服に、ちくちくと針を通す。ほつれないよう、切れないよう、念を込めながら糸を縫いつけてゆく。裾をきっちりと直したら、今度はボタンを付け直す作業だ。緩んでいた箇所の糸をぷつぷつと切り、しっかり丁寧に取り付ける。その作業を全て終えた後、は満足げに息を吐き出し、針を針山へ戻す。膝の上に置いた衣服を、両手でそっと持ち上げて目の前に広げてみた。家主の身を包む仕事着のコートは、完璧な修繕をされている。我ながら上出来だと自画自賛しながら、は満足し頷く。
「――――ほら見て、やる前とやった後じゃ歴然でしょ!」
は胸を張り、顔を横へ向ける。隣のソファーに腰掛け本を開く白猫の獣人は、文字を追う方に興味の天秤が傾いているようで「へえー」と気の無い返事が返ってくる。背後に見える尻尾も、先端がぴくりと揺れるだけ。
自分が着る仕事着なのに、興味うす。相変わらずのずぼら加減だと、は小さく笑って肩を竦める。この街で活躍する商人な上に、とても綺麗な白猫なのだから、少しは頓着しても良いだろうに。服自体は上質なのだから、色々と勿体無いと思う。
もっとも、多少ずぼらでも綺麗な白猫という点は、決して揺るがないのだが。
はルシフの紺碧色のコートを腕に抱え、丁寧にその表面を撫でて整えた後、背凭れに掛ける。やっぱり、仕事と趣味も兼ねていた裁縫は落ち着くと、は満足げな息を吐き出す。彼女の目の前には、先日家主より賜った裁縫道具一式を納めるアンティーク箱が開かれていた。
3000セスタの借金を5000セスタ(想像)くらいに引き上げる偶因となった格式高い裁縫箱も、使い始めてしまえばの思考をあっさりと引っくり返した。育った環境のせいか、元々多少の細かいところは気にしない性格なので、「もういいや、これで頑張って金額分の働きをしよう」という考えに変わるまで時間はさほど変わらなかったのである。むしろ、これからがの本領発揮とも言えよう。手始めにルシフの衣服を整えたら火がついてしまい、その勢いのままあっちをやってこっちをやってと行動してしまった。気づけば、仕事半分楽しさ半分、だいぶやらかしてしまった後だった。あれほどあった躊躇いが、嘘のようなフル活用っぷりである。
ルシフも途中から、「好きなようにしたら良いよ」とひげを垂らして若干諦め顔であったような気がする。
しかし気付けば、その過程のおかげなのか、とルシフからそれまであった強張りが薄まっていた。いつの間にか、はルシフへ軽口を叩けるようになっており、ルシフもその遠慮の無さに親しみが滲むようになっている。それはさながら、過日の野良猫と少女のやり取りのよう。元から双方の性質が似ているからだろうか。
距離が埋まる分だけ、買われた者と買った者という現実が重くへ圧し掛かるのに、あの日のように在る事が存外――――いや、ある種の必然のように、にとっては嬉しかったのだ。
忘れてはならないと言い聞かせるへ訪れる、心が溶けるように温かい昼下がり。仕事が休みなルシフの居る家は、穏やかな空気が流れていた。
「あふ……」
は、欠伸を一つこぼす。無心になってちくちくと針を通していたが、日溜まりの暖かさについ眠気が差す。手元を明るくする為に、ソファーを引っ張り窓辺で作業をしていたせいもあるだろう。
暖かいなあ。
一度作業を止め、目元を擦る。隣からは、ルシフのページを捲る微かな音がする。たまの休み、商人でさぞ忙しいだろう彼がのんびりとするのは構わないのだけれど、余計に眠気が煽られるようだった。これから夕飯を作るという仕事があるのに、と使命感じみた事を思いながらも、はあっさりとうたた寝に落ちていった。
そして、ハッと唐突に意識を戻した時には、凄い状況になっていた。
眠りこけてしまったの隣には――――何故か一緒になって、ルシフが寝ていた。しかも丁度良く、の頭に己の頭を預けて。
「……」
何だろう、この体勢は。全く気付かなかったが、一体いつの間にルシフは。
