04

 異種族同士が均等に暮らす中立地に築かれた街に、晴れやかな朝日が注ぐ。日中様々な人が行き交い賑わう街も、朝方は静かなもので、涼しい風が街角や通りを吹く。
 少し高い所に佇んだ、贅沢にも周囲を見渡せる立地にあるルシフ宅からも、清々しい朝の景色は窺えた。
 涼しい空気を取り込む為に開けた窓辺に、は佇む。しばしその景色を眺めた後、直ぐにキッチンへ戻って朝食の支度を再開する。広く部屋数も多いといった印象を受けるルシフ宅だが、豪奢な造りというわけではなく一般家庭のそれに近い。その分、さすがは目利きに秀でた商人が選んだだけあって、内装や装飾の品々はセンスがある。ダークブラウンを基調にした床板や壁紙に添えられる、白や蒼の涼しい色合い。派手さはなく上品な色のまとまりは、針子を唸らせる。
 ……そのわりに、この家の厨房はあまり使われた雰囲気はなく、真新しさすら放っている。きっと普段あまり使う事はないのだろう。この辺りもまた、家主ルシフの性格を感じられた。立派な厨房なのに勿体無い。が使うようになって、ようやくその機能を果たしてさえいる。
 あのしなやかな白猫の外見の通りに、朝はがっつりと食さない派らしいルシフなので、メニューは基本的に身体に優しいものを選んでいる。少し冷ました野菜のスープに、チーズ入りオムレツとサラダ。あとは、トッピングした網焼きトースト。ただ、料理自体はあっさりしているのだが、パンのサイズから食器のサイズまでいちいち人間よりも大きいので、必然的に量は少々増える。猫とは言え、さすがは人と獣の性を持つ種族――獣人である。

 は順序よく仕上げ、机に並べてゆく。下働きの職に就いてきたから、この手のものには少し自信がある。一人満足げに頷き、あとは家主を起こしてくるだけだ。
 エプロンで手を拭い、身を翻そうとする――――が、突如べたりと背に張り付く温もりに、ひいっと声を上げ固まった。

「……失礼な奴だな、悲鳴を上げるなんて」

 顔だけ振り返って見上げると、今日も今朝から眩しい純白の輝きが頭上にある。すっかり美しい白猫になった、ルシフの猫のお顔である。寝ぼけているのか蒼と金のオッドアイには鋭さがなく、細いひげも先端を垂らしている。張りのある声は掠れ、の耳をぞわりとなぞるからたまらない。
 音も無く近付いてくるのは、心臓に悪いと言っているのに。ルシフは止めてくれる気配がない。
 そうしていると、の腰に巻き付いたルシフの腕がぎゅうっと力を増し、さらにの顔のあちこちへ頬擦りをかましてくれる。己の匂いを付けるように、ごしごしと熱心に。「わ、ちょ、ひえっ」と上擦った声を漏らすなどお構いなし、されるがままにルシフに構い倒された。そして、しばらくすると満足したように、何食わぬ涼しい顔で身支度に向かう。くるりと回るしなやかな白い尻尾を見送るも、何がしたいのか毎朝さっぱりだ。
 ……柔らかい毛にもふもふされるのも、嬉しいけれど。

「って、嬉しくなっちゃ駄目でしょ、私」

 ぷるぷると頭を振り気を取り直す。幾らか目の覚めたルシフはすぐに戻ってきたので、朝食を勧めた。
 猫の頭部である為、犬などとは違って常に涼しげに澄ました表情であるけれど、ぱくぱく綺麗に平らげる辺りが雄弁だと思う。作り手としては、余る事がないのは嬉しい。それからも、ルシフの正面の椅子に座って、食べ始める。本来ならばこうして共に食事を取るなど、おこがましいのだけれど……。別々に取ろうとした時、不機嫌な彼がそれを拒んで同じ席で食べるようにと言ってきたものだから、断るわけにもいかない。買い主であり雇い主であるのはルシフで、は彼に買われ雇われたのだから。
 けれど、そういう建前とは別にして、嬉しくなるが存在しているのである。
 在りし日の薄汚い野良猫から、すっかり遠く離れ美しくなった白猫。雑草のままのには、目の前の猫は――――やっぱりとても眩しかった。



