花に白猫(3)

 食事を済ませ、後片付けを二人で終わらせた後。
 たまには俺が淹れてあげようと言ってルシフが用意したコーヒーを、同じソファーに腰掛けて飲んでいた。
 夜の静けさが心地よい、穏やかな空気を感じる。口に含んだコーヒーを飲み込むと、はほっと安堵した。

「……初めてだなあ、こんな気分」

 が呟くと、ルシフの横顔が動く。はやや気恥ずかしそうに笑みを浮かべると、カップの中へ視線を落とす。

「子どもじみてるって、ルシフ思ったかもしれないんだけど、私ね、たぶんずっと」

 ずっと――――憧れてたんだよね。
 はもう一度、コーヒーを口に含む。
 幼い内から奉公生活で、家族の思い出なんてろくにないまま両親を失い、孤児院へ入った。裁縫の習い事を人一倍のめり込んで、必死になって覚えて、その後お針子の仕事を見つけた。何とか一人で生きていけるようになり、それからはずっと、手仕事を磨いていた。前だけを見据えてきた十八年間、強かに生きてこれたと自身も思っている。
 けれど、本当はこういった事に憧れていたのだ。
 誰かを想って、誰かに心を伝える、世界で一番大切な日。幸せそうな家族や恋人たちと擦れ違ってきたが、己の生い立ちを恥じた事や悲しくなった事は一度もない。自分が惨めだと思って泣きじゃくっていたのは、孤児院にやって来た最初のうちだけだったのだから。
 けれど。
 擦れ違う彼らの姿を眺め……羨ましく感じなかったとは、決して言えない。
 両親の手を、左手と右手で強く握って歩く、小さな子どもたち。彼らが感じているだろう喜びを、は幼少期に一度だって触れた事はなかった。華やかな空気で包まれる街並みを無関心に眺めていたのは、そういう思いが振り払えなかったからだろう。

「……でも、今日初めて、分かった気がする」

 こういう気持ちで、誰もがこの日を迎えていたのだろうか。

「……なんて、やっぱり子どもっぽいね」

 は照れ隠しに少し冗談っぽく笑う。隣に腰掛けるルシフは、その言葉を笑わず、静かに三角の白い耳を傾けていた。
 ふと、ルシフはカップの中身を一気に飲み干し、ローテーブルへ空になったそれを置く。その後、静かな声音で話し始めた。

「……俺はさ、開発区なんて名ばかりのスラムで生まれた。街の最下層の連中が集まる、あのきったないスラムでさ」

 生まれたというより、生み落とされたと言った方が正しいか。ルシフはそう続けた。

 ルシフに物心がついた時には、既に親の姿はなく、それどころか記憶の欠片すらない。同じ汚れた格好のスラムの子どもや、面倒を見てくれる大人が側に居ただけだった。
 親はスラムで生んだ後、さっさと雲隠れしたか、あるいは生むと同時に命を落としたかしたのだろう。
 もともと猫という生き物は、どのような環境でも逞しく生き延びる、野生の本能が根強く残る生き物である。それはその血を継ぐ猫の獣人も同じであり、子猫であってもルシフは見事に環境へ適応した。獣人という人と獣の性を持つ屈強な種族の利点も、うまい事暮らしを手助けしていた。幼い内から開花したその身体能力で、ルシフはスラムという無法地帯をその身一つで切り抜けてきた。

 親の顔を知らないと、そもそも何の感情も抱かない。そんな事より日々の食い物に関心の天秤は傾く。少なくともルシフの場合はそうだった。
 スラムという環境で生きてきた彼は、他の同年代の子とべれば性根は逞しく、早熟していた。
 けれど、知らなかっただけでもある。何もかも知っているように振る舞って、その実、本当は何もかも知らなかった。《花飾りの祝い日》の意味や理由すら知らないような、どうしようもなく無知で愚かなクソガキだったのだ。
 孤児院に食い物を強請りに行ったあの日、外で泣きじゃくっていた蜂蜜色の金髪を持つ少女に出会わなければ。スラムでその日暮らしをしていた汚い野良猫は、今もきっとそこに居続けたに違いない。

「……正直、今までも、この日を特別視した事はないよ。仕事が忙しくなるなあぐらいで」

 ただ、何も持たなかったクソガキが、あの少女欲しさに一端の雄へ変わったように。
 今、隣に座る彼女が喜ぶのであれば、それはルシフにとっても喜ぶべきものになる。

「あんたが嬉しいんなら、俺も嬉しいよ」

 ルシフがそう告げると、は僅かに慌てた仕草を見せる。
 彼女の生い立ちも、ルシフに負けず劣らずなかなかのものだろう。それが起因し、彼女もまた同年代の娘よりも落ち着いているが、何処かに残る少女めいた危うさや幼さはその横顔に窺える。
 の可愛らしい憧れを、笑うつもりはない。むしろその憧れの中に自分の姿を置いてくれているという事実に、らしくもなくルシフの心は満たされる。

