03

 が目覚めた時には、既に馬上ではなく、ベッドの中だった。しばらくまどろんでいたであるけれど、次第に意識は覚醒してゆき、飛び起きるのは早かった。
 跳ね退けるように掛布を退かし、上体を起こす。柔らかいカーテンが取り付けられた窓からは陽が注ぎ、室内を淡く照らしている。のいるベッドの他には、机や椅子、クローゼットと一通りの調度品が揃えられていた。それらは、無駄な華美さはなく、気品を感じさせる流麗なデザインを宿している。針子を生業としているは装飾のデザインに少々覚えがあるので、一見するとシンプルな部屋がその実とても美しく整えられている事は直ぐに窺い知れた。
 此処は、何処だろう。
 眠気などあっさりと吹き飛び、慎重にベッドから下りる。ふと己の身体を見下ろすと、あの粗末なワンピースのままであったが、サンダルを拝借し気にせず窓に駆け寄った。硝子越しに外を窺うと、見覚えのない街の景観が広がっていた。陽は昇っているが、天辺へは至っていない。まだ朝方のようだ。はしばらく視線を巡らせ、ぼんやりと見つめた。
 あれから記憶が飛んでいるので、何が何やらさっぱり分からないが……とりあえずは、人生最大の危機は脱した、と思う。結局買われた上に、あまりの大金に目眩がして不安は尽きないが。
 は張り付いていた窓から離れ、部屋を出る事にする。ルシフは何処に行ったのだろうかと、扉を開けてキョロリと窺った。宿屋なのかとも思ったが、どうやら普通の邸宅らしい。ただ、全体的に天井は高く廊下なども広い造りをしている。扉から顔を出し「ルシフ?」と呼びかけてみるも沈黙しか返って来ないので、は部屋を後にした。

 廊下を進み、なだらかな傾斜の階段を降りる。導かれるように進んだ先は、キッチンも併設されたリビングだった。そしてその中央、大きなソファーの上に横たわる白猫の姿を発見する。ルシフである。
 もしかして、この邸宅は。
 思いながら、はそっとソファーに近付く。顔を覗こうとすると、半開きの瞳と直ぐにぶつかった。息を飲む美しさであるだけに、その分凄みを増して威圧すら放っているように感じた。疾しい事はしていないが、は妙な動揺に陥る。
 しばし沈黙の中、見つめ合いが続く。背筋が冷や汗に塗れた頃、薄ぼんやりとした目のまま「ああ」とルシフがようやく声を漏らす。くあ、と牙を剥き出しに欠伸をし、彼の身体が緩慢に起き上がった。首や肩を回す彼の足元では、ぱたりぱたりと長い尻尾が揺れている。

「おはよ、寝れたか?」

 そして結構、マイペースだ。この独特のリズムは、猫特有と言うよりも、あの日の野良猫の少年を思い出させる。例えば自らを野良と称したり、の境遇を可哀相に思う事もなく同じだなと笑い飛ばした、あの不思議な強かさなど。

「お、おはよう、ございます……」

 色々と言いたい事があったはずなのに、結局またはそんな調子に呑まれてしまうのであった。



 結論から言えば、今現在の居る場所は、ルシフの居住――つまり彼の家だった。
 道理で、家の天井の高さや調度品のサイズが、人間のよりもゆとりがあるわけだ。基本的に獣人という種族は、個人差はあるものの体格の立派な者が多い。ルシフは、外見こそは猫のそれでシュッとした細身の身体つきだが、よりもずっと背丈も手足も伸びやか。つまりは、すらりとした長身である。頭二つ分くらいは彼の方が身長も高い。
 ルシフが言う事には、を連れほとんど夜通しで馬を走らせ、この街――ルシフの生活の拠点――に到着したという。が暮らすこの地は、人と異種族が均整に暮らす中間の土地柄であるが、どうやらが売られる羽目になったあの建物は、異種族たちが多く暮らす土地の一角にあったらしい。金輪際関わりたくないところなので詳細は興味無かったし、ルシフも其処はさらりと流す程度だった。
 この街の地理などであるが、聞く限りやはりが初めて訪れた場所だった。規模や人口なども十分都会に匹敵するところにあり、人と異種族が均等に暮らす中間地らしく日々賑やかである等々。

 というような事を、はルシフと共にごく軽い朝食を取りながら聞かされた。同じ机で食べて良いものなのかなあ、と疑問を抱くも、空腹には勝てないのでパンにかぶりつく。
 窺う限り、他に家人の姿はない。一人暮らしのようだが、一戸建ての住宅に住むとは豪華な暮らしだ。ぽんと大金を払うほどなのだから……一体彼は、今は何をしているのだろうか。の中にあるのは、あの薄汚い野良猫だけだから想像もつかない。
 いや、もうそんな風に、呼んではならないのだろう。
 あの時は確かに、彼は野良猫でも雑草だった。けれど過ぎ去るからこその過去であって、オッドアイの灰色の少年も今ではオッドアイの綺麗な白猫の青年だ。野良猫なんかじゃない。はあの時のままの、雑草だけれど。
 昔を思い出してしまったからか、は隙間風を感じながらぽつんと思う。

