02

 良いのか悪いのか定かでないが、見事完売御礼となったは、その後ステージから下ろされて別の部屋へと移された。これまで押しこまれていた質素な部屋と比べれば、テーブルやソファー、装飾の観葉植物など調度品が揃えられかなり豪奢な装いだと思う。品自体は、高級品には見えないけれど。
 この部屋は、どうやら競り落とした商品を買い手へ手渡す部屋らしい。隣の部屋へ続く扉が室内にあるので、きっと其処で誓約書なり何なりサインしていると思われる。という事は、もう間もなくを大金で競り落とした主が現れるのだろう。
 仮面の向こうから熱心にを見つめる、僅か一つの汚れもない純白の毛並みの、若い猫獣人の男性。いや、青年だろうか。
 ……結果としては、の望んだ、シュッとして凛々しい佇まいの人に買われたわけだけれど。これからどういった扱いをされるのかという点では、どの方向にも転がっていない。あの獣人が、主人として敬える人物であれば、3000セスタで買われただけの働きをしたいとは思う。何事も、平穏に済むのならそれが一番だとは思うから。しかし、3000セスタに見合う、夜の方の働きを課せられたら……。は己の身体を抱きしめるように腕を交差させ、両腕をさする。
 そういえば、相変わらず服がこの粗末なワンピースなのだけれど、もとの服は何処に消えたのだろうか。返してくれれば良いのに。は全身から払えない悪寒を薄着のせいにし、誤魔化しながら、その時を待った。


 ――――ギィ


 沈黙の中、ついに扉の開く音が聞こえた。古めかしい軋む音色は、緊張に震える心臓をさらに煽った。
 来た。は身体を強張らせて、顔を上げる。
 隣室と繋がる扉が、ゆっくりと開かれてゆく。その向こうから、すり抜けるように滑らかな足運びで、その人が現れた。暗がりの中でもはっきりと窺えた、純白の毛色を宿す猫の獣人。仮面は装着したままであるが、三角の形をした耳とひげは視界に映る。暗色、としか判断出来なかったコートは、実際は紺碧色をした薄地のそれで、しなやかな長身を包んでいた。改めて見ても、対比が鮮やかな優雅な佇まいだった。真っ白な猫だから、余計にそう思うのだろうか。の持つ蜂蜜色の髪は、何も持たなかった幼少期からのほんの少し自慢ではあるものの、珍しくない凡庸な色彩には変わらない。なんかよりも、ずっと綺麗な白猫だ。
 何で、そんな人が私を買おうと思ったのだろうか。あんな大金を払ってまで。
 はぼんやりと考えていたけれど、仮面の向こうから浴びせられる視線を感じ取り、意識を戻した。見惚れている場合ではない、何はともあれ、買われたのは事実だ。せめて手痛い目に遭わないよう、第一印象くらいは良くした方が良いだろう。綺麗な白猫と対峙するには質素なワンピースは少々恥ずかしいけれど、は猫獣人に対して一礼する。蜂蜜色の髪の毛先が、の視界の隅でさらりと下がる。

「か、買って頂いて、ありがとうございます……お役に立てるよう、頑張ります」

 自ら口にすると、余計に容赦のない現実の苦さが広がり、泣きそうになる。けれど、涙一つ落とさないよう食いしばるのは、の最後の意地だった。
 背を折り曲げて頭を下げたの視界には、猫獣人の足の爪先が見えるだけである。白猫の獣人は何も返さない。しばらく、長い沈黙が続いた。頭を上げるタイミングも見当たらず、は背中を折り曲げた体勢を保つしかない。
 その時。
 動かなかった獣人の爪先が、半歩ほどへ進んだ。不意に動く長い脚に、はドキリとし下げた頭を揺らす。

「――――そういうのは、必要ない」

 何を言われるのかと身構えたに掛けられたのは、そんな言葉だった。
 競り落としの勝負の時に聞こえた、涼しげな青年の声。年齢は同じか、或いは少し年上程度だろうか。その声音から、年の近しい雰囲気を嗅ぎ取る。ただ、どちらかと言えば素っ気なく、よくも悪くも淡白だ。もどうしたら良いのか迷ってしまう。