 ――――働き先の上司の怒りを買い、怪しい市場に売り飛ばされてから、既に数日。
 3000セスタという大金で買ったルシフのもとで、はその金額分の働きをする事になった。

 と言っても、が当初危惧した商品とし転売される事態などは、全くなく。家の掃除をしたり、食事の準備をしたりと、ルシフの身辺の世話をする形で落ち着いた。簡潔的に言うなれば、住み込みの家政婦だろう。
 「色々用意する」と先日言ったルシフの行動は、その後非常に早かった。メイド服やら何やらを買ったり、客間の一つを用に整えたり、焦るを余所にルシフはとんとん拍子で事を進めていった。本人は「俺の自由」「そうしたいだけ」と涼しげな顔で主張を変えなかったが、借金がまた増えたとは内心気が気でない。3000セスタに見合う働きなんて大口叩いたのだ、こりゃ相当働かないと駄目だな。は気合いを入れ直して、ルシフ宅で過ごす事となった。
 勿論、それはつまりルシフ――男性と一つ屋根の下で暮らす事に他ならない。此処に来る直前、五十歳過ぎの男にベッドに連れ込まれた苦すぎる記憶は未だ消えないので、多少は心配もしたのだけれど。

 そんな心配が直ぐに消えてしまうくらい、ルシフの私生活はずぼらだった。

 一日の始まりの朝は、寝起きは良くないし、食事は適当に済ますし、掃除は使う部屋以外はしないし……何の為にこんな一軒家買ったんだよと思わなくもない。猫という種族性だろうか。職場だという街にある商会へ行く際の装いや立ち姿はそれはもう絵になる美猫なのに、気ままなところは相変わらずだ。思っていた以上にやる事があったおかげで、一つ屋根の下の不安は全て何処かへ吹き飛んだ。

 そんな風に、ルシフに買われてから既に数日。はこれまでしてきた仕事と同じ事をしながら過ごしていた。



 朝食の後、ルシフは身なりを正して職場に向かう。この後はも後片付けと掃除を行うが、しなやかな長身の白猫を玄関にまで見送る。主のお見送りは下働きの基本であるので。ついでにこの時ちゃんと、夕方以降の彼の予定も聞いておく。夕食の有無での予定も変わるのだ。
 この日もどうやら夜には戻って来るらしいので、の頭の中に【夕食用意】の仕事の項目が書き足された。

「いってらっしゃいませ、ルシフ様――――」

 と、長年染みついた下働きの癖が、ついの口から出てしまった。あっと唇を覆った時には、もう遅い。目の前の美しい白猫の顔が、途端に嫌そうに歪む。綺麗なオッドアイも半眼になって、鋭さが浮上する。こういう時にばっかり分かりやすくなるのは、人間と大して変わらないらしい。

「それ止めな。俺は何も敬って欲しいとは思っていない」
「そう、だけど、でも」
「良いから、前の通りで」

 揺るがない猫の瞳に、は苦笑いして「分かった」と頷く。ルシフは鋭さを緩めると、すいっと頭をへ下げた。大柄ではないけれど、頭二つ分ほどは長身な彼。の上には、影が下りてくる。そうして近付いた綺麗な白猫の顎が、の頭の天辺をぐりぐりと擦った。蜂蜜色の金髪が、頭の天辺だけくしゃくしゃに混ぜられる。ついでに足首にはルシフの長い尻尾が巻き付いていて、柔らかさがくすぐったい。
 数日間過ごし、ほぼ毎日されているこのこの動作は、何の意味があるのだろう。獣人に限らず異種族というのは、人間が思いもしない独自の文化やルールがあるから、何かきっと意味があるのだろうけれど……。耳元のすぐ近くにある綺麗な白い喉からは、ゴロゴロと上機嫌な猫特有の音が聞こえるから、まあ楽しいのなら良いか。も目尻を和らげ、しばらくそれを甘受した。
 それから、満足したらしいルシフは商会に向かった。

