花に白猫(2)

 あっという間に時間は過ぎ――――その日を迎えた。
 日頃の感謝と想いを伝え合う特別な日、《花飾りの祝い日》がこの街でもいよいよ始まる。



 街全体を着飾らせて迎えた《花飾りの祝い日》に仕事なんて、あまりに野暮だ。
 とは、の雇い主でありルシフが唯一頭の上がらない、茶虎の猫獣人シズの言葉である。せっかくの祝い日を楽しまなくてはと、工房と店の営業は半日のみとなった。思うに祝日という大義名分をかざし、仕事したくないというシズの本音だと思うが、それに意を唱えるものは居なかった。そういう猫らしい緩さが、シズの良いところである。

 半日の仕事が終わった後、は昨晩のうちにせっせと作っていたクッキーを共に働く従業員とシズに贈った。それと同時に、も贈り物を貰う事となったので、大交換会とも言うべき光景が工房の中に広がった。
 気付けば、の両腕は贈り物で一杯となっていた。ほのかに良い香りを漂わすドライフラワーの包みだったり、飴玉だったりと様々であるが、まさか自分も貰えるとは思っていなかったのでとても嬉しい。分けてもらった紙袋に入れれば満杯になった。

「ありがとうさん。可愛いなあ、花の形のチョコクッキーだ」
「喜んで貰えたら嬉しいです。シズさんにはお世話になってますからね、増量してますよ」

 ふくふくとした茶トラの猫の顔が、嬉しそうに緩んだ。細められた瞳は三日月のように綺麗な弧を描いている。親近感を抱かせる仕草に、も笑みを浮かべる。

「一応調べたんですが、獣人って食べ物に関しては人間と同じで制限はないんですよね」
「あーそうだね、別にチョコ食ったからって死ぬなんて事はないし」

 好き嫌いは好みの問題だけだしね、と言ったシズに、は拳を握った。よし、なら問題なし。

「ルシフにも何か贈るのかな」
「はいっ」
「はは、だろうなあ。さん、近頃は随分とはりきっていたみたいだし」

 シズの言葉に他の従業員たちが頷いた。向けられる微笑ましそうな表情に、少々恥ずかしくなって頭を掻く。

「まあ、さんも分かりやすかったけど、ルシフはもっと分かりやすかったなあ」
「え?」
「ああ、いや、こっちの話だ。ともかく、花飾りの祝い日、あいつとゆっくり過ごしなよ」

 は少しだけ首を傾げたものの、はい、と大きく頷く。シズたちに見送られて工房を後にしたは、足取り軽く自宅へ戻った。

 は半日上がりとなったけれど、商会勤めのルシフは今朝、帰りは普段よりも少し遅くなるかもしれないと言っていた。こういう祝日こそ稼ぎ時らしい。
 それはつまり、ルシフが帰ってくるまで、彼のいない時間はたっぷりとあるという事になる。は上機嫌に微笑む。これから少しだけ豪華な夕食を用意するという大仕事が残っているのだ。それに、食事だけでなく、彼へ渡す贈り物の最後の準備も。

 は今、自身でも驚くほどにはしゃいでいた。これまで何度もその空気を感じて眺めてきた、お馴染みの祝日のはずなのに。心から思う共に過ごしたい大切な存在が居るからだろう。
 華やかに飾られた街並みと、通りに並ぶ花々の香りを含んだ空気に、の蜂蜜色の髪が軽やかに跳ねた。


◆◇◆


 普段よりも格段に賑わう着飾った街へ、そっと夕暮れの光が被さる。空の果てから広がってゆく藍色が、日の入りを告げていた。
 にとっての祝い日の準備が終わったのは、ちょうどその頃であった。

「――――どうよこれ、私の技術の結晶」

 他に誰もいないのに、は自らの腰に両手を重ね満足げに呟いた。
 普段の食事を取るテーブルは、整然と並べた銀食器と、祝祭の象徴である赤色がおしゃれな小さなフラワーアレンジメントが配置されている。これみよがしに飾りつけてはいないが、普段のテーブルが華やかさを纏った。
 今は空の食器たちが並んでいるだけだが、ルシフが戻ってくるだろう頃に料理を温めて並べ、祝祭の食卓の完成だ。厨房には盛りつけを待つ鍋などがあり、ふわりと香りを漂わせる。
 それだけで、青色のアクセントが光るモノクロームで統一された上品な内装は、普段よりも少し特別なものに見えた。

 伊達に下働き生活が長かったわけではないが、その達成感は言葉にしがたい。そして同時に、期待とほんの少しの緊張がの胸を鳴らす。
 シフも、喜んでくれたら良いな。
 そう思いながら大切な人の帰りを待つ時間は、不思議と、悪い気はしなかった。


◆◇◆


 頭上の空はすっかりと暗く染められ、存在を示すように輝く月が眩しい。
 祝日を迎えて着飾った街並みは華やかで、花の香りがそこかしこから漂っている。普段よりも浮き足立つ空気を感じながら、通りを行くルシフの足取りは立ち止まる事はない。コツコツと鳴る革靴の踵は、先を急ぐようにその爪先を運ばせた。
 ルシフは、今一度懐の懐中時計を開く。とりあえずは、間に合うだろうか。安堵をこぼすと同時に、踏み出す一歩は大きくなる。それでも決して咳いた心は気取られないよう、優雅な姿勢は崩さない。それはきっと、猫の性分なのだろう。