「良いから、顔を上げてくれる?」

 そして結構、遠慮のない物言いだった。思うところはあったけれど、は言われる通りに曲げた背を戻し、顔を上げる。正面に立つ白猫の獣人を、再び視界に納め見上げた。やっぱり、しなやかな身体つきをした、綺麗な白猫だった。紺碧色のコートの後ろで、ぱたぱたと揺れる長い尻尾の優美なこと。多分きっと、がこの着せられた質素なワンピースを脱いで綺麗に繕ったところで、その白い美しさには追いつけないだろう。
 本当、どうしてこんなに綺麗な猫が、買おうと思ったのか。ほとほと疑問だ。
 仮面の向こうにあるだろう瞳と、の瞳が、沈黙の中ぶつかる。ステージに上がっていた時に感じた熱心な強さは……今は無く、気のせいだったのかとも思えてくる。

「……ふっ」

 唐突に、白猫の獣人から呼気が漏れる。まるで、笑うようだった。

「なんだってそんな恰好で、こんな真っ当じゃない市場で売られてるんだろうね――――

 見上げていたは、瞳を見開かせた。驚きに染まる彼女を余所に、白猫は不意に涼しげな声音に笑みを含ませ、仕方なさそうに肩を竦める。

「とりあえず、その薄い恰好は気に入らないな。しばらくこれ着てな」

 白猫は言いながら、紺碧色のコートを脱ぐ。困惑するの意思など聞かず、彼はの肩にそれを羽織らせて被せる。男物は大きく、に丁度良いところなど無かったけれど、それはともかく。
 コートを脱ぎ、白いシャツの姿になった彼を、は食い入るように見上げる。ステージに上げられた時、身体的特徴は告げたが、名前など口にしなかった。も、ステージに上げられるまで誰にも名前を聞かれなかったから、言わなかった。なのに、この白猫は。
 大きなコートに包まれるを、彼もじっと見下ろしている。すると、おもむろに腕を持ち上げ、装着したままだった仮面へと白い手を伸ばした。長い指がカチャリと仮面を押し上げ、もう一方の手で紐を解く。仮面に覆われたその顔は、やはり綺麗な白猫の頭部そのものだったけれど、目を引いたのは隠しがちだった瞳である。

 ぱっちりと開いた猫の眼は――――美しい金と蒼の二色を持つ、オッドアイだった。

 ――――黄色いお花と、お空の色。
 不意に想起されたのは、幼い頃のあの記憶だった。心細さから、らしくもなく昔を思い出していたせいだろうか。
 なら将来、誰よりも上手なお針子になって、今度はもっと特別なものを俺に作ってよ――――そう告げた、あのいっつも薄汚かった猫の少年の瞳は、目の前のその人のように綺麗な瞳を宿していた。
 まさか。

「……ルシ、フ?」

 そんなはずがあるまいと思いながら、はあの少年の名前を呟いていた。それに対して怪訝に表情を変えてくれれば、も直ぐに振り払ったのに、目の前の美しい白猫の彼は。
 まるで、安堵するようにその眼を細めた。眩しそうに、或いは微笑むように。しなやかな細いひげが、ゆるゆると下がってゆく。

「何だ、覚えてるんじゃないか。雑草」

 決定的だった。
 は殊更の混乱に陥る羽目になり、掛けられた紺碧のコートの下で呆然と呆けた。
 そりゃあ、あれからもう何年も、いや十年近くは経っているのだ。が成長しお針子の仕事で生活しているように、あの薄汚い灰色の猫の少年も大人になっていて当然だ。けれど、ある時を境に会いに来てくれなくなり、さらにも働きに出るようになり、会えずじまいの少年の現在の姿は、全く想像のしようもなかった。薄汚く灰色だか黒だか分からない毛色が自前のものだと思っていたにとって、この輝かしい純白は思ってもいない。まして、それを懐かしむには、この状況はあまりに酷い。