身動ぎ一つ出来ないまま、はしばし疑問に困惑した。腕だけをそろりと持ち上げ、口元を拭う。よし、涎は出ていない。いや其処を気にしている場合ではないけれど。
夕飯の支度をしたいし、裁縫道具を片づけたいが……。
の頭上から、小さな寝息が聞こえる。寄りかかる頭や身体は、重いと言えば重いが、それ以上にが感じていたのは。
(……あったかい)
獣人はきっと、人間よりも日光の温もりを逃がさない身体なのだろう。毛皮の関係などで。柔らかい日差しの注ぐ窓の近くは、普段よりもずっと暖かくて、ふかふかのクッションか何かに包まれているような錯覚もする。困惑していたの瞳は、ふっと緩んで仄かに瞼を落とした。
「……ま、いっか」
小さく笑うの視界に、長い足と、己の足に巻き付く尻尾が映る。
ほんの些細な、何て事ない子どもの口約束。薄汚い猫の少年に乞われ、満面の笑みで頷いた孤児の少女の足にも、同じように尻尾が巻き付いていた。
いつか俺に、何か作ってよ――――ルシフはあの約束を交わした次の日辺りから、忽然と姿を消したけれど、それまではほぼ毎日一緒に遊んでくれていた。雨の日まで一緒に出て、泥水でずっこけて鼻の頭どころか全身を汚し、互いに笑い合っていた。今思い出しても、女の子らしかぬお転婆だったかもしれない。少年といえど獣人のルシフは、身体を動かす事に関しては大の得意で、が勝てた事は一度も無かった。負けん気の強さで彼を追いかけていたのだろう。
普段は何でも言い合う友達のようだったが、年はそう離れていないものの彼の方が年上で、たまにお兄さんのように「仕方ないなあ」と笑いぐずるを背中におぶってくれた時もあった。恥ずかしくて足をばたつかせたが、はそれがとても嬉しかったのを今も覚えている。
そんな薄汚い少年が、今では驚くほどに垢抜けて、端正な白猫の青年だ。
日溜まりのような暖かさに包まれているせいか、過日の記憶が想起される。互いに同じ立ち位置だった懐かしい思い出は、今、掴んだままで居て良いのかも定かでないのに。互いに頭を預け、肩を預け、腕を寄せて足を並べ、これだけの距離でありながらもの心だけが遙か遠くにあるようだ。
ルシフは、大金を払ってを買った理由を、決して言わない。
住み込みの家政婦のようなポジションとはいえ、の身辺を整えてくれる理由を、決して言わない。
言うとすれば、俺がそうしたかったから、というただの一言。だってそう言われたって、気になるのは全く変わらないのに。彼は、決して、へ明かそうとしない。何故だろう、昔のように振る舞えと言ってくれるのであれば、彼もその通りにしてくれたら良いのに。
……なんて、ルシフに何か不手際があるわけではなく、が踏み込めないだけだ。
どれだけあの頃のように近付いても、爪先が越えられない、僅かな線を。
「……何で、私なんて買ったんだろ。今のルシフなら、好きなものを何でも手に入れられるだろうに」
そう考えながらも、窓辺と白猫の優しい温もりに、眠気が再び戻って来る。瞼は緩やかに下降してゆき、の意識は日溜まりへと溶けてゆく。
日溜まりの、雑草と野良猫。今だけはなんて、思っている事もどうか溶けて、次の瞬間には消えているようにと願う。
浅い眠りに落ちたの隣で、いつの間にか白猫が起きオッドアイで寝顔を見つめていた事など――――は当然、気付かなかった。
◆◇◆
さて、の仕事に裁縫が加わって、幾日か経過した。
いつものように、夕暮れ時に仕事場である街の商会から戻ってきた家主を、メイド服のスカートを翻しは出迎えた。お帰りなさい、と玄関にまで向かって、コートを受け取り、準備した夕食を共に取る。最近ではも、この流れを何ら違和感なく受け入れられるようになっていた。
そしてこの日、食卓でルシフはへこう言った。
「再来週辺りに、商人同士の夜会が開かれるから」
息をするような、ごく自然な言葉だった。