「よ、ルシフ。今から帰りか?」
「あれ、シズさん。こんばんは」

 細い路地から出てきた同じ猫獣人――シズが、軽く手を上げた。ルシフは会釈を返す。近づいてくる彼からは様々な食材の匂いがしたので、すぐに外食をしてきた事を理解した。

「お仲間と夕飯でしたか?」
「ああ、猫仲間の奴らとな。ルシフはようやく帰りみたいだな」
「ええ、ようやく」

 本当に、ようやくだった。どっと肩を落とすと、シズが声を上げて笑う。

「稼ぎ時だもんな、《花飾りの祝い日》は」
「ええ。商品を売るため、あの手この手で客を寄せ売りつける激戦日です」
「一気に夢がなくなったな」

 シズは肩を竦めた後、「でも」と含みをこめて言った。

「仕事は終わったんだ。商人としてじゃなくて、個人としてここからは楽しめよ」
「ええ、もちろんです」

 シズは瞳を猫の爪のように細く細く閉じ、にっこりと笑う。そしてすれ違いざまにルシフの肩を軽く叩き、祝日を祝ってまだまだ賑わう明るい通りへ踏み入れた。ルシフは目的地に向かおうと再び爪先を進めたが――――。

「ああ、そうだ、ルシフ」

 シズに呼ばれ、ゆるりと振り向く。その時、何かを放り投げられ、反射的に片手を伸ばし受け止める。握り締めた白い手のひらを広げると、ごく小さな透明な袋が収まっていた。ピンクのリボンで閉じられたその中には、飴玉が四つ。

「さっきお店で貰ったんだ。ルシフにやるよ。数もちょうどいいし、さんと食べてくれ」
「ありがとうございます。感謝の贈り物ですか?」
「ぶは! ちゃんとお前の家に送ってあるけどな。まあ、そう思ってくれても構わないよ」

 ルシフは小さく笑い、飴玉の包みをコートのポケットへねじ込んだ。

「ありがたく頂きますよ。俺にはこれぐらいがちょうど良い。それと、シズさんのところにも送ってありますからね」
「お、ありがとな。後で見させてもらうよ」

 シズは片手を上げ、今度こそ人通りの中へ消えた。さんによろしく言っといてくれ、という言葉を残して。
 同じ猫同士となると、これぐらいのフランクさでちょうど良い。やれ取引先の挨拶、やれ同業者への日頃の御礼……そういう職柄なので仕方ないが、シズのような気楽に付き合える相手は本当にありがたい。元来、猫というのは身の丈に見合わない夢を追いかけたり、身を崩してまで努力はしない生き物なのだ。ただ、例外というものが、ルシフには存在していた。それだけだ。
 ルシフは踵を返し、急ぎ足で通りを進む。日頃の感謝と想いを伝える世界の祝日――花飾りの祝い日。これまでは稼ぎ時かもしくは面倒な日という認識であったが、今は違う。


 ――――今年の祝い日は、すごく楽しみ。ルシフが居るもの。


 隣に彼女が居る間は、どうでも良い日ではなくなるのだろう。少なくとも、毎年見ていたはずの着飾った街並みが特別なものに見えてしまうくらいには、自分は今浮かれているらしいのだから。
 ルシフは小さく笑いながら、先を急ぐ。自宅に戻る前に、寄らなければならない場所があるのだ。人並みをすり抜ける白猫は、優雅な白い尾を上機嫌に立てた。


◆◇◆


 リビングの壁に掛けられた時計の針が、八時を少し過ぎた辺りを指し示す。
 そろそろだろうか、と静かに待つの耳に、その音がようやく聞こえた。

 ガチャリ、と玄関の扉が開かれる音。次いで、待ち人の声で紡がれる「ただいま」という言葉。

 はソファーに座っていた身体をぱっと立ち上がらせ、玄関へ駆けた。これではまるで犬のようだと自身で思いながらも、軽やかな足取りは止められない。

「ルシフ、おかえり」

 コートを脱いでいる白猫の獣人が、出迎えたへと視線を向ける。黄色と青色を宿すオッドアイが緩やかに瞬いた。心なしかくたびれたような気配がほんの僅かに漂っている。出勤する前に嫌々ながら注入していった気合いの類は、どうやら日中の間に全て散ったようだ。品々を扱う職業なので、こんなイベントの日ともなれば大変なのだろう。
 が労うと、ルシフの両腕がおもむろに伸びる。するりと腰に回る腕に抱きすくめられながら、頭の天辺にぐりぐりと頬擦りをされる。