 は、怪しげな市場に売り飛ばされ。
 ルシフは、そんなを大金で買った。

 再会を喜ぶには、この状況はいくらなんでも本当に酷いだろう。

「な、なんで、どうして」

 何に対しての疑問なのかすら、も分からないでいる。すっかりと身長が伸び、よりも頭二つ分は大きくなったいつかの少年――ルシフへ、困惑を払えないままに言い募る。

「……それは、こっちの台詞だよ」

 ルシフは言いながら、コートの金具をカチリカチリと一つずつ留める。の身体を、己が着ていた紺碧色で隠していった。

「何でそんな薄い格好させられて、しかもこんな場所に売られてるんだよ」

 小さく溜め息をついた白猫は、仕草まで優雅だった。本当にこれがあの薄汚い少年だったのか疑問である。
 同じように投げかけられた言葉に、の困惑が僅かに退く。そしてギクリと身体を揺らし、「えっと……」と言葉を探る。理由は、その、私が一番知っているのだけれど。躊躇していると、ルシフは蒼と金の瞳を瞬かせ、「まあ今は良い」と完結させた。

「とりあえず、俺もあんたも話したい事は山ほどあるけど、後にしよう。こんな所にいつまでも長居はしたくないしね」

 困惑するを余所に、ルシフは至極冷静にそう言って、再び仮面を取りつけた。改めて見ると大仰しい作りで、劇場の小道具のようである。顔を隠す事に関しては、確かに具合は良いだろうけれど。せっかくの綺麗なオッドアイまで隠れがちになって、少し勿体ないと思う。
 ルシフの真っ白な手が、の腕を引いた。けれど、彼は何かに気付くと、踏み出そうとした爪先をその場に留める。
 の足は、裸足だった。
 仮面の向こうから己の足元を見下ろされている事に気付き、何となくは恥ずかしさを覚えて身動ぎする。ぺたりと冷たい床を足の裏で叩くそれの隣に、黒い革靴が並んでいるせいだろうか。慣れていた冷たさが、急に足の裏に感じられる。
 すると、仮面を付けたルシフは何を思ったのか、肩に掛けたコートをの頭の天辺へ掛け直し、頭も含んで全身を覆い隠してしまう。余計に足が出てしまったが、何だろう。頭の天辺でコートの重みを感じながら、されるがままに立ち尽くす。すっぽりと隠されるへと、ルシフは「ちょっと失礼」と断りを入れ、一歩踏み込んだ。そして伸ばされた二本の腕は――――の身体へと回り、抱え上げた。
 唐突に高く引き上げられた身体と目線に、は驚き声を上げる。何も履かない素の足の爪先が、宙を蹴った。けれどルシフときたら、の困惑など相変わらず気にもせず、「暴れない、大人しく」と言ってくる。笑うような響きがあって、はむうっと声を唸らせたが、そのまま歩き出されてしまって文句の言う暇は無かった。横抱きだったらまだロマンはあった事だろうが、残念ながら幼児抱っこである。膝の裏とお尻の下には、コート越しだがルシフの腕があり。高く持ち上げられた視線の下には、仮面を付けた白猫の顔がある。
 それを、どう眺めているべきか、或いはどう視線を外すべきか、は迷う。素直に懐かしめない再会のせいで、曖昧な顔にしかならない。しかも、記憶の薄汚い野良猫ではなく、垢抜けた綺麗な白猫に変わっている。の頭の天辺から掛けられたコートによって視界が埋もれがちになっているのが、僅かな救いかもしれなかった。
 そんなに、ルシフの声が掛かる。