此処に来てから初めて聞くものであったけれど、スープを飲み込んだは特に疑問もなく「そうなんだ」と返す。
商人の仕事ぶりは、まだまだ知らない事が多いとはいえ、夜会という単語くらいは覚えもある。商人同士の、親睦会のようなものだろうか。或いは、情報交換会か。
「夜会かあ、凄いね」
「行きたかないんだけどね、そういう集まり事って」
本当に遠慮が無いなあ。は苦笑いをこぼす。妙に明け透けのない物言いは、がよく知るルシフである。さすがに仕事中はそれに相応しい立ち振る舞いと喋りをしているのだろうけれど。
「今回は知ってる奴が多いし、ただの親睦会になりそうだ。出来れば行きたくないんだけど……ま、仕方ない。今回行ったら、しばらくは引っ込んでるって言っといたし」
「そう、大変だね。そういうのも仕事の内って言うしね」
ルシフは面倒そうに肩を竦めている。三角の猫の耳が、煩わしさを払うようにぱたりと跳ねる。そういう仕草も決して見苦しくないのだから、白猫の優雅さは羨ましいものだ。
「二週間後くらいかあ、その時になったら教えてね。その日は、ルシフの夕飯は用意しなくて私の分だけだし、準備の手伝いも出来る範囲でやるし」
がそう言った途端、白猫の頭が傾げられ、胡乱げな眼差しが注がれた。何言ってんの、と言われたの方こそ、一体何を言っているのかと驚く。
「だって、夜会なら、ルシフは夕飯要らないでしょ」
「そりゃ要らないけど。……ああ、あんた、何か勘違いしてないか?」
蒼と金のオッドアイが、笑みを含んで細められる。
「夜会には、あんたも連れていくよ」
「ゴッホッ!!」
その瞬間、は盛大にむせた。
何言ってんのこの猫! だ、誰を連れてくって?!
冗談だろうとはルシフを窺う。だが、その猫の顔は、悪戯に笑ってはいるが虚実であるとは言わなかった。
「だ、駄目に決まってるじゃない!」
「何で」
「何でって……」
あまりの軽さに、気勢が削がれるようである。指から滑り落ちそうになるフォークを置き、改めてルシフを見る。
「別にそんな堅苦しい集まりじゃない。顔馴染みの奴らが多いし、本当に飲み食いするだけだし」
「で、でも」
ルシフにとっては些細な集まりであっても、にとっては一大事である。
「だ、駄目だって、そんなの。私は……絶対に、邪魔をする」
「邪魔って?」
「ルシフも知ってるでしょ。色んな所で働いてたけど、孤児院育ちの下働きだよ、私」
育ちの悪さと足癖の悪さは、自負している。不作法な事をして、ルシフの心象を悪く貶めるような事はしたくない。
はそう言って視線を下げたけれど、目の前のルシフときたら素っ頓狂にオッドアイを丸くして、瞬きをしている。ちょっと可愛いのが悔しい! 白猫の頭なのに!
「……心配、してんの? 俺の事」
「当たり前じゃない。商人って噂とかイメージとか、大事な仕事でしょ。私は、それを悪くしたくないもの」
ただでさえ、3000セスタ……いや5000セスタの借金があるのだから。これ以上の邪魔をしたくないと思うのは、当然の事だろう。
は真剣に言っているのに、ルシフは「そう」とただ一言呟くと、口元を覆うように頬杖をつく。忙しなくひげが動き、口元が上機嫌に緩んでいた。何でちょっと嬉しそうなのよ、こんなの隣に置く事が一大事なのに。
むうっと声を漏らして見つめると、ルシフはハッとなったように意識を戻し、咳払いをする。何かを誤魔化すような仕草だ。
「変に気を使ってんのかもしれないから、教えてあげよう。俺の顔馴染みの同業者や交流のある奴らは、俺が小さい頃スラムで泥まみれに暮らし、のし上がってきた事を知っている」
「……つ、つまり……?」
「俺の元の育ちの悪さと足癖の悪さを受け入れてる奴が、あんたを拒む理由がないって事」
そう告げて笑う様は、孤児院の絵本にあった物語に出てくる、悪い獣のようだった。は言い詰まり、視線を泳がす。