 自分にとっての《特別》とは、果たして何なのか。

 この先も変わらない事をその蜂蜜色の金髪で再確認し、ルシフは小さく笑うのであった。



「……そんなわけで」

 ルシフはそう一言置くと、自らの背中から何かを引っ張り出し、へと差し出した。見下ろした彼の手には、綺麗なラッピングが施された長方形の箱。上品な赤い花飾りとリボンが目を引く、こじんまりとした箱だ。

「え、これ……?」

 が何度も見比べていると、耐え切れなくなったのか「早く受け取りなよ」との手のひらへぽんと乗せる。気忙しく押しつけるような仕草だった。
 まじまじと見下ろすへ、ルシフは珍しく小さな声で呟いた。今日はそういう日なんだろう、と。
 その時、はようやく手のひらの上の箱が何なのか理解した。

「え、これ、え」
「なに、俺が出しちゃ悪いってか」
「ち、ちが、そういうわけじゃないけどッ」

 手のひらに乗る軽やかな重みが、じわじわと喜びに変わってゆく。は自然と唇を緩ませ、淡く色づいた笑みをこぼす。

「も、貰えるなんて、お、思ってなかった……」

 今日はそういう日だと以前から知っているはずなのに、自分が贈り物を受け取るという事を、は全く想像していなかった。職場の先輩方や日頃お世話になっているシズから貰った時も大層驚いていたくらいなのだ。
 けれど、ルシフから差し出された時、それ以上に驚き、そしてそれ以上に嬉しく感じた。
 ルシフは、怒っているわけではないだろうが、少し拗ねたような声で「さすがにいくら俺でも忘れないから」と呟きをこぼす。

「あ、あり、ありがとう」

 は陽向に咲く花のごとき笑顔を浮かべ、心から喜びを告げた。
 まだ中身を見ていないというのに、まるで宝物を受け取ったような喜びようである。真正面から裏表のない微笑みを浴びせられ、ルシフは気忙しく視線を動かすばかりだった。
 そんな彼を見て、はますます笑みを深める。優雅に立ち振る舞い自信に満ちている普段のルシフとは明らかに対照的だ。そわそわと落ち着きがなく、あの優美な尻尾もあちらこちらへパタパタと跳ね回っている。無関心を装って「別に」と呟いてはいるけれど、形ばかりの素っ気なさなんてちっとも怖くない。ルシフは天の邪鬼な面もあるから、好意の裏返しだとにはお見通しだ。

「開けてみても良い?」

 が尋ねると、ルシフの頭はこくりと頷いた。は持っていたままだったカップを置き、慎重な手つきで飾りとリボンを箱から取り外す。そんの蓋を開けると、中には髪留めが二つ並んでいた。髪を束ねて結ぶゴムタイプと、挟み込むクリップタイプのものだ。どちらにも青と白の花のモチーフが飾り付けられていて、可愛らしいけれど上品さも含んでいる。

「作業の時、いつも結んでるだろ」

 ルシフの白い指が、の金髪を示した。
 の髪は背中を隠すほどの長さなので、細かい作業をする時は髪留めが必須だった。一度は切ろうとも思ったが、ルシフの切るなという一声によって鋏はいつも毛先を整える程度にしか入れていない。彼は長い髪が好きなのかと思っていたので、も気にはしていなかった。
 そういえば、こないだ安物のヘアゴムを盛大に引き千切った。この日の準備を進める作業の最中だったので余計には騒いでいたのだが、ルシフはそれを見て選んでくれたのかもしれない。
 簡単にちぎれる安物とは違い、どちらもしっかりとした作りをしている。それに……何度見ても、綺麗だ。結べれば何でもいいという考えもの中にはあるが、綺麗なもの可愛いものを好む心もしっかりとあるので、これは嬉しい。
 そして、さすがは商人だとも思う。獣人の男には無縁な品だというのに、よく的確に選べたものだ。

「ありがとう、すごい綺麗」
「……気に入ったか?」
「うん、すごく」

 ルシフの、片目の色みたいで。
 浮かんだ言葉は、の胸の中だけで響いた。
 その途端、安堵したようにルシフの身体から力が抜ける。気忙しい雰囲気もなくなり、いつもの落ち着きが彼に戻った。「それならいいよ」と呟く言葉は短いけれど、笑みが含まれているのをは感じ取った。そして何事もなかったように、長い尻尾がゆったりとの足首へ巻き付く。指を絡めて繋げるように、甘くゆったりと。そのふわふわな質感は慣れたものだが、やはりくすぐったい。