「顔、伏せていて」
「え?」
「誰にも、見られたくないし、見せたくない」

 を抱えるルシフの腕に力が入る。あの日の少年のそれではなく、すっかりと大人になった男のものだ。距離を詰める力強さに困惑しつつも、は頷いた。被せられたコートがきっとの姿を隠しているとは思うけれど、こんな市場なので納得もする。ただ、頭を伏せると目の前の白猫の頭に寄りかかる姿勢になってしまう。仕方ないと、ぽすんと頭を傾け預けた。
 その瞬間、しなやかな細身の外見に反し、意外と広くがっしりとした肩が跳ねた気がした。が、そのまま歩き出してしまったので、は考えるのを止め口を閉ざす。
 視界はコートで隠され何も見えないけれど、器用に片腕でを抱えルシフが扉を開ける。逞しさは印象に受けなかったけれど、意外な腕力だ。綺麗な白猫といえど、身体能力に富んだ獣人らしさを感じる。
 ギイ、と軋ませる音色の向こうから、途端に冷たい空気が流れ込む。剥き出しのの素足は震え、爪先を揺らす。扉を開けた腕は再びに巻き付いて、冷たい空気の中を歩き始めた。周りの景色は見えないので、何処を歩いているかなど分かりはしないが、居心地の悪い静けさは全身で感じる。何処からかささやかな話す声が聞こえ、時折人とすれ違う気配もあったのだけれど、コツコツと響くルシフの靴の音の方が存在は大きい。
 互いに何も話さず、沈黙が続く。その間、幾つか曲がり角を進んだり、緩やかな階段を上ったりと、振動から伝えられる。結構な距離を歩いているように思うが、もう良いだろうか。がそうっと顔を起こして周囲を窺おうとすると、途端に「駄目」と一声落ちる。まだ駄目なのか、あんまり丁度良く揺られると眠くなってしまう。仕方なしに再び、頭を白猫に預ける。
 ようやく許可が下りたのは、それからまたしばらく歩いた後であった。

 空気が、不意に変わる気配を感じ取る。冷たく嫌な静寂から、濡れた草の、自然の匂いがした。もしかして、出入り口だろうか。

「――――お馬は、外に出て左手に繋いであります」

 抑揚のない、低い声。ルシフのものではない。この場所の、関係者だろう。
 両腕から片腕に抱え直された時、は伏せた顔を起こした。頭から被せられたコートを、こっそりと指で割る。ルシフの頭の向こうに見たのは、夕焼けの朱色の光の差した、意外にも明るい回廊だった。何処か冷気の満ちる妖しさを感じるので、美しいとは言い難いけれど。それから、は左隣についた――己を抱える白猫を見た。丁度仮面を外すところで、彼は白い毛が生える長い指を仮面に引っ掛けると勢いよく外した。露わになる、あのシュッとした綺麗な白猫の横顔。細いひげがの左頬をくすぐったく掠める。その仮面を、ルシフは影の中で佇む人物に手渡すと、開かれた扉を迷わず潜り抜けた。
 こうして、至極あっさりと、市場の開かれていた会場を去ったのだった。はその建物を、ほんの少し一瞥しただけで、何時までも見る事は無い。を抱えるルシフも、歩みを決して止めなかった。


 ようやく張り詰めた肩が緩んだのは、建物から離れ馬の嘶きが耳に届いた時だった。思わずほうっと大きな溜め息をついたのは、気丈に振る舞っていた反動だろう。

「もう良いよ、お疲れ」

 ルシフより声を掛けられ、はコートをむんずと掴んで引き下ろした。閉塞した空気が開放され、視界もようやく全て広がる。安堵するがふと視線を下げると、向かい合うような形でルシフの顔とぶつかった。茜色に仄かに照らされる、純白の白猫。汚れ一つない柔らかな短毛の猫は、三角の耳としなやかな細いひげを揺らして、を見つめている。蒼と金の、綺麗なオッドアイ。記憶の少年とはすっかり身なりが変わったけれど、その瞳は同じだろう。けれど現在の方が、ずっと洗練された美しさが兼ね揃えられている。
 そんな綺麗な瞳が、余所見をせずに真っ直ぐに眼差しを落とす。息が掛かるほどの距離にある事にも気付き、何となく気まずさからは顔を逸らした。

「お、下りるよ、もう平気」

 は突っ張るように腕を伸ばし目の前の胸を押したが、ルシフの腕は巻き付いたまま離れなかった。それどころか、を抱え再び歩き出す。

「裸足だろ、足が汚れる」
「でも」

 私は、貴方に買われたし――――。
 は言い募った。けれど、ルシフは「今はその話は必要ない」と遮るように短く言って、腕の力を強めた。屈強さはないけれど、女にはない逞しさを秘めたそれ。ぎゅっと締められた腰と足に、はうぐっと息を漏らす。
 ルシフの涼しげな白猫の横顔から、何を伝えたいのか分からず、困惑が晴れる事もない。は結局、そのまま抱えられる事となった。