 彼の背を見送った後、は一人になった家で仕事をする。入ってはならない書庫やルシフの私室は除いて掃除をし、食器を片付けて、午後になったら夕飯の支度。貯蔵庫には買い置きの食材があるから、明日辺りに買い出しに行かないと。頭の中で思い浮かべるは、てきぱきと自らの仕事をこなす。
 けれど、ふと、その手が止まった。
 以外の存在しないこの家は、静かだ。外の音さえ聞こえるほどに、静まり返っている。豪奢で立派な造りはしていないけれど、上品に纏められた内装に調度品は気品があって、素敵だと思う。だから殊更に、は思うのだ。

 ルシフは、どうして私を買ったのだろう。
 そもそも、どうしてあの市場に彼が居たのか。
 昔、ぱったりと交流が途絶えたのに、どうして今になって突然。

 一人になると、余計にそんな事を考えてしまう。が頭を振ると、動きに合わせて髪が揺れた。何も持たない孤児のが、唯一の自慢だった蜂蜜色の金髪の煌めきも、今は弱々しい。聞けば良い事を聞けないのは、もうルシフを野良猫と呼べないからだ。

 あんなに、綺麗な白猫だったなんて。
 いつも見ていた薄汚い少年も、洗えばあの色をしていたのだろう。

 あの頃は……きっとどちらも、同じ立ち位置だった。瞳は綺麗な薄汚い猫の少年は、今なら分かるがきっと貧困街だとかで暮らしていたのだろう。対するも、孤児院暮らしで大概貧相な身なりをしていた。あの頃は同じだったのだ、互いに。けれど、今はもうそうではない。
 はあの時から、ずっと雑草のままだが、彼はもう。
 事実を知っているからきっと、今の距離が掴めないでいるのだ。立派な商人になって、一軒家で一人暮らしして、3000セスタなんて金額もぽんと出して。それなのにずぼらで、遠慮なく物を言って、自由な気質も相変わらずで。
 困惑する半面――――嬉しく思うも確実に居るのだ。まるであの頃に戻ったようだと。

(……忘れちゃ、駄目)

 3000セスタで買われた事を。彼の身辺を世話する下働きである事を。あの日のありきたりな子どもの約束は、ただの心の支えであった事を。
 はメイド服のエプロンとスカートを翻し、掃除を再開した。消し去れない疑問は、結局、彼の方から語ってくれるまでが知る事など出来ないのだ。上機嫌な喉の音も、柔らかい白猫の毛の感触も、買われた身分で喜んではならないと、この日も言い聞かせた。



 ――――さて、それはそれとして。
 この家の家政婦として働く事には異論はないものの、お針子仕事が一番の得意だったとしては、手持ち無沙汰になるのは少々落ち着かなかった。これでも結構、暇な時はモチーフを自作して刺繍をしたりしていた。一様にこれまで出会った人々からは、刺繍よりも掃除道具と皿を持って走り回っている方が似合うと笑われたけれど。
 最低限の、針と糸と鋏があれば嬉しいな。何日もしていないから、指先が鈍ってしまう。けれど、それを……ルシフに言えるだろうか。ろくでもない買い手が付かなかっただけでも僥倖であるのに、この上で裁縫道具が欲しいなんて。

(……うーん、ルシフがどういう顔をするのかさっぱり分からない)

 何を考えてるのか、今でさえは分からないのだから。
 けれど、もうしばらく経てば、針仕事――特に刺繍への欲求が爆発するだろう未来は浮かんでくるので、相談してみようと思うのであった。



 ――――かくして、時刻は過ぎ去り、空も藍色に染まる頃。
 街にあるという仕事場の商会から、家の主のルシフが戻ってきた。日中ほぼ無音であった家の空気が、ようやく動き出す。は玄関へ小走りに向かい、「おかえりなさい」と彼を出迎える。其処に佇んでいるしなやかな白猫の姿に、は無意識の内に微かな安堵を抱いた。
 ルシフもを認めると、蒼と金のオッドアイを緩め「ただいま」とへ返してくる。買った者と買われた者であるのに、交わされたやり取りは何気ない温かさに満ちている。の胸が、僅かにぐっと詰まる。それを出さないよう、ルシフにコートを脱いで貰い腕に抱えた。