「だ、だからって、何で急に私……どうせ連れて行くのなら、例えばもっと振る舞いがしっかりした綺麗な人の方が」
「――――冗談じゃない」
全て言い終える前に、ルシフの声が割り込んだ。
「それは、冗談じゃないな」
怒りではない、けれどそれに限りなく近い、強い感情を湛える声は低く響いた。少しびっくりして、は明るい茶色の瞳を真ん丸に見開く。素っ頓狂な面持ちをそのままに、どうして、と息遣いで呟く。
ルシフは何かを言いかけた。けれど、その口を閉じてしまい、言葉の代わりに吐息を漏らす。
いつもそうやって、へ告げるはずの声を飲み込む。言ってくれたら、それだけで良いはずなのに。は少しの不満を覚える。
「……ともかく、あんたが良いなら、その日の夜会には少しばかり付き合って欲しい」
しばらく視線を逡巡さてたであるが、小さく息を吐き出し肩を落とす。結局のところ、に断る術と理由などない。せめてもの反抗に、少し唇を尖らせわざと視線を外した。
「……こんなのを横に置いて、後でどうなっても知らないから」
言えた立場ではない悪あがきに、ルシフは何と言うか。やっぱり止めた、と言ってくれれば良かった。だが、の耳へ聞こえたのは、笑みを含んだ息遣いだった。
「――――上等だよ。むしろ、そうなるのも悪くない」
くつくつと楽しそうに震える、ふっくら柔らかな毛を蓄えた白い喉。そろりと視線を伝い上げると、いやに嬉しそうな白猫の顔とぶつかった。瞬いた青と金のオッドアイが、妙に上機嫌に煌めいている。
斜に構えた生意気な仕草なのに、その優雅さが僅かとも狂わないのだから、やはりずるいと思う。何をしたって、綺麗な白猫だ。
本当、どうなったって、知らないから。
はそう思いながらも、ルシフをそれ以上突っぱねられなかった。妙に機嫌の良い彼を見て、どうしてそれをわざわざ壊せようか。
しかし、それから数日後の事。はルシフの《本気》を再び垣間見る事態に遭遇する。
ある朝、ルシフは起きてくるなり「今日は休みだから」と告げた。勿論、毎朝の恒例になっている、わしゃわしゃとの蜂蜜色の金髪を掻き混ぜ、もみくちゃに抱きすくめた後にである。身なりを整える暇もなく、はぐしゃぐしゃの頭で頷いた。
じゃあ、予定がちょっと変わる事になるのかな。仕事の段取りを脳内で組み替えるへ、次いでルシフは宣言する。今日は出掛けるから、と。
「ふうん、そっか、分かった。気をつけてね」
「……いや、俺だけじゃなくて」
呆れ細められたオッドアイが、を見下ろす。蒼と金の双眸に映るは、「ほ?」と間の抜けた表情をしている。
「も行くんだよ」
へえ、私も……うん? 私?
は目を丸くし、驚きの声を唇から漏らした。私も、一緒に? そんな風に全く思ってもなかったから、殊更にその言葉は繰り返される。
「何でそんなに驚く。別に、行動の全てまで制限するつもりはない」
ルシフは不意に腕を伸ばすと、の両肩を手のひらで掴んで引き寄せる。長いその指は、猫らしいしなやかさを有していた。
「この範囲でなら、俺はとやかく言わない」
「この範囲」
「そう、この範囲」
ほぼ直角に起こした顔の先には、白猫の顔が覗き込んでいる。
この範囲、という意味をは考えていたが、ルシフは「ともかく」と話を続ける。
「一緒に出るから、そのつもりで。後で服を着替えてきな」
「う、うん。あの、でも、何処に……」
尋ねるへ返ってくるのは、ルシフの悪戯めいた笑みであった。瞬いたオッドアイに、何かを企んでいるような気配が宿っている。
そして、言われた通りにメイド服を脱いで、白いシャツと紺色のロングスカートに身なりを変えたは、ルシフに連れられ街中へ移動していた。人と異種族が均整に暮らす中立地らしい、賑わいを見せる街の風景に視線を巡らせるの隣を、ルシフが涼しげな顔で歩を進める。優雅な長い尻尾に足を掠められながら、辿り着いた場所は。
「……衣料品店……?」