 斜陽の照らす、茜色の風景。何も知らなければ、庭や木々に囲まれた綺麗な西洋館の風貌だとも思ったけれど、その実態は怪しい市場の開かれる会場だ。もう今後見る事はないようにと願うの耳に、馬の嘶きがより強く響く。繋ぎとめている小屋が近付いてきたようだ。
 身体を捻じり、ルシフの向かう先を振り返る。柵で区切られた小部屋には何頭もの馬が佇んでおり、その内の一頭へとルシフは歩み寄る。茶色い栗毛をした馬で、ルシフを見ると「ようやく来た」とばかりに嘶いた。

「ルシフの馬?」
「正確には、商会の馬だ」

 ……商会? は再び顔を前に戻す。ぶつかったオッドアイは、悪戯っぽく細められていた。「後で話す」ルシフはやはり説明せず、すたすたと歩みを進める。彼は小屋の中へと入り、馬の身体の横で立ち止まると、をその背に乗せる。目線がさらに高く持ち上げられ驚いている間に、ルシフは柵を外して馬を外に出した。そして、ルシフもその背にひらりと跨った。
 当然、馬の背は一つなので鞍も一つ。コートを肩に掛けるの背面に、ルシフは座った。そして、ひょい、とを膝上に抱え手綱を握る。今度は、ルシフのお膝の上に横抱きである。は髪を翻らせて振り向いた。

「何? こうするしかないだろう」
「いや、そうだけど……わッ」

 急に馬の蹄が進む振動に、は小さく声を漏らし、反射的にルシフの服を掴んだ。
 はたと己の行動に気付き、はバツが悪そうにその顔を見上げる。しわを作るほどに握り込んでしまった手のひらを、ぎこちなく離す。けれど、それを拒んだのは……ルシフであった。離れようとするの身体を、片手で抱き込んで膝上に固定する。

「……そのまま」
「えっ」
「掴まっていて、落ちないように」

 此処から。
 そう言いながら、彼はぎゅっと抱き込んだ。の頬と身体がぶつかったのは、しなやかな細身の外見に反し硬い胸だった。まあ、確かに馬上であるし、危ないし。は困惑の晴れぬ頭で何とか意図を汲み取って、ルシフの身体にぎこちなく寄りかかる。しかし、何だか奇妙な状況である。ともかく、様々な事に対して。はっきりと言えないのは、本人も混乱から回復していないせいである。
 ルシフは、の頭上で息を吐き出した。静かな息遣いは、の混乱からは対極の位置にあるようだった。
 言いたい事は、山ほどあるのに。ふわりと包む温かさに、の目が細められてゆく。緩やかに閉じられる唇から、言葉ではなく力の抜けた呼気が落ちる。あの場所で気丈に振る舞い続けるのは、存外体力と精神力を大いに削ったらしい。目の前にあるのは、薄汚い野良猫の少年ではなく、記憶の彼と同一人物であるのか疑わしくなるほど優美な白猫の男性で、ほとんどもう他人と言っても良いかもしれないけれど。既知の人物であるというだけで、距離感が分からないまま安堵を感じたのも事実だった。

 ゆるりと歩いていた馬の蹄は、次第に駆け足になってゆく。その振動たるやとても寝れるものではなかったはずなのだけれど、の瞼は重く閉じてゆき、くたりと頭を白猫の胸に預けていた。

「寝ていれば良い。絶対に、離さないから」

 ルシフの言葉は、ほとんどには聞こえなかった。けれど、懐かしい音が聞こえた気がした。ゴロゴロと、喉を震わす音色。野良猫の少年が、上機嫌な時には良く聞かせてくれた、その音が。
 懐かしさか、安堵か。どちらにしても場違いな感情を一片抱き、は多くの【何故】と共に意識を薄く落としていった。