「ルシフは……今は何をしているの?」

 名を呼んでも良いのだろうかと、少し躊躇いながらは呟く。彼は特に気分を害した様子はなく、へと視線を定めた。

「商人」
「は」
「一応、職場の商会もこの街にある」

 事も無くさらりと言って退けたけれど、今彼は商人と言わなかっただろうか。もしかして、と一抹の不安が不意に過ぎる。

「あの、まさか、私を買ったのは……」

 青ざめるを眺め見て、直ぐに察したらしいルシフは目を細めた。

「あんたを、商売の道具にするつもりはない」

 ルシフの声は、微かな怒気を含んでいた。不愉快そうにしなやかなひげを震わせ、三角の白い耳を跳ねさせる。

「そんなつもりで、あんたに3000セスタも出したわけじゃない。そういう想像はしないでくれ」

 強い眼差しが、オッドアイから浴びせられる。それはあの時――――市場のステージで対面した時の、あの熱心な眼差しを想起させた。何に怒っているのか分からないし、どうしてそんなに熱く見るのか分からない。は「そ、そっか……」と語尾が今にも掻き消えそうな声で呟くしか出来なかった。
 そして、唐突に思い出す。そうだ、3000セスタ!

「ならどうして、私なんかにあんな大金……」

 かつては友人で、正午の鐘が鳴った時のみだったが共に遊んだ獣人だ。泥まみれにもなったし、互いのそんな姿を見て馬鹿みたいに笑ったりもした。けれど過去の話だ。しかもある日突然、ぱったりと交流は無くなってしまった。他愛ない約束だって、思春期の思い出に昇華されている。
 あれから、もうどれほど経っていると思う。古い友人の窮地だったからなんて、理由としてはあまりに弱い。
 は色濃い困惑を、明るい茶色の瞳に乗せた。ルシフは、一瞬だけ声を詰まらせ言い淀む仕草を見せたけれど、直ぐにまた涼やかな白猫の表情へと戻る。ぱくり、と最後の一口のパンを口内へ放り込んで、彼は言った。

「俺がそうしたかったから、しただけだ。そして、あんたを買ったのは他の誰でもない――――俺だ」

 それは、そうだけど、でも。はルシフを窺うが、白猫の顔から読み取れるものはなかった。ただ彼に買われたという、その最たる事実だけを理解して、は押し黙る。

「……で、俺の話は、おいといて」

 ルシフの声音が、不意に変わる。

「そろそろ、あんたの話も聞かせてくれないか。どうして、あんな場所に売られてたんだ」

 何の躊躇いもなく、ルシフはそう尋ねてきた。う、とは込み上げる苦さを噛んで、視線を泳がせる。

「やっぱり、それ聞く……?」
「そりゃ当然」

 言うまで何度でも尋ねるぞ、と物語る真っ直ぐな遠慮のない視線。突き刺さるそれから逃げられるわけもないので、は溜め息を一つこぼした。

「……簡単に言えば、怒りを買っちゃったから」
「怒り?」
「新しい務め先の……当主の男の人の」

 ぴくり、と白い三角の耳が一際跳ねた。はそれに気付かず、自業自得とも言える苦い経緯を語った。



 下働きと針子の仕事で生計を立て、慎ましく暮らしてきた。つい最近も、新しい下働き先を見つけて気持ちを新たに挑もうと思っていた。その地域ではどうやら有名らしい商家で、名前は確かヨーゼル家と言っただろうか。こりゃあ良いところを見つけたものだと、その時はも喜んだ。
 ところがどっこい、というのが現実だった。
 齢五十を超えたヨーゼル家当主は、老いてなお欲望旺盛な物凄い女好き。孤児で何も持たなかったの、幼い頃から唯一自慢だった蜂蜜色の金髪と明るい茶色の瞳という、珍しくはないものの風景に目立つ毛色を甚く気に入ったらしく。
 気合いを入れてご挨拶に窺った初日、はいきなり寝室に連れ込まれた。
 幾ら商家の当主といえど、五十歳を超えている男に襲われるなど言語道断。しかもそんな女好きでも、一応の家庭持ち。生い立ちは貧しくとも清く正しく真っ当に生きる事を信条とするは、勿論やんわりと拒んだ。けれどベッドに押し倒された瞬間、大人しさをかなぐり捨て思い切り暴れた。そしてその結果、本来の足癖の悪さが発揮され、雇い主へ盛大にやらかした。
 股間を蹴りあげるという、男にとっては何よりも痛恨の一撃を。
 そしてとんとん拍子に事は運び、は初日に解雇され、怒りを買った末にあの怪しげな市場に飛ばされた。