「はあ……ようやく終わった」
「ん、お疲れさま……んぶ、ちょッ」

 頭だけでは足らなかったようで全身もみくちゃにする抱擁を受けたが、いつもの事なのでは気にはしなかった。僅か数秒という短時間の間でボサボサにされた自慢の金髪を手ぐしで整えながら、はルシフを伴いリビングへ向かう。
 踏み入れた時、ルシフの爪先が止まった。しなやかな上背に乗っかる白猫の頭部には、驚きの色。あの綺麗なオッドアイなんかは真ん丸に見開いている。
 彼の視線の先には、準備したも大満足の食卓がある。仰々しく飾ったわけではないが、ほんのちょっぴりおしゃれに装いを変えたテーブルは、普段のそれとは思うまい。は悪戯が成功したような気分になり、ふふ、と笑みを綻ばせる。

「どうよ、長年の技術の結晶。自信作!」
「いや、驚いたよ、うん。は本当に、下働き生活の長いプロだったんだな」
「え、そっち?!」

 いや、確かにホウキとバケツを持って走り回っていた方が似合うとはよく言われていたが。

「いや……冗談だよ。自分んちの食卓がこんな風になる事は今までなかったから」

 驚いて丸くなった猫の瞳が、緩やかに平素の形へ戻る。けれどその中には、上機嫌な色が確かに浮かんでいた。

「そんなに、悪くないでしょ?」

 美しい白猫を見上げ、は悪戯っぽく微笑んだ。彼も同じ笑みを浮かべると、「悪くないな」と楽しそうに呟き、優雅な尻尾をそっと足首に絡めてきた。その仕草は、いつか見た少年のように無邪気であったと、はふと思った。
 彼も喜んでくれているようだ。それだけでも、はとても嬉しくなる。

「もうね、温めてあるの。直ぐに準備できるから」
「ゆっくりで良いよ、ちょっと仕事着を脱いでくるから」
「あいよー」

 出番を待っていた料理を盛り分けて食事の席を整えた後、私服に着替えたルシフが戻ってくる。何かのフルコースかというぐらいに気合いのこもった料理を、ルシフは驚いたように見下ろした。

「これはまた……外食と変わらないな。あ、そうだ、これ」

 脇に挟んでいたものを、ルシフはおもむろに差し出す。薄紙に包まれたそれは、ボトルだった。中身を取り出せば、果物のジュースが現れる。商会から貰ってきたものらしい。
 そして、そのついでにの手のひらへ乗せられる、飴玉の袋。

「帰る途中で会ってさ、シズさんから貰った。まあ、あとで食べてよ」
「ふふ、可愛い……あ、シズさんと言えば祝い日の贈り物が届いたよ!」
「ああ、そう言ってたな。あとで開けてみよう」

 ルシフはそう告げた後、椅子に近づきそっと背もたれを引いた。どうぞ、と向ける手のひらの仕草と佇まいは、あまりにも絵になっている。なんとなく気恥ずかしさを感じながら、は椅子の前に立って腰を下ろす。引かれていた椅子が、絶妙なタイミングで戻された。
 ルシフはの手からボトルを取り上げると、グラスに注いで差し出してきた。甘い果物の香りを放つ、透き通った赤い色。が受け取ると、ルシフもその向かいへ腰掛けた。

「まあ、ワインじゃないけど、こっちの方が飲みやすいでしょ」
「うん、美味しそう」
「……
「うん?」

 ルシフは少し視線を泳がせた後、オッドアイを真っ直ぐとへ向け、囁くように告げた。

「……準備、色々ありがとう」
「ふふ、私が好きでやった事だよ。どういたしまして」

 作り上げた食事を、ルシフは綺麗に平らげていった。見た目はほっそりとした美しい白猫、けれどさすがは運動量も多い獣人の男性だ。褒め称える言葉こそは「うん、美味しい」という一言だけだが、それだけでも十分に嬉しいし、フォークがすいすい進む様子は言葉以上に勝る。
 フルコースのように並んだスープやサラダ、メインディッシュの魚料理など、どれもお気に召して頂けたようで、あっという間になくなる。

(なんか、幸せだなあ)

 《花飾りの祝い日》効果だろうか。特別な日に大切な人と向き合って食事をする幸福が、じわじわとの心をくすぐる。
 貧しい家のために幼い頃から働き尽くめで、家族で祝った記憶なんてない。こういった催しには準備する側として参加する事が圧倒的だったし、華やかな空気を感じ取るだけで自らが祝う事など一度としてなかったと思う。
 大切な人たちと祝い日を過ごすのは、幸せよ――――昔、そんな言葉を口にした下働き仲間が居た。その時は、そんなものなのか、とぼんやりと思っていたが、今なら分かる。

 辛い孤児院生活で心の支えになった、汚れた野良猫の少年。
 今は、立派な商人となって探し出してくれた、美しい白猫の青年。

 初めてこの日が幸福だと思えるのは、やはり目の前の彼のおかげなのだろう。ぱくぱくと料理を食べる彼は、そこのところ、知っているのだろうか。

(たまには……声に出して、言わないとね)

 は心の内で、小さく決意を新たにする。花飾りの祝い日の贈り物は、きちんと用意してあるのだ。はグリル焼きをした魚の切り身をフォークで取り、口に放り込んだ。



2016.04.02