「……

 ルシフの涼しい声が、の頭の天辺へ落とされた。呼んだのか独り言なのかも定かでない、小さな掠れた呟き。は肩をほんの少しだけ揺らし、視線を上げる。朝と変わらずに、綺麗な白猫の顔があった。三角の耳も、細いひげも、小さな濡れたピンクの鼻も、人間とは違う猫という獣が持つ不思議な優美さを彩っている。の視線とぶつかったそのオッドアイは、沸々とした何かを宿して強く見つめていた。市場のステージで再会を果たした、あの時に見たものと同じだろうか。
 ルシフはやはり何も言わず、頭を下げるとの頭の天辺へと顎を乗せてぐりぐりと擦りつける。その部分の蜂蜜色の金髪をくしゃくしゃにした後、ルシフは何事も無かったように歩き出す。やっぱり、にはよく分からない。仕草だけでなく、ルシフのあらゆる行動が。首を捻りつつも、リビングに向かうルシフの背を追いかける。ゆらゆらと揺れる白く長い尻尾は、上機嫌にくるりと回っていた。


 夕食は勿論出来あがっているので、直ぐに皿へよそって机へ置く。ちなみに本日の夕食のメインは、痛まない内にさっさと使ってしまいたかった鳥肉のミートグラタンである。それと野菜の付け合わせも忘れずに並べる。まあ、大したものは作れないから、一般的な夕食だ。
 味見したところそんなに悪くないと思っているが、はたして。
 毎回この瞬間、は少し緊張しながらルシフを窺っている。商人だという彼は、きっと舌も肥えてるに違いないと睨んでいるので。けれどルシフは、良い意味で其処をすり抜け平らげてくれる。今朝もそうだったように、この日の夕食も不満は無いらしい。は、ほっと安堵した。

「そんなに息を詰めるものでもないでしょ」

 ルシフはそう言って、フォークを進める。ぺろりと口の周りを一舐めする仕草はいかにも獣っぽいが、ミートソースの色が白い毛に浮かび、ちょっぴり可愛らしい。

「だって、自分の作ったものを人に食べて貰うんだから、緊張するよ」
「ふうん……そういうもんかねえ」

 不思議そうにしてルシフは呟きを返す。確かに余裕に澄ましたこの白猫が、慌てふためく姿なんてには想像出来ない。薄汚れた少年の頃も、思えばそうだった。あの悠々とした仕草と表情が崩れたのは、下手なハンカチーフを渡した時ぐらいであった。

「商人にはなったけど、どっかの料理店とかよりその辺の食べ歩きの方が性に合う。それに」

 不意に、ルシフの瞳がへと定まる。

「……作って貰ったものにケチを付けるほど、落ちちゃいないよ」

 そう言って、ルシフはまた一口運んだ。人間とは違う形をした口、尖った牙の向こうへと吸い込まれた料理は、むぐむぐと咀嚼される。

「……そっか。うん、美味しいなら、私はそれで十分だよ」

 口元を緩めて笑うと、ルシフの視線がいきなり外れる。何もそんな、勢いよくしなくたって良いのに。その仕草も、はたしてどのような意味があるやら。平素の彼の表情からは、何一つとして読み取れない。仕方なしにもフォークを握り、食事をする。うん、そんなに、悪くない味だ。
 その後、見た目の細さや優雅さに反して、白猫の獣人ルシフはこの日も全て綺麗に平らげてくれた。

 夕食後、お茶を用意しながら、はルシフを窺う。彼は今、ソファーに腰掛け機関誌を開いていた。文字を追う白猫の横顔は、見る限り機嫌は悪くない、はずである。はぐっと一度両手を握って意を決し、お茶を運んだ。