商店の並ぶ大通りから、少し離れた場所に佇む建物。扉の上に掲げられたその名の看板の通りであるけれど、何故、衣料品店。小首を傾げるを、ルシフは連れて店に向かって歩む。通い慣れた場所であるのか、軽やかに扉の向こうへと踏み入れた。
「いらっしゃい……ああ、ルシフ! 待っていたよ」
白い壁と天井で、明るく華やかな印象を受ける店内だった。肌色の木材を使った床もそれを一段と明るく膨らませ、清楚だけれどとっつきにくい雰囲気ではない。
そしてその奥から、身長の伸びた獣人の男性が近付いてきた。ルシフと同じ、猫の頭部をした獣人だ。混じり気のない純白の無地の毛色をしたルシフとは違い、こちらは茶色の縞模様を持つ猫の獣人である。毛色と模様一つで、雰囲気がだいぶ違う。ルシフはシュッとして見惚れるような美しさだが、この男性はふっくらとした毛質をしている為か不思議な親しみが持てる。
ルシフも気さくに応じる辺り、この衣料店の人物とはかなり親しい間柄のようだ。ルシフはこの優美な外見でわりとずぼらであるが、洋服の店の人と親しいとは。少し意外だと思いながら、はルシフと茶トラの猫の獣人を静かに見上げた。
二人は少しの間言葉を交わし、それから改めてを見る。
「ようこそ、いらっしゃいました。俺は店主のシズです」
なんと、店主だった。いや、そんな感じがしていたけれど。
「俺のいる商会と懇意にしてる店主だ。まあ悪い奴じゃないから、覚えといて損はない」
「よく言うよー。何度も協力してやってる友達なのに」
ルシフの言葉に全く動じず、カラカラと声を笑わす。猫の頭部だと今一つ年齢だとかが判断つかないが、声音と寛大さから、やルシフよりもずっと年上であるという事は察する。
「まあ……世話になっている人ではある。シズさん、こっちは」
は小さく微笑み、礼をする。茶トラの猫獣人――――シズは、ふと何かに気付いたように瞳を丸めた。
「へえ……なるほどな、君が」
「えっ? あの、私の事……?」
はきょとりとシズを見上げる。だが、不意にハッとなる。ま、まさか、人間を買ったという事実が知人に広がって……?! 思わず肝を冷やしたけれど、シズの興味深そうな笑みの理由は、それではないらしく。
「この白猫を知る奴らの間じゃ、噂になっている。氷の商人と有名なルシフが、最近、妙に機嫌が良くて行動が変わったってな」
「え……?」
「へえ、もしかして、君がその原因かな」
氷の、商人? 何それ。初めて耳にした言葉だった。
途端、の隣に立つルシフが慌てたように「シズさん」と声を挟み、遮った。
「ところで、頼んでいた件ですが」
「くっく……聞かれたくないってか? ますます興味深いな」
上機嫌に尻尾を立て笑みを浮かべる茶トラの猫へ、優美な白猫が冷たく視線をやる。が、あまり効いていないようで、その笑みは崩れずを見下ろしている。
「あの、氷の商人って――――」
「」
真横から、白い大きな手が伸びてくる。が反応する間もなく、グワシッ! と顎を掴まれ、両頬にルシフの指先が埋まった。ついでにそのまま横を向けられ、首筋がゴキッと嫌な音を奏でる。
見た目の繊細さに反し、とんでもない力でぐりぐりと顎と頬が摘ままれる。ちょ、いってェェェ! 頬肉がごりごりいってる! は文句を言ったが、たらこ唇にされた其処からは不明瞭な声しか出ない。非常にかっこ悪い訴えになった。
「いひゃ、るひ、むご」
「即刻忘れろ、その単語は」
「むごごご」
「ひっどい顔だな何言ってるか分からないし」
あんたのせいだよ! と言ってみても「むごお」にしかならなかったので諦めた。顔を掴む白い手をぺしぺしと叩くと、ようやく離れていった。ちょっとこれ大丈夫? 指の跡ついてない? はルシフを睨んだものの、風のようにすり抜け受け流されてしまった。
そんなとルシフのやり取りを眺め見ていたシズは、空気を吹き出し笑った。