 自業自得といえばそれまでなのだけれど、幾らなんでも売り飛ばすとか中々人でなしの所業だ。そして、まさかあの場でかつての友人に巡り合う事も、予想もしていなかった。
 ルシフに拾われず、あの恰幅の良い下卑た笑みを放つ獣人に買われたら、どうなっていただろう。それだけでなく、あの商家の男に辱められたら、今頃は。
 改めて思い浮かべると――――の身体が、ぶるりと震えた。今になって再び押し寄せる恐怖が、堪え切れず指先に伝染する。机の上で、ぎゅっと指先を握り込む。
 ルシフは、何も言わずにの経緯を聞いた。微動だにしない白猫を盗み見ると、氷のように冷酷な表情を放っていた。半眼のオッドアイに、明確な憤りが浮かんでいる。

「――――そう、それは悲惨だったね」

 ようやく告げたルシフは、の苦労を労った。本当にね、とは笑ってみせたけれど、場を和ませる事は出来なかった。

「どうせだったら、再起不能にしてやれば良かったのに」

 明け透けな物言いに、は一瞬ぎょっとなる。ルシフは口元に笑みを浮かべると、白い腕で頬杖をついた。何処か意地の悪い、気品からは程遠い仕草。けれど何故かとても、懐かしくもあった。

「……そうだね、どうせ売り飛ばされるんだったら、そうしてやれば良かった」

 の顔に、ようやく自然な笑みが戻った。そうそう、と頷いていたルシフは、ふとへ尋ねた。

「その男って、どこのどいつ?」
「え?」

 どうして、と目で聞くと、ルシフは少しの空白を挟んで答えた。

「……同業者としては、是非とも取引のしたくない相手だしね」

 それもそうか、彼も商売を仕事としているわけだし。自業自得ながら恨みはあるので、は包み隠さずに場所からヨーゼル家という名前までも知っている限りの全てをルシフに伝える。白猫の顔に黒い笑みが滲んでいた事には、気付かないふりをしておくとしよう。

 ふと、とルシフの間から、会話が途絶える。静かな静寂が流れ、壁に掛けた時計がカチコチと時を刻む音と、街の人々が動き出す微かな気配だけが、遠くに存在している。
 は一度、大きく息を吸い込む。幾度か深呼吸した後、椅子に腰かける姿勢を正しついと顔を上げる。正面に座る、すっかり綺麗になった過日の少年――――ルシフを見つめた。

「……何で貴方が、私をあんな大金で買ったのか、分からない」

 ゆっくりと、は話し始めた。

「だけど、買われたのは事実だし、私にとっては……助けられたのと同じ。そんな風に思うのは、おこがましいだろうけどね」
「……」
「だからね、ルシフ。私は――――ちゃんと3000セスタ分の働きをしたいと思ってる」

 蒼と金のオッドアイを持つ白猫を、はしっかりと見つめた。出来ればこんな再会ではなくて、もっと街中で気軽に出会いたかった。そうしたら、大出世したねと笑えたのに。今それはもう、出来ない。とルシフの間にあるものは、昔のような野良猫と雑草の関係ではないのだから。

「私は、何をすれば良い?」

 身一つで売られたしがない針子を、大金で落札して手に入れた商人だ。
 まして彼は、綺麗な白猫で、私は、大して変わらず雑草のままで。

 沈黙は、先ほどよりも重みを増した。は尋ね、口を閉ざす。見据えるオッドアイは心を突き抜けるように、真っ直ぐと視線を向けている。しばらくその沈黙が続いたが、ふとルシフは瞼を下ろすと息を吐き出す。その音をきっかけにし、覆うような沈黙が、和らいだ気配がした。

「3000セスタ分の働きとは、また大きく出たな」

 ルシフは、微笑を浮かべた。

「そもそも、俺は別にあんたに何をどうこうして貰いたいと思ってない。3000セスタは確かに少なくない出費だけど、取り戻せる範囲内だし」
「そうは言っても、何かさせて貰わないと困るよ」

 そりゃあ、商人としてどうやら立派に活躍しているらしいルシフのお眼鏡に適うところなんて、きっと少ないだろうけれど。
 ルシフは肩を竦め、「そうだなあ」と呟く。を見ながら、しばし考える仕草をし。

は、今まで何の仕事してたんだっけ?」
「大部分は、お針子の仕事。あとは、下働き。飲食店の従業員から大きな商家の使用人まで、幅広に」

 ルシフは、ふうん、と声を漏らすと「ならもう決まったようなもんだ」と告げた。え、もう? 早いのね決断。

「とりあえず――――何はともあれ、諸々を用意してからだな」

 諸々? 首を傾げるに、ルシフの指の先端が向けられる。示す先は、のその薄地で肌も隠せていない質素なワンピースである。あの場所からずうっとこの身なりで、逆に身に馴染んできた頃だったので「ああ、そっか」とも納得した。

「……心臓に悪いんだよ、その恰好は」

 幾ら貧相な恰好がみっともないからって、もうちょっとやんわりとほのめかして貰いたいところだった。