「……でも」

 どうしよう、少し、困った。は綺麗な髪留めを見下ろし唸る。

「どうかした、
「えっとね……」

 は少々躊躇いながらも、髪留めの入った箱を丁寧にローテーブルへ置き立ち上がる。不思議そうなルシフの視線を背中で感じつつ、キッチン用具が納められている棚の一角に隠していたものを取り出す。はそれを両手で持ち、のろのろとルシフのもとへ戻った。向けられる視線に居心地の悪さを覚えたのは、あんまりにも素敵なものを貰ったからだろうか。

「私もね、ルシフに用意してたんだよ。今日の、贈り物」

 ルシフのオッドアイが、きゅうっと真ん丸の形へ変わる。瞳孔が小さくなり、ついでに三角の耳が真っ直ぐと立ち上がる。

「でも……なんかあんまりにもルシフのが素敵すぎて、あの、つり合わない、かも……」

 準備した時は満足したのだけれど、だんだんと不安になってきた。ルシフが突っぱねるはずがないと分かっているのだけれど、髪留めがあんまりにも素敵で……。

「……俺にも?」
「う、うん、でも」
「見せて」

 はうっと声を詰まらせたが、ルシフの隣におとなしく腰掛ける。そして、両手で持っていたものをおずおずと差し出した。
 レースのリボンで結んだ、赤い小包。
 ルシフの視線はそれに向けられていた。

「この匂いは……チョコかな」

 薄いピンク色の鼻が、すん、と音を立てる。さすが獣人、袋に入っていても分かるらしい。は緊張の面持ちで頷いた。
 色々と考えたりはしたのだが、結局慣れないところに手を出しても自分のセンスでは失敗しそうな気がしたので、王道のチョコレート菓子の贈り物を選んだ。獣人は種族によって好むものや文化などに多少の違いはあるが、口に入るものは人間と変わらずチョコレートだって食べられる……らしいので問題はないはずだ。事実、日常の食事でも何でもパクパク食べていた。
 ただ、手作りで多少不格好だけど。
 味は問題ないはずだと、は忙しなく喋った。

「上手く出来たと思ってたけど、その、つ、つり合ってなかったらご……」
「ちょーだい」

 ごめん、という言葉に被さったルシフの声に、は口を閉ざす。そろりと見上げると、力強い――――いや、強すぎるルシフの目がそこにあった。
 いわゆる、ガン見というやつだ。
 しかも、少し瞳孔が開いており、背後に“カッ”という擬音の文字が見える。ご丁寧に、手のひらをへ差し出しながら。

 かつて、この美しい白猫がここまで我欲を剥き出した事はあっただろうか。

「えっと……」
「くれないの?」

 途端、しょぼくれた雰囲気がルシフから滲む。は慌てて首を振ると「あげるよ!」と半ば叫んで赤い包みを彼の手のひらへ乗せた。つい先ほどまでの躊躇いが嘘のような潔さである。

「ん、開けていい?」
「う、うん……」

 ルシフの長い指がリボンを解く。その中から、透明なフィルムで一つ一つ包んである、トリュフチョコを摘み上げた。
 仕事柄、ルシフは恐らくこれよりも豪奢で素敵なチョコレート菓子を見ているだろう。ちょっと不格好なのは大目に見て貰いたいな、とが思っていると。

 ルシフはそのまま透明な包みを開き、口の中に放り込んだ。

 は思わずあっと声を漏らし、ルシフを見上げる。彼は黙々と咀嚼し、ゆっくりと飲み込んだ。

「うん、美味い」

 瞬いたオッドアイが、三日月のように細くなる。そしてもう一粒、再び口へ入れた。チョコレートの甘い香りが、ほのかに空気を染めてゆく。

「言っただろ。俺は、だから特別なものになるって」

 ルシフの言葉と共にこぼれた吐息は、ひどく甘かった。チョコレートの匂いのせいだけではないのだろう。

が作ってくれたって事が、俺にとっては一番だよ」

 あまりにもサラッと、ルシフは言い放った。
 誰が見ても美しいと称するだろう真っ白な美猫は、たまにこういう風に、やたら男らしくなるから困る。
 の頬に、喜びと気恥ずかしさの混ざった朱色が広がる。誤魔化そうとしたが、この距離では隠せないだろうし、何よりを見下ろすルシフは上機嫌に笑っている。