「ル、ルシフ」

 カップを差し出しつつ、は彼を呼ぶ。蒼と金のオッドアイが、を映す。はソファーには座らず、彼の横に立った。

「あ、あの、実はご相談が……あ、ありまして」
「……なに?」

 は一瞬身構えたが、奮い立たせ言葉を連ねる。

「その……ぬ、縫い仕事がしたくて! 針と糸が欲しいなって……だから」
「……縫い仕事?」

 きょとりと、ルシフの瞳が丸くなる。はこくこくと何度も頷いた。

「3000セスタも払って貰って、買われた身分なのに、申し訳ないとは思うんだけどでも……お願い、します」

 は背を曲げ、頭を垂らす。「な、何でも、するから」最後の駄目押しのように、付け加える。だがその瞬間、食後の和やかな空気が凍りついた気がした。丁度の隣に座る、ルシフを中心にして。そして訪れたのは、長い長い沈黙だった。

「……、あんたは」

 溜め息が、一つ響いた。

「――――交渉の仕方が、なってない」

 ようやく、沈黙を破ってルシフが呟いたのは、そんな言葉であった。
 何故か逆にがたしなめられ、勢いよく顔を上げる。呆れたような、怒っているような、半眼のオッドアイが其処にあった。

「何でもするから、というのは一番使ってはならない言葉だ。相手がどれだけの事を要求してきても、何でもするって自分で言ったのだから、受け入れざるを得ない。一番取られたらいけない弱みだ」
「は、はあ……?」

 何だろう、商人の心得だろうか。けれど、今このタイミングで? が不思議がっていると、ルシフはソファーの肘掛けに腕を立てて置き、もう一度溜め息をつく。

「……手癖の悪い雄は、隙を見せたら絶対に取りこぼさない。今回は見逃してあげるから、次から気を付けな」

 要領は得ないけれど、それを尋ねられる雰囲気でも、まして彼が答えてくれる雰囲気でもない。は言われるがまま、首を縦に振った。

「とりあえず、それは置いといて――――針と糸ね、別に良いよ。それくらい」

 あっさりと、至極あっさりと、ルシフは首肯していた。

「い、良いの……?」
「それくらいワガママの内にも入らないでしょ。俺も早く、用意しておこうとは思ってたし」
「そ、そうなんだ……」
「……なに。俺がそのくらいで、目くじら立てるとでも思った?」

 率直な物言いに、は少しだけ声を濁らす。彼自身が拒むというよりは。

「私は……ルシフに3000セスタで買われた身だから。何か望んだら、駄目だなって」

 の方が、一番の問題であると思ったからだ。
 ルシフは、突然開いていた機関誌を音を立て閉じた。それをローテーブルへ放ると、目を細めを見上げる。綺麗なオッドアイは、険呑に光っている。今この瞬間に、どうやら機嫌の底を踏み抜いたようだとは緊張を抱く。だって事実なのに、どうしてそんな風になるのだろう。

「またそれか。俺があんたを買ったのは、俺がそうしたかったからであって、別にあんたから何かして貰いたいとか思っちゃいない。前にも言っただろう」

 覚えているとも、勿論。けれどだからこそ、距離が分からなくなるというのに。
 の困惑とは対照的に、ルシフの姿勢と眼力は変わらず力強い。怒っている、というよりは、もっと別の強い感情をぶつけているようにも思える。だがに、それ以上を図る事は叶わない。

「……俺に3000セスタで買われたという自覚があるのなら」

 ソファーに腰掛けていた白猫が、不意に立ち上がった。しなやかな造形を宿す体躯はよりもずっと身の丈があるので、ただ立ち上がるだけではルシフに簡単に見下ろされる。頭二つ分、いや三つ分、大きな白猫は優美な佇まいだが、獣性を強く持つ種族の空気が今はとても感じられる。人間の、それも女が決して敵う事のない、明確な差異。
 が見上げたオッドアイには、ゆらゆらとした輝きが浮かんでいた。部屋を照らすランプの明かりのせいか、それとも。