「へえ、お前のそんな砕けきった態度、初めて見た」
「シズさん」
咎めるような視線をルシフから貰い、シズは肩を竦めたもののふっくらした茶トラの猫の顔は変わらず笑っている。
「じゃ、とにかく始めましょうかね。さん、こっちに」
はて、何をするつもりなのか。は頭の上に疑問符を舞わせ、ルシフとシズを見比べる。その様子を見てようやく思い出したように、ルシフが「ああ」と声を漏らした。
「シズさんの店は、オーダーメイドで服の注文も受ける。用の服の採寸を、これからして貰う」
「さ、採寸……? え、何故に」
「こないだ言っただろう、夜会があるって」
言ったけど……ちょっと待て、まさか。見る見る目を丸くさせるへと、ルシフは何て事のない顔つきのままに爆弾を投下した。
「あんた用のドレスを作らせる」
「な、何言っちゃってんのよー! ド、ドレスって、なん」
堅苦しい集まりじゃないって言わなかった?! 思わず批難するように見上げると、ルシフはやはり涼しげな白猫のお顔のまま続ける。
「身内が多いとはいえ、余所の商人も招いてだから。まあドレスコードってやつかな、暗黙の」
「そ、そ、そんな」
「あんたの頭の中にどんなドレスがあるかは知らないけど、そう大仰しいものじゃない。ほら、礼服みたいなやつだ」
そうは言われましても。既にの頭の中はぐるぐると回っている。
ルシフは、蒼と金のオッドアイを瞬かせると、ぽんっとの両肩を叩く。
「自分で頷いたよな? 俺に付き合い、夜会に参加するって、自分で頷いていたよな?」
「あぐっ」
「不作法な事はしたくないとも、言っていたな。少なくともこれを着ると、一つ不安が減るぞ」
何でそんな楽しそうに追い詰めてくるのだ、この白猫は。こういう意地の悪さが、野良猫の本質だろうか。今も昔もが敵うはずもなく、項垂れる敗者と得意げな勝者の絵面が展開される。
ああ、3000セスタが5000セスタに。そして5000セスタが7000セスタに……。
増えゆく借金に想像が止まらない。小心者の元孤児には、もう、なんだ。どえらい世界であるとしか、言えない。
(……頑張れ、私)
内心で宣誓した後、気合いを入れるべく頬を叩いた。
「さて、改めて採寸だ。シズさん、お願いします」
「くっく……了解しましたよ。全く面白いもん見させて貰った。値引きしといてやる」
じゃあこっちへ、と腕を伸ばすシズへと、は近付く。が、見下ろすシズの瞳が不意に細くなり茶トラの指先が止まるのを見て、はきょとりと睫毛を瞬かせる。
「……あー、こりゃあ本当に珍しい事もあるもんだ。ルシフ、お前これは……どんだけ匂い付けしたんだよ」
「はい?」
匂い付け? また初めて耳にする単語だ。ニヤニヤと笑うシズを見上げた後、はルシフへと振り返る。
「ルシフ――――」
「即刻忘れろ、今すぐに」
何も言わぬ内に再びは頬を掴まれ、首筋がゴギンッと鈍い音を奏でた。
しかしその時のルシフは異様な気迫を滲ませていたので、たらこ唇のまま「ふぁい」と素直に頷くのであった。白猫の背後に、吹雪が見える。
……匂い付けって何だろ? 獣人特有の文化か何か?
彼らと共に暮らすものの、それぞれの種の文化は実は今もよく知らない。疑問符を乱舞させながら、は首筋を撫でて店の奥の別室で採寸を受けた。普段はお針子の仕事上、採寸を取る立場なので、誰かから測って貰うのは新鮮だった。「出来あがるのを楽しみに~」と親しみの持てる茶トラの猫の笑みに、は曖昧に笑って頷くしかない。楽しみにして……良いものだろうか。ちらりと見るルシフは、いつもと変わらない涼しげな白猫のお顔だった。
何だか、とんでもない事になってきてしまった。嵐の予感を抱きながら待つ夜会は、おそよ一週間後にやって来る。
ちなみに。
採寸を取ってくれたのが店主のシズと知るや、ルシフは激怒して高速猫パンチを繰り出していた。何故怒っていたのか、にはさっぱり分からないままである。