「……美味しい?」
「ああ、とても」
「……それなら、良かった」

 せめてもの悪足掻きにと、は勝ち気な仕草で微笑んだ。

「なんなら、食べてみれば?」
「ええッ? ルシフへの贈り物だから、ルシフが全部食べていいよ。私、製作者だし」
「細かい事はいいから」

 ほれ、と獣の白い指先がトリュフチョコを一粒摘み、の唇へ押しつける。反射的に開いた口の中へ、ほどけるような甘さが広がった。

「……自分で言うのもなんだけど、美味しい」

 ふふ、とは唇を緩ませ、もくもくと咀嚼する。形は不格好だが、悪くない味だ。
 ルシフはそうだろうと言わんばかりに頷き、また一つ指で摘む。その速度から気に入ってくれたという事が分かり、贈り物は成功したのだともようやく安堵した。

 口に含んだチョコレートが、喉を甘く伝い飲み込まれる。口内にものがなくなった後、はこほんと一つ咳払いをした。少し大きく、ルシフに聞こえる大きさで。

「えっとね、ルシフ」

 おもむろに居住まいを正したへ、ルシフが不思議そうに顔を向ける。

「今日がそういう日だから、というわけでもないんだけど、いつも思っている事を言います」

 噛みそうになる声を、は何とか押し出す。

「今が楽しいのとか、あのオークション会場の時とか、もっと前の孤児院暮らしの時とか、全部ルシフが居てくれたおかげだと思ってます。ありがとう」

 心臓がドキドキと音を立て跳ねる。は一度大きく深呼吸をした。

「私は……今も昔もルシフが好きなので、これからも一緒に居たい、です。ので、これからもよろしくお願いします」

 は何とか最後まで言い切り、ふうっと息を吐き出す。
 前日の内から、絶対に彼へ伝えようと思っていた言葉は、噛まずにきちんと声に出来た。その達成感に、晴れ晴れとした笑みがに浮かぶ。
 しかし、ルシフを見ると――――彼はひどく驚いた顔つきで、無言になっていた。

「ちょ、ちょっと、やだ、だ、黙らないでよ」
「いや、それは、ちょっと」

 達成感が、羞恥心で塗り潰されてゆく。カアッと赤く染まる頬に熱まで宿る始末だ。

「ひ、日頃の感謝とか……わ、私も、言葉にしようかなって」
「感謝、ていうか」

 ルシフはがしがしと頭を掻いた。頭の毛皮がケバケバに逆立つほど、乱暴に。

「ずるいだろ、それを言うのは」
「ずるいって、私、変な事なんて」
「俺の事……ッ」

 ルシフは最後まで言わず、途中で己の言葉を噛み潰した。そして勢いよくチョコレートの包みをローテーブルへ置くと、身体の位置をずらして距離を詰める。とルシフの間に、チョコレートの濃い香りが漂った。

「もう一回、言って」
「え?」
「今も昔も俺の事が、ねえ、その後の事」

 は一瞬考えたが、すぐに思い出した。その時には、ルシフの両腕がの腰へ回り、じわりじわりと僅かな空間が侵されていた。
 何度も声をまごつかせた後、は消えてしまいそうな小さな声で囁いた。

「ル、ルシフが、好きです……」

 頭上から真っ直ぐと見下ろすオッドアイが、微笑むように瞬いた。

「……聞こえなかった、もう一回」
「! それ絶対、嘘でしょ!」
「獣人の耳もそういう事がある。ねえ、もう一回」
「嘘だー! 聞こえてたくせにッ」

 もがいてみたが、抱きすくめる腕はあっさりと身動きを奪う。細い印象を与えるのに、そういうところはやはり男性であり獣人である。楽しそうに額を擦り合わせてくる白猫を、は唸りながら見つめる。

「じ、じゃあ、ルシフも言ってよ」
「……俺?」

 何故そこで予想外な事を言われてしまった顔をするのだろう。当たり前ではないか。羞恥心に炙られるのが私だけなんて、それこそずるい。はこっくりと頷き、ルシフの胸を軽く叩く。

「いや、俺は、普段から言ってるようなもんだろ……」

 ルシフはやや目を泳がせる。の足首へおずおずと長い尻尾をくるりと回す。

 ――――猫の獣人にとって、尻尾は求愛と愛情表現。

 知ってるけど! 知ってるけど!
 言っているようなものではあるが、実際に言っているわけではない。

 ルシフの腕の中から抜け出そうと身動ぎし……たが結局抜け出せなかったので、そのまま手を足下へ伸ばす。巻き付いているふわふわの白い尻尾を、やんわり掴んで持ち上げた。ぴくりと跳ねたそれは、今度は足首にではなく手首に巻き付いてくる。これだけ別の生き物のようで、少し笑ってしまった。