「余計な事は考えず、此処に居ろ」

 此処に。
 言いながら下がったルシフの頭が、今朝のようにの頭の天辺へ顎を乗せた。けれど、ぐりぐりとかき混ぜる事はせず、ただ重ねてじっとしている。まるで、へ言い聞かせるように。
 買い主のもとから離れるなと、そういう意味だとも分かっている。そうね、余計な事は考えない方が良い。伝わる温もりが脳へ広がりきる前に、は身動ぎし離れた。
 ルシフはやや不満げに鼻を鳴らすも、を直ぐに解放した。

「……ともかく、この話はこれで終わりだ。裁縫道具の方は気にしなくて良い」

 は何も言わず、こくりと頷く。ルシフの声の調子は元に戻ったけれど、一度流れた空気は戻らない。よそよそしい気まずさをそのままに、その日はそれぞれ眠りについた。




 ――――そんな事があった、数日後。
 のもとに、念願の裁縫道具が届けられた。針と糸があれば十分に縫い仕事が出来ると思っていたのに――――何故か目の前には、服でも作れそうな道具の一式が詰め込まれた、アンティーク調の妙に格式高い箱が鎮座している。

(さ、3000セスタの借金が、5000セスタくらいに増えた……)

 の想像よりも立派な道具は、触れるのさえ恐れ多く、指先がぷるぷる震える。勿論想像でしかないけれど、当たらずしも遠からずだろう。
 これは相当頑張らないと、金額分の働きに見合わない。

「何その変な顔。足らないのでもあった?」
「め、め、滅相もない! 十分過ぎるくらいです!」

 は首が折れそうなほどに、ぶんぶんと振った。何で敬語、とルシフは半眼で腕を組む。

「なら良いだろ。変な顔してないで、受け取って使え」
「そ、そうだけど、でも……」

 まごつくを無視して、ルシフは道具箱を掴み取ると半ば強引に押し付けた。反射的に伸ばした腕には、高級感も上乗せになった重みが掛かり、一瞬悲鳴が漏れる。けれどこれを落としてしまう方がとんでもない事と、は全身を力ませて抱える。

「使えよ。あんたが言うから……専門外のところを揃えたんだ」

 青年らしい若く張りのある声が、僅かに掠れて響く。そろりと窺うと、綺麗なオッドアイは泳ぐように揺れており、何処となく彼の空気も落ち着き無い。これは、照れ隠しか、それに近いものだろうか。
 私の、為。
 そんなところを気にするべきではないのに、繰り返されるのはよりにもよって其処ばかりだった。自惚れも良いところだと、ふわりと浮上しそうになる己の心臓をは抑え付ける。それはきっと、そういう意味ではなくて、仕事が出来るようにという意味で。言い聞かせながら抱える道具箱は、やっぱり重い。けれど、わざわざ揃えてくれたのは、本当に嬉しい事には違いないので。

「あ、ありがとう」

 ようやくは、そう呟いた。二人しかいない家の中で、の声が響く。
 忙しなく身動ぎしていたルシフから、柔らかく緩んだ空気が漂う。の頭上にある白猫の顔のオッドアイは、細められていた。さも呆れた風に歪めるあの半眼ではなく、安堵して優しく緩んだ瞳の形にして。

「……最初から、そう言いなよ」

 言葉こそは素っ気ないのに、声音に乗せられた響きの優しいこと。蒼と金の――お空とお花の色を宿した猫の瞳が、一層美しく映えた。

 ……そういう仕草をするのは、ずるいと思う。

 妙に自由気ままで、独特なリズムがあって、多くの救いでもあった在りし日の薄汚い野良猫。それがそのまま、美しく成長した白猫は、もう同じ立ち位置になんてあるはずがないのに。これでは、あの頃のようにまだ対等であると、勘違いしてしまいそうになる。それがきっと、今が恐れている事だ。
 とルシフの間にあるのは、野良猫と雑草ではない。
 なのに、の足首に巻き付いている白猫の尻尾は、柔らかく温かい。本当に、ルシフという猫は、読みとれない男である。