「言葉にしてくれても、良いと思います!」

 がそう言えば、珍しく、ちょっと困ってる雰囲気が漂った。けれど極上の美猫の風体は、それくらいではいささかの綻びも生まれないらしい。困ってもルシフは綺麗だと、関係ない事をは思い浮かべる。

「言葉……」
「そう、言葉」

 ルシフはしばし黙する。の手首に巻き付いた尻尾だけが、やわやわと動いている。

「……やだ」
「…………!!??」

 は目を剥いた。

 やだ、だと。言うに事欠いて、やだ、だと。

 の表情が、分かりやすく歪む。段々と据わっていくその目を前にして、ルシフからは慌てる様子は欠片ほどもない。はむっと唇を尖らせると、手首に巻き付いた尻尾を思い切り掴み、宙に放り投げた。さすがに驚いた顔をしたが(尻尾を巻き付ける習性を正面から否定したようなものなのだろう)、彼は楽しそうに笑う。

 何が楽しいんだ、女の子の多少の憧れを踏みにじったくせに。

、ほら、拗ねない。こっち見て」
「やだ、離して」
「悪かったって、冗談だよ」

 何が冗談だ――――と言おうとした時、目の前に白猫の顔が近付いた。細いひげが頬をくすぐり、唇をざらりとした舌が這う。甘い香りを纏った食むような口付けを不意に落とされて、驚いていると。

「――――愛してる」

 吐息が混じったルシフの声は、遮るもののない耳の中へ、風のように入ってきた。
 一瞬の静寂が、とルシフの間に交わされる。

「……いま、なんて」
「愛してる?」

 笑みを少し含んだ彼の声が、もう一度呟く。
 愛してる……愛してる?
 何度も反芻した末にようやく意味を理解し、の中に時間差で衝撃が落ちてきた。
 不機嫌だった表情が、あっという間に赤く染まって羞恥で歪む。人間という生き物は本当に分かりやすくていい。ルシフは内心でひっそりと笑う。

「ひ、いや、あの、え」
「何で驚いてるの。言葉にして欲しいって言うからしてみただけだけど?」
「ち、ちが、お、思ってたのと、ちが」

 は蜂蜜のような金髪を揺らし首を横に振る。自然と逃げ腰になっていた身体は、ルシフにしっかりと抱かれて両腕の中に閉じこめられてしまう。
 の頭の天辺に、ルシフの頭が擦り寄る。くつくつと笑う音が、目の前の豊かな毛皮の向こうから聞こえた。

「まあ……獣人にはあまり言葉で示すっていう事自体が少ないから。さすがに、ちょっとびっくりはしたけど」

 そういえば彼ら獣人が持つ癖や文化は、確かに行動によって伝えるものが多いような気がすると、は思う。

「でも……悪くはないもんだね、案外」

 言うのも、言われるのも。そう呟いた彼の声は少し気恥ずかしそうでもあり、嬉しそうでもあった。
 はもぞりと身動ぎし顔を起こす。額にふわりと口付けを落とされ、くすぐったさに肩を竦める。

 ――――ふと、とルシフの視線が静かに交わされる。
 ゆっくりと降りてきた白猫の顔を、はじっと見上げ、ごく自然に待った。瞼を薄く下ろし、唇を小さく開く。ふわりと被さった白猫の口付けは、チョコレートの匂いを纏いとても甘く感じた。きっとそれは自分もそうなのだろうと、は受け入れながらうっとりと身体を寄せる。

 ルシフの手のひらが、の背中から腰へと、そっとなぞって降りる。その優しい仕草にこぼれた吐息は、目の前の白猫に唇ごと吸われ、取られてしまう。
 人とはきっと違うのだろう獣の口付けは、にとってはもう慣れ親しんだ安らぎの感触だ。頬を掠めくすぐってくる細いひげも、指通りの良いさらさらな白い毛皮も、凛々しく美しい白猫の顔も、その中のオッドアイも、全て。
 全て――――。

「ルシフ」

 互いの顔だけが視界を満たすその距離で、唇が離れる。

「好き」

 を抱くルシフの腕に力が増す。至近距離で瞬いた美しいオッドアイに、熱情が浮かぶ。直後、再び注いだルシフの口付けは、その容姿に相応しい、食べてしまいそうな獣の荒々しさで満ちていた。

 の足首に巻き付いた尻尾を、今度は引き剥がさなかった。



次話、18禁ターンになります


2016.04.02